教区の歴史

教区の歴史

平和旬間千葉地区合同ミサ 説教

2011年08月06日

2011年8月6日 五井教会にて

ローマ12・9-18、ヨハネ20・19-23

ずいぶん昔の話です。わたしはある教会に住んでいましたが、全国の司祭の会議のために教会を留守にしました。ところが、司祭館を一晩空けた翌朝、受付のシスターから電話があり、泥棒が入ったというのです。急いで教会に帰りました。盗られたものはほとんどなかったのですが、ドアが壊され、ロッカーが壊されていて、その被害がひどかったです。会議の場所はそれほど遠くなかったので、被害を確認してからすぐに会場に戻りました。わたしが被害の話をしていると、ある先輩司祭がこう言いました。

「鍵なんか掛けているからいけないんだ。俺のところは鍵なんかかけないけど、泥棒が入ったことないよ」

その先輩は地方の町の教会で働いていたんです。わたしは「東京じゃそうはいかない」と言いたかったんですけど、言いませんでした。神学生のときから尊敬していた先輩だったのです。それで、その先輩の言うことも確かにもっともかもしれないと思いました。このことはずっと心に残っています。

きょうの福音は、イエスが亡くなって三日目の出来事です。このとき、弟子たちは一生懸命自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。先生であるイエスが逮捕され、自分たちは逃げたけれど、イエスは苦しめられ、十字架で殺されてしまった。弟子の自分たちにもどんな災いが及ぶか分からない。なんとか安全を確保しようと思って、必死に鍵をかけて、閉じこもっているのです。これで誰も入ってくることができないはず。でも心の平和はないのです。心は恐れと不安でいっぱいなのですね。

そこへイエスが来ます。「あなたがたに平和があるように」弟子たちは主を見て、喜びました。そして弟子たちの心は平和で満たされていくのです。

これは物理的にイエスが鍵をかけたドアをすり抜けて入ってきたというのではないのです。むしろ、恐れと不安でガチガチになっていた弟子たちの心に復活したイエスが語りかけてくる。「恐れるな。わたしは生きていて、いつもあなた方とともにいる。だから何も恐れることはない。これがわたしの与える平和だ」そのイエスに気づいたときに、ほんとうの安心が、深いところで平和が、与えられたということではないでしょうか。

「セキュリティー」という言葉は、いつの間にか日本でもよく使われる言葉になりました。「安全、安全保障」の意味です。鍵をかけ、ガードマンを置いて、わたしたちは自分の家や教会を守ろうとします。軍隊を持ち、たくさんの兵器を配備してなんとか国の安全を守ろうとします。でもやはりそれはキリストの平和とは程遠いのではないか、このことはわたしたちキリスト者がいつも問い返さなければならないことです。

今年は、前教皇ヨハネ・パウロ2世が来日し、広島で「平和アピール」を語りかけてから30年になる年です。日本のカトリック教会はこの平和アピールにこたえて、特別に平和のために祈り、働くことを自分たちの使命として受け止め、翌年の1982年から毎年、平和旬間を行うようになりました。また司教団は、戦後50年たった1995年に「平和への決意」というメッセージを発表し、それから10年後の2005年には「非暴力による平和への道」というメッセージを発表しました。そのいずれもが、ヨハネ・パウロ2世教皇の広島での熱い呼びかけに答えるものでした。今年5月にヨハネ・パウロ2世が列福されましたので、日本の司教団は、もう一度この平和アピールを読み直そうと呼びかけています。教皇はその中で次のように語りました。

「正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないというかたい決意をしようではありませんか。人類同胞に向かって、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりとを持とうではありませんか。」

正義と信頼と思いやり。これが本当にキリストの平和への道です。ヨハネ・パウロ2世教皇はそう確信していました。第二次世界大戦中のポーランドで青年時代を過ごしたヨハネ・パウロ2世は、戦争が命の破壊しかもたらさず、戦争は死そのものであることをいつも語り続けました。教皇として生きた時代にも多くの紛争があり、テロがありました。その中で教皇は一貫して、武力行使に反対し続けました。

「セキュリティー(安全保障)」という言葉に惑わされるのはもうやめましょう。「セキュリティー」の名のもとに膨大な数の核兵器が作られましたが、結局は人類に死と破滅しかもたらさないことを、国際社会ははっきりと意識するようになって来ました。「セキュリティー」の名のもとに武力行使が正当化されてきたことも、実は誤りだったと気づき始めています。

さらに言えば、「Atoms for Peace原子力の平和利用」と言われ、セキュリティーは万全だと言われた原子力発電所で大量の放射能漏れが起こり、今も10万人以上の人が自分の住んでいた家を離れて避難生活をしています。

わたしたちはこのミサで、キリストの平和を願います。本当にわたしたちが神の前に謙虚になれますように。孤立や無関心を乗り越えて人と人との絆を大切にすることができますように。自分とは違う国や民族、違う考えの人と相互に理解し合い、ゆるし合う心を持つことができますように。この祈りと願いをもって今日のミサをささげたいと思います。