教区の歴史

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四旬節第二主日・パウロ野口邦大助祭叙階式

2016年02月21日

2016/02/21成田教会にて

聖書朗読箇所

第一朗読 創世記15・5-12、17-18
第二朗読 フィリピ3・17~4・1
福音朗読 ルカ9・28b-36

 

ホミリア 

今日は四旬節第二主日。この日のミサの福音は毎年、山の上でイエスの姿が真っ白に光り輝いた、いわゆる「主の変容」の場面です。今日、このミサの中で助祭叙階を受ける野口邦大神学生は、変容のイエス様のように光り輝いて見えるでしょうか?五年間の神学院での修練を終え、助祭叙階の日を迎え、まさに「ピカピカの新助祭」という感じですね。  
ただし、このイエスの光り輝く姿はただ単にピカピカしていたというのではありません。本当のイエスの輝きがどこにあるのか、そのことを今日の福音をとおしてご一緒に考えてみたいと思います。  
この出来事は受難予告の後、すぐに起こりました。ルカ福音書によれば、イエスが旧約聖書を代表する二人の人物、モーセとエリヤと話し合っていた内容は、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」だったと言われています。この出来事はイエスのこれからの受難の道、十字架の死に至る道と結ばれています。そこから分かることは、このイエスの栄光の姿は受難と死をとおしてイエスが将来受けることになる復活の栄光だということです。四旬節のはじめに、この復活の栄光のイエスの姿を見つめながら、イエスとともに精一杯神に信頼し、人を愛する道を歩んでいこう、それが今日の典礼の呼びかけです。  
野口さんも今日は「おめでとう」とみんなに言ってもらえるけれど、これからたいへんですね。神学生のうちはどの教会に行っても期待され、だれからも愛されます。でも助祭になり、司祭になるに従って、だんだん困難なことに直面します。そんなとき、「仕えられるためではなく仕えるために来られた」キリストにしっかりと従っていきなさい。そうしたらイエスとともに栄光に入ることが約束されています。もちろんその通りです。じゃあ、その歩みの中で何を大切にしていったらいいのか、今日のイエスはなぜ光り輝いているのか、今日の福音には大切なヒントがあります。  
イエスは「祈るために山に登られた」とあります。また「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に光り輝いた」とあります。この祈りがヒントなのです。実は今日の変容の場面とよく似た場面があります。それはイエスの活動の出発点になったヨルダン川での洗礼の場面です。  
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(ルカ3・21-22)  
今日の箇所で雲の中からの声は「これはわたしの子、選ばれた者」でした。洗礼のときの天からの声とよく似ています。内容としては同じことだとも言えるでしょう。洗礼のときもイエスが「祈っておられる」とこの「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえたのです。  
洗礼の出来事は、イエスのこれからの歩みが神の愛する子としての歩みであることを表しています。そして、変容の出来事は、イエスの受難への道もまた神の子としての歩みであることをはっきりと示しているのです。そしてこれをイエスは祈りの中で受け取りました。本当にこの祈るイエスにならいたいと思います。祈りの中で受け取るべき大切なこと、それは2つあります。  
一つは「おまえはわたしの愛する子だ」という神の声です。父である神がわたしを愛してくださっているということ。何があろうと神はわたしを決して見捨てないこと。このことをいつも祈りの中で受け取りたい。  
もう一つは「神はわたしを選んでくださっている」ということ。今日の福音では「選ばれた者」という声がありました。「神の選び」については、預言者イザヤの召命の場面を思い出します。イザヤは神の栄光の現れに接し、そこで「誰を遣わすべきか。誰がわれわれに代わって行くだろうか」という神の声を聞きました。イザヤは答えます。「わたしがここにあります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)。それは預言者イザヤが祈りの中で神の選びを感じた体験だったと言えるでしょう。  
フランシスコ教皇のモットーは「あわれみ、そして選んだ」という言葉です。これは徴税人マタイの召命の箇所からインスピレーションを得た言葉です。イエスは彼をいつくしみに満ちた愛をもって見つめ、そして彼を選ばれ、ご自分の使徒として使おうとされたのです。フランシスコ教皇にとって、自分が司祭として、司教として、教皇として選ばれたことはそういうこと。祈りの中でそう感じ、受け止め、教皇職を引き受けておられるということでしょう。  
わたしたちは祈りの中で、いろいろ神に訴えます。現実はこんなに悲惨です。人々はこんなに苦しんでいます。わたしは罪深く無力な人間です。神様なんとかしてください。…でも祈りの中の答えは、「おまえがいる。わたしの救いを人々にもたらすためにおまえが必要だ」というものではないでしょうか。預言者イザヤも、徴税人マタイも、フランシスコ教皇も、その神の呼びかけを聞いて応える道を選んだのだと思います。野口邦大さんもこの神の呼びかけに答えて、司祭になろうと思い、今日まで歩んできました。これからもずっとその思いを大切にしてください。祈りの中で、自分が神から愛されていること、自分が神から必要とされていること。そのことをしっかりと受け取りながら、歩み続けてください。  
お集まりの皆さんに是非、分かってほしいと思います。野口邦大さんが光り輝いて見えるとしたら、それは彼が「神はわたしを愛し、わたしを必要としている」と気づいたからです。本気でそう受け取った時、その人の人生は光り輝きます。わたしたち皆が、特に若い人たちが、その神の呼びかけ、「わたしはあなたを愛している、あなたが必要なのだ」という声を祈りの中で受け取ることができますように。アーメン。