教区の歴史
死者の月・合同追悼ミサ(五日市霊園)説教
2013年11月03日
2013年11月3日 五日市霊園にて
カトリック教会で伝統的に死者の月と言われる11月を迎え、今日わたしたちはこの五日市霊園に集まりました。それぞれに家族や親しかった人のことを偲び、その人たちのために祈ろうと集まっています。
亡くなられた方のために祈ること、それはまず、亡くなった方を思い起こし、その方との生前の関わりを思い出し、追悼することです。教会では「死者の記念」という言い方がされます。忘れてしまうのではなく、思い続ける、思い出し続けること、これは大切なことです。死によって、わたしたちと親しかった人の絆はすべて断ち来てしまうのではない。目に見える肉体は滅んでも、目に見えない絆は滅びない。そう信じて思い起こすのです。
そして、この記念の中で、亡くなった方が、すべての罪と汚れから清められ、神のもとで安らかに憩うように、と祈ります。亡くなった方のために祈りを捧げ、わたしたちにできる犠牲をささげることは意味があると昔から考えられてきました。
親しかった人の死に接したとき、たぶん誰でも「あれもしてあげたかった。これもしてあげたかった。でもしてあげられなかった」、そういう後悔や負い目を感じた経験があるでしょう。特に親しかった人であればあるほどそうでしょう。でも今更もう何もできないというのではなく、亡くなった方々の永遠の救いのために祈ることはできる。それは残された者の勤めであり、残された者にできる大切なことです。
わたしたちが故人のために何かできる、ということは大切なことですが、同時に、逆に、亡くなった人が生きているわたしたちのために何かできるということも大切だと思います。
神への信仰をはっきりと持たない多くの日本人にも、そういう感覚はあるようです。たとえば、亡くなった両親がいつも天から見守っていてくれて、支えてくれる、助けてくれる、というような感覚です。特に難しい試験のとき、困ったとき、本当に苦しいときなど、亡くなった親や祖先に助けを求める気持ちは自然なものでしょう。そして、うまく行けば感謝する気持ちも当然なことでしょう。
でもこれはカトリック信仰と結びつくでしょうか。カトリックの信仰では、祈りは何より神に向けられるはずです。聖母マリアや聖人に執り成しの祈りを求めることはあっても、もっと身近な、ふつうの親兄弟に「わたしを見守っていてください。わたしのために祈ってください」と願ってもよいのでしょうか。
ちょっと不安になって、『カトリック教会のカテキズム』という本を調べてみました。するとこう書いてある箇所がありました。
「死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効に(effective)することができるのです。」(『カトリック教会のカテキズム』958)
はっきりと「死者がわたしたちのために執り成す」と書いてありました。亡くなった人は、必要な清めを受けた後、神のもと(=天)に行き、神さまのそばにいる。もちろん裁きと救いは神の領域ですから、人間が勝手に決めることはできないのですが、でもわたしたちは、親しかった者が、いつくしみ深い神の御手に包まれ、そこで救いに与っていると信頼し、確信するのも当然なことです。信頼していいのです。だから、そこ(天=神のもと)から生きているわたしたちを見守り、わたしたちのために神に祈っていてくれる、それはキリスト教の信仰と決して相容れない考えではありません。そしてわたしたちは死者を思い起こして祈るとき、そういう死者とのつながりを深く感じることができる。これが「effective=効果的」ということではないでしょうか。
亡くなった人との間で、もう具体的にものをやり取りしたり、言葉を交わしたりすることはできません。でもわたしたちはわたしたちに先立って逝かれた人とこのように祈りの中でつながっているのです。そしてこのつながりは最終的に、わたしたち自身もまた、神のもとに召されるときに完成される。それがキリスト教の永遠のいのちへの希望であり、信仰です。
亡くなった人とのつながりを思うこと、それは今の人生をもっと豊かに生きることです。わたしたちのいのちも誕生から地上の生活の終わりまでのものではありません。死を超えて神のもとに行き、そこで完成するのがわたしたちのいのちです。そう深く感じたとき、今日の日々を大切に精一杯生きることができるのです。今日の合同追悼ミサはそういう生き方への招きでもあります。
亡くなった方々が、わたしたちに先立たれた方々が、天からわたしたちを見守っていてくれる、そのことを今日、特に感じながら、このミサを捧げたいと思います。