教区の歴史
主の洗礼(マタイ3・13-17)
2011年01月09日
2011年1月9日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
東京教区年始のミサ
きょうは主の洗礼の祝日です。クリスマスから2週間たち、今日が降誕節の最後の日です。イエスの洗礼の出来事は、イエスが神の子として現される、という降誕節のテーマの一つの頂点であり、イエスが神の子としての活動を始める出発点でもあります。
イエスが活動を始めるのに先立って、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」というメッセージを人々に語りました。そして悔い改め=回心のしるしとして人々に洗礼を授けていました。「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ3・5-6)そこへイエスもやってきます。絵などで見るとイエスだけが洗礼を受けているかのように描かれているものもありますが、イエスは大勢の群集の中の一人として洗礼を受けました。ヨハネはイエスが特別な存在であることに気づいています。しかしイエスのほうは他のすべての人と同じようにヨハネから洗礼を受けることを望まれました。イエスの人々との深い連帯性があります。それを今日、特に感じたいと思います。一方ではイエスだけに特別なことがありました。「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」これはその場で洗礼を受けた多くの群集と違う、イエスだけに起こったことでした。しかし、同時に大切なのは、キリスト者の洗礼はこのイエスの洗礼に与るものだということです。わたしたちは皆、イエスと同じように「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(わたしが好ましく思う者)」という声を天からかけていただいているのです。徹底して人々と共に生き、人々の重荷や患いを共に担ったイエスは、わたしたちを本当にご自分の兄弟として受け入れ、同じ神の愛する子として、神のもとに導いてくださるのです。そのことの大きな恵みを深く味わいたいと思います。
今年2011年は21世紀がはじまって11年目の年です。10年前、日本の司教団は『いのちへのまなざし』というメッセージを出しました。21世紀のはじめに、カトリック教会としてあらゆるいのちを大切にしようという思いを多くの人と分かち合いたいと願って、やさしい言葉遣いで書かれましたから、多くの人に読まれ、好感を持たれたようです。今年、司教団ではこの『いのちへのまなざし』をもう一度振り返りながら、いのちの問題を考えたいと思っています。東京教区でも宣教司牧評議会などで、やはり取り上げていく予定です。皆さんも是非読み直してみてください。
『いのちへのまなざし』はいろいろな問題を扱っていますが、非常に重要ないのちの問題を扱っていません。それはテロと戦争のことです。21世紀のはじめ、わたしたち人類は、平和の問題をもっと楽観的に考えようとしていたのではないでしょうか。そして司教団もそうだったのかもしれません。しかし、その2001年の9月11日に、アメリカ同時多発テロが起きました。それから世界はテロが繰り返され、戦争をやめられない状態になってしまいました。昨年はキリスト教徒や教会を標的にしたテロもたくさんあり、多くの信徒や司祭、牧師が殺されています。この平和のことも、本当にいのちの問題として考えなければならないと思います。
わたし自身は3年ほど前から、カリタスジャパン啓発部会のメンバーとして「自死と孤立」の問題にかかわるようになり、その中で改めて『いのちへのまなざし』を読み直すチャンスがありました。『いのちへのまなざし』には自殺の問題も扱われています。1999年の統計が紹介され、2年連続で日本の自殺者が3万人を越えたと書かれています。でも、それから11年たって、昨年まで13年連続3万人を越えたと先日報じられていました。この自殺の問題について『いのちへのまなざし』は、上から倫理的な判断を下すという姿勢をとっていません。むしろ、死ぬしかないところまで追い詰められた人々の苦しみをなんとか受け取りたい、家族や親しい人を自死で失った人の痛みに何とか共感したい、そういう姿勢で書かれています。その姿勢を受け継ぎながら、昨年11月、カリタスジャパン啓発部会では『自死の現実を見つめて
―教会が生きる支えとなるために―』というパンフレットを作りました。
マタイ福音書8章に、イエスの活動のすべてをまとめるような言葉があります。マタイ福音書らしく旧約聖書の引用です。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」
イザヤ書53章の主のしもべの歌から採られた言葉です。イエスのなさっていたことはこれだ。マタイはそう確信して、この引用をしているのだと思います。
今日の洗礼の場面のイメージともつながります。イエスは人々の罪の痛みを、病や苦しみを共に担って、人々の中で洗礼を受けられました。
岡田大司教は新年のメッセージの中で、今年いのちの問題を大切にしたい、そしてこれまでと同様、心の問題も大切にしたいと語っています。それは抽象的な「問題」ではありません。生きた人間の問題です。○や×の答えを出せばいいようなことではないのです。一番、基本にあるのは、今日の福音のイエスの姿勢ではないでしょうか。群集の一員として洗礼を受けられた姿。へりくだり、すべての人と同じものとなられ、すべての人の痛みを、苦しみを共に担ってくださったイエス。だからこそ、最後の説教で「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」とおっしゃったイエス。このイエスの生き方にわたしたち一人一人が、東京教区の教会全体がしっかりと結ばれて生きることができますように、ご一緒に祈りたいと思います。