教区の歴史

教区の歴史

受難の主日、足立教会にて

2003年04月13日

2003年4月13日、足立教会にて

 

皆さん,今日は受難の主日です。復活祭のちょうど一週間前の日曜日、教会は主キリストのエルサレム入城と主の受難の記念を行います。今年の福音朗読はマルコです。主イエスがどのように苦しみをお受けになられたか、その様子が非常にリアルに告げられます。

これでもか、これでもか、と思われるくらい残酷な場面がでてきます。

もし信者でない人で初めて今日の朗読を聞いた人がいたとしたら、どのような印象を受けるでしょうか。おそらくその人は人間の残酷さ、卑劣さ、暴力と悪意など一言で言えば「悪」ということを強く感じるに違いありません。

「本当に、この人は神の子であった」。これはこの場に居合わせた百人隊長の証言です。ここに、自分をまったく空しくしたイエスの姿が見られます。それに対してイエスを取り巻く人々の態度は対照的です。人間の醜さ、エゴイズムがむきだしになって吹き出ています。これは本当に惨たらしい場面です。

どうして教会はこの出来事を何度も何度の繰り返し記念するのでしょうか。厭なこと、酷いことは早く忘れたいと願うのが普通の人間ではないでしょうか。受難の出来事を思い起こすことにどんな意味があるのでしょうか。

わたしたちが受難の記念を行うのは、イエスという人をよりよく知るためです。イエスがどのように苦しまれたかよく知ることは、イエスという人をよく知ることになります。

じつはミサ自体が受難の記念であります。正確に言えば、受難ばかりではなく受難と復活、イエスの全生涯の記念であります。

この世界に悪は絶えません。なぜ悪が存在するのか、という問題は多くの人を悩ませてきました。福音書はナザレのイエスが悪に対してどのように生きたかを告げています。彼は、悪に対して悪をもって対せず、悪に対して善をもって打ち勝つよう教え、その通り生きた人でした。悪いことは悪い、と言うが、決して悪には屈服しない、それがイエスの生き方でした。イエスの受難を記念することはこのイエスの生き方、悪への勝利に参加することです。イエスの勝利、それは十字架と復活によって示されました。

教会の行う「記念」は過去・現在・未来の三つの次元に関わります。

いまわたしたちは2千年前の出来事を思い起こしています。過去の記念です。しかし同時に受難はいまのわたしたちの生きかたに深く関わっています。ミサのときに教会は主の死と復活の記念を行いますが、それはキリストの死と復活がいま、ここで現在化されることを意味しています。復活したキリストの霊・聖霊がいま働いていて、わたしたちは日々、この世界の中で悪と戦うことができるよう導いてくださるのです。受難を記念するということは、わたしたちがいまここで、いかに悪と戦うべきか学ぶということに他なりません。

そして記念は未来に希望をおくことでもあります。記念は神の国の完成を先取りし希望することでもあります。それは、わたしたちはコムニオ・聖体拝領の前に唱える「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」という祈りによく現れています。

今日の共同祈願の答唱区、「主の十字架はわたしの希望、わたしの救い」ということばの意味をもっと深く悟らせて下さるよう祈りましょう。