教区の歴史

教区の歴史

東京カリタスの家、ボランティア交流新年会での挨拶

2005年01月15日

2005年1月15日(土)於ケルンホール

 

東京カリタスの家の役員の皆様、職員の皆様、協力者の皆様、日頃の皆様の お力添え、ご協力を心から感謝申し上げます。昨年は本当に大変な年でございましたが、この新しい年が私たちにとって、すべての人にとって、本当に平和で健康に恵まれた年となりますように、心から祈っております。

あいさつですから、もうこれで終わりでいいとは思いますが、もう少し期待されているんでしょうか。私は準備をすると話が下手だと言われていますが、今日は全然準備をしてないので いい話ができるかもしれません。まず、申し上げたいことは、先ほどミサを捧げた4人のうち、2人はここにいますが、仕事があってここにいない2人は幸田神父とチェレスティーノ神父です。共に役員であり評議員です。幸田神父さんは評議員になったばかりですが、この度東京教区の補佐司教に任命されました。東京教区が任命したのではなくて、教皇様が任命なさいました。皆様に改めてご報告し、皆様のお力添えとお祈りをお願いする次第でございます、よろしくお願いいたします。

先ほど地下聖堂で申し上げたことを、もう少し言いかえたほうがいいのかと思います。いろいろなことをただ並べただけですので、少し話の筋をもう一回正して申し上げたほうがいいのでしょうか。あらかじめ小宇佐神父から、「信者でない方も何人も来られるので、そのつもりでお話し下さい」と言われたのですけれども、コロリと忘れてしまいましたので。私たちのこの団体はキリスト教を信じている団体ですが、ここにいらっしゃる方は必ずしも信者というわけではありません。ただ、私たちのしていることを 「良い」 と考えて協力していただいていると思います。お礼申し上げます。

キリスト教は世界で大きな宗教ですが、ほかにイスラム教もユダヤ教もあります。たくさんの神を信じる多神教もありますが、唯一の神を信じるというところから、一神教です。私は昨年、一神教を随分考えて、いろいろな機会に書いたり話したりしてきました。私たちはキリスト教ということで、イエス・キリストというお方を信じているわけです。ユダヤ人はイエス・キリストをメシアとしては認めていません。「なぜ認めないのですか?」と訊くと、「メシアが来たらもうこの世界は変わっているはずだ、こんなひどいことがあるはずがない」と。それがユダヤ人が信じるメシアではないかと思います。

こんなに世界中で悪いことばかり起こっている。戦争もあるし、災害も起こるし、貧しい人はどんどん増えていく。もし、メシアが到来したのなら、そういう問題を全部解決してくれる。そういうお方のはずなのに、そうならないからイエス・キリストはメシアであるはずがない、とこういうことですね。そう言われてしまうと、どうしたらいいのかな、とさっきお聖堂(みどう)で言ったのですが。たしかにイエス・キリストというお方は、2000年前に来ていろいろな人をお救いになりました。病気の人を癒されたとか、目の見えない人を見えるようにしたとか。それから悪霊に憑かれた人を今日どう解釈すればいいのかとは思いますが、私は悪霊の存在を信じてはおりますけれども、とにかく今日でいえばいろいろな精神的疾患、病気、あるいは心に迷いを持つ人が、今も変わりなくいて、皆さんはそういう人のために働いておられるわけですが、そういう人を(イエス・キリストは)癒し、「神の国は来た」と宣言されたわけです。 

「神の国」、というと分かりにくいですけれども、神の支配、もっと分かりにくいかもしれませんね。神様がお考えになっていること、神様のこうであるということが、実現している状態が「神の国」です。たしかに今の世界を見たら「神様がいるんだったらこんなことがあるはずがない」ということが多いわけで、神様を信じるということは なかなか難しいことではあります。よく信じられているなあ、と思いませんか?私は最初、信じるのが難しかったんです。若い頃ですが。そのうち当たり前になったのですけど。何しろ信じることを人に教えるという職業を選んでしまったので、自分で信じなければどうしようもないですよね。でも最近、大きな声では言えませんけれど――本当に信じるってどういうことなのか。私は本当に信じている、信じていることを皆に伝えようとしている。だけど「神様はいらっしゃるのに、どうしてこういうことがあるのですか?」と言われたときにどう答えたらいいのだろうか。それは信者になるときに考えた事なのですが、それが何十年も経ってまた同じ問題を考えているというのは、進歩がないのか、あるいは進歩してまたぐるっと出発点に戻って来たのか――と思っています。ま、こういうことは聖堂では言いにくいことなのですけれども。

