教区の歴史
安房上総宣教協力体平和を願うミサ
2014年08月10日
2014年8月10日 木更津教会にて
〔I〕列王記上19・9a, 11-13a 〔II〕ローマ9・1-5 〔福〕マタイ14・22-33
ホミリア
今から5年前、外房の御宿町で、「サン・フランシスコ号御宿漂着400年記念ミサ」をささげました。この中には、そのとき参加された方もいらっしゃるかもしれません。1609年9月、フィリピンからメキシコに向かうサン・フランシスコ号という船が嵐にあい、御宿沖で座礁し、乗っていた人々が海に投げ出されました。わずか300人ほどの御宿の人々が総出で、船に乗っていた300人以上の人を助けたというのです。その中にはドン・ロドリゴというフィリピン総督代理もいました。彼らは、大多喜城主や将軍徳川秀忠、駿河に引退していた家康に丁重にもてなされ、幕府から代わりの船を与えられて、メキシコに帰ることができました。この話は、日本では忘れられていきますが、メキシコではずっと語り継がれていったそうです。
この出来事はキリシタンの歴史の中で微妙な(あるいは絶妙な)タイミングで起こりました。1597年、豊臣秀吉はキリシタン26人を長崎で処刑しました。その中にフェリペ・デ・ヘススというメキシコ人の修道士がいました。彼はサン・フェリペ号という船でフィリピンからメキシコに向かっていましたが、やはり嵐にあい、船は土佐に漂着しました。フェリペ・デ・ヘススは京都に行き、そこで捕らえられて、日本26聖人の一人として殉教しました。御宿の出来事の12年前のことです。御宿の出来事の後、1614年から徳川幕府はキリシタン禁制を非常に強くし、日本にキリシタンがいることは絶対にゆるさないという姿勢になりました。1633年、たまたま日本に来る船に乗って琉球に来たフィリピン人、ロレンソ・ルイスは捕らえられて、長崎に連れて行かれ、そこで殉教します。彼は聖トマス西と15殉教者の一人として列聖されています。厳しい迫害の間の、わずかな平和の時代に起こったのが、この御宿の出来事だったのです。
難破した船の外国人たちを助けた御宿の人々はおそらく皆、キリストを知らない人たちだったでしょう。彼らは、福音書の中の「善いサマリア人」のように、目の前の人が困っているのを見て、ほうっておけずに手を差し伸べたのです。人間にはこういう心があります。人間はすばらしいことができる、誰の中にもそういう心があるはずだ。イエスは善いサマリア人のたとえ話の中で、そういう隣人愛を高く評価し、これがもっとも大切なこと、神のこころにかなう最も大切な行為だとしています。
でも一方では人間はとんでもなくひどいこともします。
徳川幕府のキリシタン弾圧は過酷でした。何万人ものキリシタンがキリシタンだというだけで殺されました。ナチスドイツのユダヤ人虐殺もひどいものでした。何百万人ものユダヤ人が殺されたと言われています。戦前の日本のアジアへの侵略戦争もひどいものでした。朝鮮半島の人々に対する扱いもひどかった。アメリカが日本の一般市民に対して行った空襲もひどいこと、特に広島、長崎への原爆投下はほんとうにひどいことでした。そして今、イスラエルがガザ地区で一般の市民、子どもや女性達を殺しています。ある国では、イスラム教徒がキリスト教徒を殺しているという話も聞きます。
何でこんなことが起こるのでしょうか。なぜこれほどひどいことを人間はできるのでしょうか。国が違う、民族が違う、宗教が違う。あいつらは敵だ。そう決めつければ、どんなひどいこともできるのが人間なのでしょうか。人として当然持っているはずの、相手の痛みに対する共感を妨げるものは何でしょうか。それは、人間である前に、何国人、どの民族、どの宗教、そうやって人を十把一絡げにくくってしまうことではないでしょうか。
民族と民族が敵対している、と言われます。それはほんとうでしょうか。国と国とが敵対している、ほんとうでしょうか。宗教と宗教とが敵対している、これも本当はウソなんじゃないか。誰かが人と人とをグループ分けして、その間に敵対の構図を作って、人間に憎悪と敵意を植え付けているのではないか。騙されてはいけない。そんなものに絶対に騙されてはいけない。
わたしたちはキリスト信者なのですから、すべての人の父である神を信じているのですから、キリストがすべての人のすくいのためにご自分のいのちさえもささげてくださったことを信じているのですから、絶対にこの敵対の構図を受け入れることはできません。
今日の第一朗読は「山の中で主の前に立ちなさい」というエリヤへの呼びかけでした。神は暴風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられなかった。本当に「静かにささやく声」の中に神はおられたというのです。その声で、主はわたしたちになんと呼びかけているでしょうか。答唱詩編で「神の語られることばを聞こう。神は平和を約束される」と歌われます。暴力や経済力や政治力で、戦争をあおる声は大きいのです。平和を語る声は弱くか細く聞こえるかもしれません。でもわたしたちは主の前に立って、何がほんとうに主が語られることかを、聞き分けたいと願います。主が語るのは、詩編にあるように「正義と平和」です。今の言葉でいえば、「人権と平和」と言うほうが分かりやすいかもしれません。ほんとうに一人一人の人間を尊重する、そこに実現する平和。これこそが神のみこころであるに違いありません。その静かな声に耳を傾けたいのです。
決して簡単な道ではありません。
今日の福音はイエスが水の上を歩き、ペトロがそれにならって自分も歩こうとする箇所です。「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」「わたしのところに来なさい」。主はわたしたちにそう呼びかけています。「愛と平和」の道を歩く、それは水の上を歩くようなあぶないことに見えるかもしれない。でも、同時に400年前の御宿の人々が示したように、人間として本来、当然のことであるはずです。
今日の第二朗読を見ると、使徒パウロの時代も、今のわたしたちが抱えているような国や民族の対立の問題を抱えていました。ユダヤ人と異邦人の間の問題、キリスト教とユダヤ教の間の問題。パウロはそのことで自分自身が引き裂かれるような痛みを感じていました。パウロはしかし、そのすべてを超えて、わたしたちに救いをもたらすキリストの救いに信頼しています。今年の平和旬間の祈りの言葉は、そのパウロのエフェソの教会への手紙2章からとられています。
「御子イエス・キリストはすべての人に平和の福音を告げ知らせ、十字架によって、人と人、民族と民族の間にある敵意という隔ての壁を打ち砕いてくださいました。」
わたしたちもこのキリストに信頼して、平和のために祈り続けましょう。