教区の歴史

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合同追悼ミサ(府中墓地)説教

2012年11月04日

2012年11月4日 カトリック府中墓地聖堂にて

ヨハネ6・37-40―

死の悲しみと恐怖を乗り越えるキリスト教の希望は「復活」という言葉に表されます。ギリシア語では「アナスタシス」と言います。「スタシス」は「ヒステーミ=立つ」という意味の動詞から来ています。「アナ」は「再び」の意味がありますが、「上へ」という意味もあります。日本語で「復活」と言いますが、この世のいのちに再び舞い戻るというよりも、「上へ立つ=立ち上がる」この世のいのちのレベルを超えた神のいのちの中に生きることを意味するのがこの「アナスタシス」です。

この「復活」という考え方が聖書の民=イスラエル民族の中で、はっきりと表れるようになったのは、紀元前2世紀のことでした。それまで古代のイスラエル人は、人は死んで先祖の列に加えられるとか、シェオールという暗闇のような静かなところに行くと考えられていました。この世の人生で神とともに生き、神からの祝福をこの地上の人生でいただくことができれば、この世のいのちだけで充分だと考えられたわけです。

紀元前2世紀に起こったことは、激しい宗教迫害でした。マケドニアのアレクサンドロスが東方へ攻めていき、広大な支配地域を作り上げました。アレクサンドロスの死後、その部下の将軍たちによって、4つのギリシア文化帝国が作られました。パレスチナは最初エジプトのプトレマイオス王朝によって支配されていましたが、その後、シリアのセレウコス王朝が支配することになり、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスのときに、とんでもない宗教迫害が起きます。エルサレムの神殿にギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は律法に従って生活することを禁じられました。律法によれば豚は汚れた動物で豚肉を食べることは禁じられていました。その豚肉を無理やり食べさせられたりしたのです。命令に背いて、殉教する人も出てきました。

神から離れればこの世では安泰・安全になり、神に従えば従うほどこの世では苦しみを受ける。この厳しい現実に直面した中で、「神はご自分に従う者を決して見捨てない。この世のいのちを超えて、もっと大きな救いを与えてくださる」という信仰がはっきりと表れてきたのです。これが復活という言葉で表されるようになった信仰です。

そしてイエスという方において、この復活ということがまず第一に、そして完全な形で実現したのだとキリスト教は信じるようになりました。神に徹底的に従い、すべての人を徹底的に愛し抜かれたあのイエスの生涯は、肉体の死で終わらなかった。死を超えてイエスは神のもとに行き、神の永遠の命を生きる方となった。これがイエスの復活への信仰であす。そして、わたしたちもイエスに結ばれて、その復活のいのち、神の永遠のいのちに入るようにと招かれているのだ。これがわたしたち自身の復活の希望です。

わたしたちの生きている時代はどうでしょうか? そんなに激しい迫害の時代ではないかもしれません。でもあまりにも世俗化した世界。まるで神様のなどいないかのような世界です。科学技術が進歩し、医学も進歩し、まるでこの世のいのちがすべてであるかのような時代だとも言えるでしょう。肉体の死ですべてはおわってしまう。そういう雰囲気もかなり強くあります。

しかし、同時にわたしたちは誰でも、死という親しい人との別れに身を引き裂かれるような痛みを感じます。病気であれ、災害や事故であれ、犯罪や自死による死であれ、人の死に直面したとき、言いようのない不条理を感じることがあります。あまりにも理不尽だと叫びたくなります。死ですべてが終わるということには到底納得できないのです。それは人間として当然のことです。だから、いのちとはこの世で生まれ、死ぬまでのそれだけのいのちだけではない。わたしたちの多くは直観的にそう感じています。

今日、この墓地でわたしたちは亡くなった方々のことを思いおこして祈っています。亡くなった家族や友人は、決して無になったのではないと信じるからです。神のもとに行き、そこで永遠のいのちにあずかっている。お墓は、その方々のことを思い起こし、その方々と神様の絆は決してなくなっていないし、その方々と残されたわたしたちの絆も決してなくなっていないということを確認する場です。

神にその信頼と希望を置き、亡くなった方々をいつくしみ深い神のみ手にゆだねて祈りましょう。そして、今生きているわたしたちが同じように、神のもとから来て、最終的にこの世の人生を終えて神のもとに帰っていくこと、そこで神とともに、先立っていった人々と共に、永遠の喜びに入っていくことを深い心に留めましょう。そして、だからこそ、日々、この地上の一瞬一瞬を大切に生きることができるように祈りたい、神を大切にし、人を大切にして生きることができますように、祈りたいと思います。