ユダヤ教はナザレのイエスは偉大な人と認めてはいても、メシアとは認めていません。イスラム教は旧約聖書と新約聖書の福音書を自分たちの聖典・教典として認めています。そしてナザレのイエスは偉大な預言者と認めていて、「イエスの教えは全部守り行いなさい」としています。では、どこがキリスト教と違うのかといえば、最後に来た預言者ムハンマドが最終的預言者で、彼が一番偉大な預言者であり、彼の言うことが一番大切だ、というところです。ムハンマドは預言者ですけれども、私たちが信じているようなイエス・キリストの「神性」を(ムハンマドに)信じてはいません。そういう人ではない。神はお一人しかいないのだから、人間が神であるはずはない、というのがイスラム教の教えだそうです。でも、同じ教えを信じていて、イエスの教えは 守り行いなさいと言っておられるそうです。そう聞いております。

ですから、もっとキリスト教徒とイスラム教徒は協力できるのではないかと思いますが、現実にはなかなか難しいことがあるようです。イスラム教徒は本当に掟を守ることに熱心です。断食はしますし、1日に何回もメッカの方に向かって礼拝をします。また施しもする、そういう掟を守っています。東京教区に泉富士男神父という方がいて、この方はカトリックの司祭なのにイスラム教に大変詳しいんですね。イスラム教の話をきくと、学ぶことが多いと思います。

話を戻しますと、現実には今の世界にはいろいろな事があって、イエス様は限られた時、限られた人のために直接お働きになったので、それ以外の人のところにはいらっしゃらなかった。でも、教会をお作りになり、聖霊を派遣なさってその聖霊の助けによって、すべての人がイエス様の働きを行うことができるようにしてくださっている、ということが私たちキリスト教徒の信仰です。

そしてカリタスの家ですけれども、カリタスという言葉はラテン語でありまして、英語で言えばチャリティーのことです。聖書に出てくる言葉ではアガペーですね。神の愛をアガペーといって、この神の愛は聖霊によって私たちに注がれます。また、聖霊はキリスト教徒と自覚している人だけに働くのではなくて、すべての人に働きますので、自分でキリスト教徒だと思わない人も、知らずに神の霊、聖霊の働きを受けて、神の業を行うことができるし、行っていることも多々あるのだと私たちは信じています。すべての人に神様が働いていらっしゃいます。神様の霊が働く、とカトリック教会は信じています。ですから、組織としてのカトリック教会に会員として所属しているかどうか、はこちらとしてみれば重要な事ですけれども、もっと広い目で見てみれば、神様の愛、 カリタス、を実行しているかどうかの方が大切だと思います。神様はご自分の霊をすべての人に注いで、この世界を神様がお望みになるあるべき世界に変えるようにと私たちを促しているので、私たちは神様の働きに応えて、小さなことを積み上げて、神様がお望みになる世界を作るために力を尽くしたいと思います。 

聖書に「新しい天と新しい地」という言葉があります。昨年いろいろな機会に申し上げましたが、聖書の最後の巻の黙示録に、「私は新しい天と新しい地を見た」というヨハネの言葉が出てきます。「海はなくなった、過ぎ去った」とあって、海というのは聖書では悪い意味で、悪の支配を象徴しているのですが、「まったく新しくなるのだ」と言っています。私たちは新しくなることが好きですね。新しい年もそうだし、いつまでも前のままだと困るので、新しくなる、毎日新しくなる、日々新たに生まれ変わる、ということが私たちの希望だと思います。神様はこの世界を最終的にまったく新しいものに 変えてくださる。そのお手伝いをするようにと、私たちは呼ばれておりますので、自分に与えられた協力をするようにしたいと思います。弱い私たちではありますけれども、日々新たにしてくださるようにと、そして力をくださるようにと、ご一緒にお祈りしたいと思います。