教区の歴史
2002年 平和祈願祭ミサ
2002年08月10日
2002年8月10日、千鳥が淵戦没者墓苑
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
これは本日の福音の言葉です。
わたしたちの宗教は「キリスト教」と呼ばれています。イエス・キリストによって成立した宗教、キリストを中心としキリストに従って歩むことを基準とする宗教です。
永遠の命へ達するためにはイエス・キリストを知らなければなりません。そして、イエスを知らなければ天の父を知ることができません。
イエスを知るとはどういうことでしょうか。それが大きな課題です。
エレミヤ預言者は言っています。
「(主は)わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さいものも大きいものもわたしを知るからである、と主は言われる。」(エレミヤ31:33-34)
「主を知る」ということは旧約時代からの重要な課題でした。エレミヤは新しい契約の到来を預言しています。これがその箇所であり、本日の朗読箇所です。
このエレミヤの預言は成就したのでしょうか。確かに聖霊降臨によってこの預言は実現しました。聖霊が信者の心に宿ることによって「主を知る」という課題は実現したのです。
しかし、とここで言わなければなりません。教会は聖霊降臨によって誕生し、その歩みを開始しました。その教会はいま完成に向かって旅をしています。教会自身、完成途上にあり、未完成の状態にあります。言い換えれば、教会は罪びとの集まりであり、過ちや罪からすべて免除されているわけではないのです。
2000年の歴史の中で教会は重要な事柄についての理解が不十分であったことも否めません。たとえば信仰の自由についての理解です。人間の基本的人権として教会は信仰の自由を認め擁護してきました。しかしその理解には限界がありました。いわゆる「異端者」には自由は認められていませんでした。教皇がその書簡『紀元2千年の到来』のなかで「教会の子らのなかには真理の奉仕において暴力を行使すると言う過ちをおかすものもいた」といっているのはそのことを指していると思います。わたしたちの教会のなかにも人間の基本的人権である信仰の自由の適用について過ちを犯した教会指導者あるいは国家の指導者がいたのです。聖霊の導きによく従わなかった結果である、と言わざるを得ません。
ところでわが国は世界に誇る憲法を持っています。日本国憲法の中でもちろん、基本的人権が保障されています。そのなかにはいうまでもなく信教の自由が含まれています。
ところが最近、この憲法の保障する信教の自由について、政府首脳による、由々しき発言が報じられています。その発言とは「公共の福祉の観点から、外国からの武力攻撃事態において、国民の思想,良心、信仰の自由が制限を受けることもありうる」という趣旨の発言です。これは大変恐ろしいことです。大変福音的ともいえる日本国憲法の人権保障を是非とも堅持しなければなりません。
今日の話を結ぶに当たって冒頭の福音に戻りましょう。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
イエスのメッセージの理解は深められなければなりません。イエスのメッセージの中心には人間の尊厳を大切にする、ということが含まれています。
一人ひとりの人間には神から与えられた人間の尊厳が備えられています。人間の尊厳の中心には良心と信仰の自由があります。
お互いに人間の尊厳を尊重することなしに世界の平和は実現しないでしょう。いま、聖霊はこのようなメッセージをわたしたちに送っているのだとわたしは信じます。