教区の歴史
教区合同追悼ミサ(府中墓地)説教
2009年11月01日
2009年11月1日 カトリック府中墓地にて
諸聖人の祭日(マタイ5・1-12a)
きょう、亡くなった方々の合同追悼ミサにあたって、わたしたちキリスト者の、死を超える希望をご一緒に確認し、新たにしたいと思います。
キリスト教的に言えば、人間はあるとき生まれ、あるときに死んでいくという、ただそれだけのものではありません。わたしたちは皆、神から来て、神のもとへと帰っていくものです。地上に生きている間、人間的に見れば、ある人の人生は成功、ある人の人生は失敗に見えるかもしれません。経済的に恵まれている人も、貧しさのうちに一生を終える人もいます。健康な人もいれば、病気や障害を持った人もいます。この世では、ラッキーな人もいれば不運な人もいる、そう見えます。
しかしわたしたちは、人生を肉体的な誕生から死までのものと見ないのです。目に見える世界がすべてではないし、生物学的ないのちがすべてではないし、カウントできる数の世界だけがすべてではない。もっと大きな歩み、神から来て、神のもとに帰っていく大きな旅があって、この世のいのちはその一部だと見ています。いいですね。今日わたしたちはお墓まいりに来ていますが
、ここが人生の終着点ではないんです。お墓は、神のもとにいく最後の停留所と言ったらいいでしょうか。お墓はもちろん、亡くなった方と残されたわたしたちの絆を思い起こす場所ですが、それだけでなく、ここから最終の目的地である神のもとへ旅立っていったことを思い起こす場所なのです。そしてむしろ、亡くなった方々が神の永遠の世界に入っていると信じるからこそ、亡くなった方とわたしたちの交わりが今もなくなっていないと信じられるのです。
神から来て神へ。そういう人間の大きな旅を思うとき、地上の成功や不成功、損や得、幸運や不運がすべてではなく、根本的に永遠の神との関係がどうか、ということが一番大切なことだということになります。この世的にどんな幸せそうに見えても、神との関係がおかしければその人の人生はおかしいし、逆に、どんなに苦しみに満ちた人生であっても、神としっかりつながっていれば、素晴らしい人生だとわたしたちは考えるのです。
きょうの福音で「貧しい人、悲しむ人、飢え渇く人は幸い」と言います。なぜなら、そこにこそ神との豊かなつながりがあるから、ということですね。
そして「あわれみ深い人、心の清い人、平和をもたらす人は幸い」とも言います。なぜなら、その人々は、その生き方をとおして神につながっているからですね。大切なのはこの神とのつながりです。なぜなら、この世のものはすべて過ぎ去りますが、神とのつながりは永遠に過ぎ去ることがないからです。
その神とのつながりを考えた時、一番大切なのは「愛」です。「神は愛」(Ⅰヨハネ4・8,16)であり、「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13・8)、これがキリスト教の確信ですね。わたしたちは永遠の神の愛に生かされ、永遠の愛に応えて生き、永遠の愛に帰っていくのです。だから地上で精一杯愛して生きようとするのです。聖人とはまさにそういう歩みをした人たちでした。
では聖人じゃない「凡人」はどうか?凡人の道はどういう道なのか。凡人の道も、神から始まり、最終的に神に帰っていく道です。でもその間、地上で生きている間は、神のことを忘れて迷ったり、道を踏み外したりして、最後の土壇場になって、神との決定的な出会いを前にアタフタするという歩みではないでしょうか? だから死んでから凡人は清めを受けなければならない、そのために煉獄というところがある、そう昔から教えられてきました。確かに、何からしらそういう清めが必要だというのは実感として分かるような気がします。
この清めとは、別の言葉で言えば「愛の完成」です。凡人だって一生懸命愛して生きてきました。親しい友を、家族を、せめてわが子を・・・。もちろん純粋な愛かといえばそうはいえないかもしれない。人を傷つけたり、裏切ったこともあるわけです。でも決して自分のことだけを考えて生きてきたわけではない。
そのわたしたち凡人の道も死で終わる道ではなく、死を超えて完成していく、そこに大きな希望があります。その意味で、今日の第二朗読は大切な箇所です。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(Ⅰヨハネ3・2)
御子に似たものとなる(別の解釈では「神に似たものとなる」)。それは、わたしたちの不完全な愛が、キリストの愛に変えられていくということではないでしょうか。決定的なキリストとの出会いによって、わたしたちは罪から清められ、愛そのものになっていくのです。
今日、亡くなった家族や知人のことを思います。それはわたしたち人間みなの、この長く、大きな旅路を思うことだと思います。わたしたちに先立って世を去った人々は、もう神のもとに行きました。わたしたちも同じ旅路を歩んでいます。その中で問われているのは、神とのつながりです。亡くなった人はわたしたちにそのことを教えてくれているのです。そのことを見失わないように。毎日毎日、仕事やお金やいろいろな思い煩いでいっぱいになりそうになっても、一番大切な神とのつながり、神の愛に気づき、感謝し、その愛に応えて精一杯生きることができますように。そう願いながらこのミサをささげましょう。