教区の歴史
2003年元旦、神の母聖マリアの祭日のミサ (カテドラル)
2003年01月01日
2003年1月1日 東京カテドラル聖マリア大聖堂
新年明けましておめでとうございます。
正月元旦は「神の母聖マリア」の祭日であり、同時に「世界平和の日」であります。
新しい年を迎えるにあたり、聖母の取次ぎにより世界の平和のために祈りをささげ平和への決意を新たいたしましょう。
教皇様は毎年「世界平和の日」のためにメッセージを発表します。今年のメッセージは「地上の平和 ― 変わらない決意」です。
ちょうど40年前、時の教皇ヨハネス23世は後に非常に有名になった回勅を発表しました。それがこの『地上の平和』という教えです。
今年は回勅『地上の平和』の40周年にあたります。是非皆さんにこの教えを学んでいただきたいと切に願っています。今年は特にこの教えをしっかりと学び、「平和のために働く人」になるよう努めようではありませんか。
教皇ヨハネス23世は、平和は次の4本の柱の上に打ち立てられなければならないと強調しています。その4本の柱とは、真理、正義、愛と自由です。
今日はこの4つの柱の中の「真理」に焦点を当ててみたいと思います。
平和は「真理」という柱の上に打ち立てられなければなりません。真理とは特に人間の尊厳についての教えです。神はすべての人に人間としての尊厳を与えました。「人間は皆ペルソナ、すなわち、知性と自由意志とを備えた本性であり、したがって、人間は権利と義務の主体であるということである。この権利と義務は、どちらも、同時に、そして直接、人間の本性から生まれる。それゆえ、普遍的なもの、侵すことのできないものである」(一章より)。これは『地上 の平和』の中の一節です。
カトリック教会は伝統的に「共通善」という概念を大切にしてきました。(共通の善、よいこと、という意味です)。今わたしたちはこの「共通善」を、「人間の諸権利の確認、尊重、擁護、発展」(4章より)のことであると言い換えることができると思います。つまり基本的人権の尊重、擁護、発展ということを重要な内容として含んでいる、ということです。
真理を尊重するということは真理に反した過去の過ちへの真摯な反省を含むものでなければなりません。大聖年を迎えるにあたって教皇ヨハネ・パウロ2世が教会の過去の歩みについて誠実な反省を訴えたことはまだ記憶に新しいことです。彼は「識別の欠如」ということを嘆いて次のように言われました。
「現代の教会という観点からは、わたしたちはどうして識別の欠如を嘆かずにいられましょうか。それは時々、黙認に陥り、多くのキリスト者は、全体主義政権による基本的人権の侵害を見過ごしてしまいました」(「紀元2千年の到来」36より)。
日本の司教たちもこの教皇の言葉を受けて日本の教会の過去へ目を向け、次のような反省を行いました。
「今のわたしたちは、当時の民族主義の流れの中で日本が国を挙げてアジア・太平洋地域に兵を進めて行こうとする時、日本のカトリック教会が、そこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気がつかず、尊いいのちを守るために神のみ心に沿って果たさなければならない預言者的な役割についての適切な認識に欠けていたことも、認めなければなりません」。(「日本カトリック司教団『平和への決意』より」。
これは敗戦後50周年にあたる1995年、日本のカトリック司教団が出した『平和への決意』の中にある言葉です。
真実を見極める、本物と偽者を識別する、ということは易しいことではありません。時の流れに押し流されて神のみ心を識別することに失敗してしまうこともありえます。教会もこの世にある以上、時代と環境の影響を受けることから免れえません。それでも聖霊の導きにしたがって真実を見極め、真実に基づいて真摯に歩んでいきたいと願っています。
日本のカトリック教会について言えることはそのままわたしたちの東京教区に当てはまります。わたしたち自身、過去において時のしるしを読み取り、識別するという働きに問題がなかったわけではありません。今こころからの反省を行い、今後は真理の霊の働きに忠実に歩むよう、決意を新たにしたいと思います。
今年、『地上の平和』発布40周年を向かえ、この機会に教区の皆さんにお願いし訴えます。
この教え『地上の平和』をよく学んでください。あわせて日本の司教団の教え『平和への決意』もよく読んでください。
特に今年の「平和旬間」ではそれぞれの教会、共同体、グループ、家庭などで何らかの機会をつくり、平和のために共に祈り、また平和のために何をなすべきかを話し合い、日々の生活のなかで平和のための努力を積みかさねてくださるようお願いします。