教区の歴史

教区の歴史

復活節第4主日(世界召命祈願の日)ミサ説教

2011年05月15日

2011年5月15日 東京カテドラルにて

羊飼いであるイエスは羊の群れの先頭に立っていく。わたしたちキリスト者は皆、そのイエスの声を聞き、そのイエスについていきたいと願っています。このイメージは大切です。「召命vocation」という言葉はもともと「呼ぶ」という意味のラテン語から来ています。だから、イエスの呼びかけを聞いて、それに応えていくというのが、わたしたち皆の召命の根本にあるイメージです。

でも羊飼いというものは、本当に先頭を行く人なのでしょうか? そんな疑問をふと抱いたとき、キリシタン時代の一人の司祭のことを思い出しました。

中浦ジュリアン。2009年に列福された188人の日本の殉教者の中の一人です。彼は小神学生のとき、天正少年使節の一人としてローマに行きましたが、司祭になったのは1608年、38歳の時でした。小神学生になってから28年間もたっていました。そして司祭として働き始めますが、1614年1月、徳川幕府が全国的な禁教令を出し、司祭・修道者・主だったキリシタン信徒は国外追放ということになります。そのとき、中浦ジュリアンは、潜伏司祭に選ばれ、ひそかに日本に残ることになりました。そして島原半島の口之津の主任司祭に任命されました。しかし、彼がその任地に着く前、1614年11月に口之津で大きなキリシタン弾圧事件がありました。64人のキリシタン信徒が殉教しました。その場に中浦ジュリアンはいなかったのです。信者たちとともに苦しみを体験しませんでした。そのことで彼は苦しんだことでしょう。そしてこう書いています。「わたしは口之津の信者たちの後について、司祭生活を送ろうと決心しています」先頭じゃなく、後なんですね。

それから彼はずっと九州各地を隠れてまわり、秘跡を授けて信者たちを励ましていきます。捕らえられたのは1632年ですから18年間、潜伏司祭として活動したわけです。その姿勢は、おれについてこい、じゃなかったと思います。迫害におびえ、信仰の弱った人もいたでしょう。そういう人々を励まし続けた司祭の姿がそこにあります。それは100匹の羊の中の迷子になった1匹の羊を捜し求める羊飼いのような姿だと言えるかもしれません。自分も弱い羊の1匹であり、だからこそ、他の羊たちを励ます、そんな司祭ではなかったかと思います。

わたしたちのほんとうの羊飼いはイエスです。イエスにも先頭を行くだけでなく、群れの最後にいる羊飼いのイメージがあります。迷子の一匹の羊を探す羊飼いは、先頭に立っているのではなく、むしろ群れの一番後ろにいてくださるのではないでしょうか。イエスは、きょうの福音の中で、「わたしが来たのは羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるため」と言われました。そのよい牧者であるイエスが復活して今も生きておられ、わたしたちの先頭に立ち、またわたしたちの最後を見守りながら、わたしたちをいのちに導いてくださっているとわたしたちは信じています。

 このイエスの働き、よい牧者としての働きを手伝うために、自分の生涯をささげるのが司祭・修道者です。シスターたちもこのよい牧者の実によい協力者だと感じています。あるときは先頭に立って歩み、あるときは群れの中にいて、時には群れの最後を見守り、イエスとともに羊のために働く司祭や修道者をわたしたちは必要としているはずです。

今年の世界召命祈願の日のテーマは「地方教会における召命への働きかけ」です。世界中のそれぞれの国や地域で、それぞれに状況は違うけれども、その中で、司祭・修道者の召命の意味を深く考え、そのために祈るようにということだと思います。その中で、今日は、仙台教区の状況について少し紹介したいと思います。

東北地方の太平洋側という、ほんとうに信者が少なく、教会の力の弱い地域が被災しました。その中で仙台教区は今、司祭の人事異動を行おうとしています。それは内陸部の教会にいる司祭を太平洋沿岸へと移動させる計画です。盛岡や福島など比較的信徒数も多く、司祭も多い地域から司祭を沿岸部に異動させる、それは教会が被災者とともに生き、被災者とともに立ち上がっていこうとする姿勢の表れです。もちろん信徒の働きもいろいろなボランティアの働きも大切です。シスターたちはすでにシスターズリレーという形で、被災地に入って大切な働きをしてくださっています。でも、司祭がその現場にいることがどうしても必要だと仙台教区は考えているのです。この計画が実現するためには、仙台教区だけでなく、日本のほかの教区や修道会の協力が必要です。仙台教区からは全部で6人の司祭を派遣してほしいという要望が来ています。わたしたち東京教区は浦野雄二神父を派遣しました。半年の予定ですが、その後も誰かを派遣しなければなりません。

「わたしが来たのは羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるため」

このイエスの働きを今の日本の中でどのように実現していけるか、その実現のために、どれほどわたしたちは司祭・修道者を必要としているか。そのことを深く考えながら、このミサの中で司祭・修道者の召命のために祈りましょう。