教区の歴史
パウロ三好満神父 葬儀ミサ説教
2012年08月28日
2012年8月23日 東京カテドラル関口教会にて
個人的なことで恐縮ですが、わたしは2度、三好神父さんの期待を裏切ったことがあります。他にもあったかもしれませんが、はっきり覚えているのは2回です。1度は数年前、わたしが司教になってしばらくしてからのことでした。何かの機会にお会いしたとき、三好神父さんはわたしに「アラノンにかかわる司祭がいてほしかったのに…」と残念そうに言われました。アラノンのこと、今日お集まりの皆さんはご存じだと思います。アルコール依存の人の家族や友人の自助グループです。三好神父さんは日本アラノン創立のときから、アラノンを応援していて、ずっと関わり続けておられました。わたしはアラノンや12ステップについて学びたいと思い、何回かアラノンのセミナーに参加したことがありました。そこで三好神父さんにお会いしていたのです。三好神父さんは次の世代の司祭としてわたしがアラノンに関心を持っていることがうれしそうでした。でも、わたしが司教になってしまい、教会のマネジメントみたいな仕事ばかりになるだろうから、もうアラノンにかかわることができなくなると思って、そうおっしゃったのでした。三好神父さんの期待を裏切ったと思います。
もう1回は去年のことでした。このカテドラル構内にペトロの家という高齢・病気の司祭の家ができました。三好神父さんもそこに入ることになっていました。でも彼はペトロの家の様子を見て不満を感じていました。ペトロの家は高齢や病気の司祭十数人が一緒に生活している場です。長い年月、それぞれの場でほとんどひとりで生活してきた司祭たちが共同生活する。一緒にミサをささげ、共に食事をする。それが不思議なくらい自然にスタートしていました。しかし、三好神父さんはそれだけでは不満だったのです。司祭だけの共同体というのが彼には納得できなかったのです。そこで働いているスタッフ(ほとんど女性)も一緒になっていろいろ相談しながら共同体を作る、それが本当に教会のあるべき姿で、ペトロの家はそういう教会的な共同体であるべきだ、と三好神父さんは強くおっしゃいました。分からないでもないのですが、でも現実にはそう簡単でもなかったのです。わたしはペトロの家の責任者としても三好神父さんの期待にうまく応えられませんでした。
今、思い返してみると、この2つのことは三好神父さんの、実に三好神父さんらしい期待だったと思います。司祭とは組織の運営・管理をするようなものではなく、さまざまな問題や苦しみを抱えた人に寄り添って生きることではないか。それより大切なことがあるのか、と彼はわたしに問いかけてくれていたと思います。ペトロの家のことも、教会とは司祭が中心なのではなく、すべての人、特に弱いメンバーをこそ大切にする集まりであって、そのあたたかい人と人との交わりこそがわたしたちが目指すべきものではないか。それもわたしにとって、大きな問いかけとして残っています。
三好神父さんは、そういう生き方をずっと貫いてきた方だと思います。本当に多くの人、悩みや悲しみや弱さを抱えた人が三好神父さんの周りに集まってきましたし、そういう方々のもとにご自分から出かけていきました。神父さんはその一人一人を本当に大切にしておられました。
ご本人はいつも、自分はダメな神父だというようなことをおっしゃっていましたが、本当に司祭らしい司祭だったと思います。先ほど読まれた福音の中に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な言葉がありました。イエスが一粒の麦粒として地に落ちて死に、そこからもっと大きな豊かないのちが生まれるということを表す言葉です。麦粒は自分の殻を守ろうとせず、殻を壊して他のものとつながってこそ、豊かないのちへと育ちます。三好神父さんは、ある意味で司祭と言う殻を壊してまで、人とのつながりを生きようとしたところがありました。それはキリストの弟子として、司祭として、むしろ、ほんとうに弟子らしい、司祭らしい生き方だったのではないでしょうか。
もちろん人間的な弱さや欠点もあったと思いますが、今、神様のもとへ行き、神様のゆるしの恵みが注がれるように信頼して祈ります。三好神父さんは最後の最後まで心臓と肺がボロボロになるまで、病院のベッドで頑張りとおしました。わたしはあまりお見舞いすることができませんでしたが、片山病院でも、順天堂の高齢者医療センターでも、本当に最後まで訪れた人を大切にし、頑張りぬいていたと感じました。ですから、今はもう神様のもとでゆっくりお休みください、と心から申し上げたいと思います。
でも、三好神父さんを頼りにしていた人はたくさんいて、その方々にとって、本当に大切な支えを失ってしまったことも強く痛く感じています。
わたしたちキリスト信者は、神がイエス・キリストを死者の中から立ち上がらせ、復活のいのちに導き入れてくださったと信じています。その神はわたしたちの身近な人の死に際してわたしたちに2つのことを約束してくださいます。
1つは亡くなった人と残されたわたしたちとの絆は完全に断ち切られてしまうのではないということです。目に見えない形で、残されたわたしたちは心の中でずっと三好神父さんとつながっている、ある意味で生きているとき以上に三好神父さんは身近にいてくれる。三好神父さんは神様のもとでいつもわたしたちを見守っていてくれているということがわたしたちへの約束です。
もう1つは、いつか神様のもとで再会できること。そこで、三好神父さんがいつも願っていた、本当に温かい人と人とのつながりが完成すること。
この約束に信頼しながら、残されたわたしたちが互いに支え合い、助け合いながら歩んでいけますように、わたしたちの教会がほんとうに温かい、人と人との心が通い合う共同体になりますよう、この葬儀ミサをとおして祈りたいと思います。