教区の歴史
ケルン教区神学生への講話(アルベルティヌム神学院「晩の祈り」の中で)
2004年05月28日
(2004年5月28日、ケルン教区のボンにあるアルベルティヌム神学院を訪問し、「晩の祈り」のなかで以下のような講話を行なった)
Albertinum(アルベルティヌム)神学院とRedemptoris Mater(レデンプトーリス・マーテル)神学院の神学生の皆さん、本日皆さんの神学校を訪問し、ごいっしょに晩の祈りをささげることができましたことはまことに喜ばしく意義あることであると存じます。
司祭養成のあり方は教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告「現代の司祭養成」(Pastores dabo vobis)で余すところなく必要なこと、大切なことが示されております。わたしたち、神学生の皆さんと神学校のスタッフ、養成に責任を持っているすべて の者は共にこの指針から学ばなければなりません。どうかこの指針をしっかり学んでください。
それはともかく、わたくしはこの機会に、わたくしが司祭のあり方について日頃考えておりますことを自分の言葉でお伝えし、皆さんの参考に供したいと存じます。
1. 祈りの人
司祭は祈りの人でなければなりません。今、わたしたちは晩の祈りを共に唱えました。これは大変相応しいことです。皆さんはやがて叙階されて小教区などの現場へ派遣されます。そこで待っているのは、祈ることを難しくする環境です。祈りの時間割もないでしょう。なすべきことが多く、多くの人の要請に応えなければなりません。心配事も増えるかもしれません。そこで祈りが危機に瀕するのです。今から日々の祈りのあり方を念頭において準備しなければなりません。まず、大切にすべきは毎日のミサ聖祭です。また聖務日課(教会の祈り)です。前者は言うまでもないことですが後者について、できれば、すべて独りで唱えるのではなく、ときには信徒の人と一緒に唱えるような機会があればよいと思います。黙想と独りでの種々の祈り、聖体訪問など司祭が欠かしてはならない大切な祈りです。
2.交わりの人
司祭は神と人、また人と人との交わりの仲介者です。司祭は典礼を執行し祈りをささげ、大祭司イエス・キリストの祭司職にあずかります。また、人々に仕え、人々を主キリストにおいて一致させるよう努めます。そこでまず司祭は人々の声に忍耐強く耳を傾ける人でなければなりません。自分の言いたいことを一方的に話すのではなく、人々が何を思いどう感じているのか、ということを受け入れることのできる、大きな度量をもった寛大な人であって欲しいと思います。また自分の権威の力で人を威圧するようなことがあってはなりません。仕える人として柔和で謙遜な親切な人であって欲しいと願っています。
独身制を守るわたしたちは女性との関係ではとくに配慮が求められます。聖パウロは弟子のテモテに次のように勧めています。「年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りの無いやもめを大事にしてあげなさい」(テモテへの手紙5.2-3)。司祭はふさわしい距離を保って女性と接し、慎みと節制を大切にし、躓きを避けるよう賢明に振る舞うべきです。そして同時に弱い立場、困難な状態に置かれている女性に対して特別に配慮することを怠ってはなりません。
3.受けて捧げる人
わたしたちは大規模な消費経済の中に置かれています。日々の生活は金銭を介しての消費から成り立っています。教会も司祭個人も経済的価値と無関係に行動し宣教することはできません。わたしたちは多くの人々から献金を受け取り、それを神の国のために支出します。司祭はたえず金銭とふさわしくかかわるよう求められます。現代の経済は消費を必要としています。あらゆる機会に人々の消費を煽るよう企業は働きかけます。ここに大きな誘惑があります。経済価値を神の国よりも優先してしまうという誘惑に襲われることがあり得えます。
イエスは言われました。 「富は天に積みなさい」 「あなたがたは、 神と富とに仕えることはできない」 (マタイ6・20、 24)。 わたしたちは日々祈っています。 「み国が来ますように。 」わたしたちは自分の心を富に支配させてはならないのです。 富を神の支配のもとに置かなければならないのです。 イエスはまた言われました。 「ただで受けたのだからただで与えなさない」(マタイ10・8)。
わたしたち教会は地上の財貨を委ねられています。 その財貨を使って何をしたか、 どのように神の期待に応えたか、 キリストの生き方に従って歩んだか、 ということが問われます。 第二バチカン公会議は告白しました。 「現代においても、 教会の説く教えと福音を託された者の人間的弱さとの間に、 大きな隔たりがあることを教会は知っている」 だからこそわたしたち教会はその隔たりをなくすために努力し戦わなければなりません。(『現代世界憲章』43参照)。
聖パウロはまた言っています。 「各自、 不承不承ではなく、 強制されてでもなく、 こうしようと心に決めたとおりにしなさい。 喜んで与える人を神は愛してくださるからです」 (コリントの信徒への手紙二 9・7)。
主なる神が、 聖霊の派遣を通して、 「旅する教会」であるわたしたちを絶えず清め、新たにし、 日々、 古い人から新しい人へと生まれ変わらせてくださいますよう、 祈りましょう。
主イエス・キリストの恵み、 神の愛、 聖霊の交わりが皆さんと共にありますように。