教区の歴史

教区の歴史

帰天司祭合同追悼ミサ説教

2009年11月30日

2009年11月30日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

第一朗読 Ⅰコリント13・8-13
福音朗読 マタイ25・31-40

このミサは、亡くなられたすべての司祭の追悼のためにささげるミサです。今年は1月14日に「心のともしび」のジェームズ・ハヤット神父様が86歳で亡くなられました。今年亡くなられた東京教区司祭はハヤット神父様だけでしたが、他にもわたしたちに親しい司祭として3人の方を思い出します。1人は、仙台教区の今野東志男神父様。2月18日、仙台でお亡くなりになりました。66歳でした。もう1人はスカボロ外国宣教会のフランシス・ハクシャ神父様。5月14日、82歳でカナダで帰天されました。さらに、7月24日にはアイルランドで、コロンバン会のウィリアム・スパイサー神父が59歳で亡くなられました。3人とも長く東京教区の教会で働いてくださいました。わたしが存じ上げないだけで、きっと他にもいらっしゃるかもしれません。

わたしにとってもう1人、強い印象を残した方の死は、韓国の金スーハン枢機卿の死でした。2月16日のことでした(86歳)。亡くなってから葬儀までの数日間で数十万人の韓国市民がミョンドンのカテドラルに弔問に訪れたそうです。カトリック信者だけでなく、イ・ミョンバク大統領始めとする他の教派、他の宗教の人もおおぜい金枢機卿を偲んで訪れました。何人もの人が言っていたことが印象的でした。「本当に惜しい人を亡くした」ではなく「本当に大切なものを残してくれた」。それは、ただ単に立派な人だったというのではなく、彼が残したものをわたしたちは受け継いでいきたい、という思いだったようです。

先々週、日韓司教交流会が大阪でありました。今年のテーマの一つは金枢機卿の残したものを学ぶということでした。ソウル教区の司祭、そして補佐司教として金枢機卿のもとで長く働いたチェジュ教区のカン司教さんが金枢機卿についての講話をしてくれました。

金スーハンは子どものころ、母親に「お前は司祭になりなさい」と言われて小神学校に入ったそうです。でも、神学生でありながら、ずっと司祭になりたいという思いは起こらなかったそうです。神学校をクビになるためにわざと規則を破ったこともありました。またある時は神学校の院長のところに行って、「わたしは母親に言われて神学生になりました。もう十分やりましたので、そろそろ辞めようと思います」と申し出たそうです。でも神学院長は認めてくれませんでした。そうこうしているうちに神学校の最終学年になりました。そして、そのとき、朝鮮戦争が起きました。最初、北の力が圧倒的に強く、南はどんどん追い詰められ、釜山しか残りませんでした。ソウルの神学校にいた金スーハンも釜山に逃げました。そしてそこで、北の軍隊によって、多くの司祭が殺されたということを聞きました。そのことを聴いた時、初めて、金スーハンは自分の意思で司祭になろうと決意したのだそうです。そのときはじめて、何のために司祭にならなければならないかが、分かったのだと思います。司祭の数が減っていく。釜山が落ちたら自分も殺されるに違いない。でもだからこそ、自分は司祭にならなければならない。そう感じていたのでしょう。

70-80年代のパク大統領の独裁政権下で、すべての人が沈黙を強いられる中で、人間を守るためにいのちがけで発言し、体を張って行動したという話を今更、繰り返して紹介する必要はないでしょう。カン司教の講話を聞いて、金枢機卿の生き方の根本には、叙階のときの決意があったからではないかと思いました。

わたしたちに先立っていった司祭たちのことを思います。みんなどのような思いで司祭になったのでしょうか? 皆どのような思いで司祭職を生き抜いたのでしょうか?

すべての司祭は、人を愛するために司祭になり、愛を生き抜こうとしたのだと信じます。人間的な弱さがあって、足りないところもあったでしょう。神様、どうかその罪をおゆるしください。でも精一杯愛して生きようとしたのです。その生涯の労苦と愛に、神よ、目を注いでください。そして、顔と顔を合わせて、あなたを仰ぎ見たときに、「お前が愛そうとしたことは、決してむなしいことではなかったのだ」とおっしゃってください。「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは愛である」とおっしゃってください。

わたしたち司祭はそのあなたの言葉を聞くために、生涯をささげたのです。

アーメン。