教区の歴史
召命祈願合同ミサ
2009年09月06日
2009年9月6日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
皆さんご存知のように、今年の6月19日(イエスのみ心の祭日)から1年間、カトリック教会全体で「司祭の年」を祝っています。テーマは「キリストの忠実、司祭の忠実」と日本語では訳されています。なんとなく分かりにくいですね。「キリストが神と人とに忠実・誠実であられたように、司祭は神に忠実であり、人に誠実である(あるはずだ、あるべきだ)」ということでしょう。
教皇ベネディクト16世が司祭年を定めた理由はいろいろありますが、一つの主な理由は「世界の一部の地域で司祭召命が極端に減っているから」だといわれています。日本はまさにその「一部の地域」の一つでしょう。今年の日本カトリック神学院の神学生の数は東京・福岡両キャンパス合わせて45人。そのうち日本人神学生は35人です。16教区でそのの人数なんです。東京教区は6人いますが、3人は助祭ですから来年卒業すれば残りは3人。来年の新入生はいません。非常に少ないと思います。だから祈りましょう、というのがわたしたちに基本的な姿勢です。そして、年に一度は、東京教区のそれぞれの教会から集まって、一緒に召命のために祈りましょう、というのがこのミサです。
「召命=召し出し=VOCATION」というと、神様と一人の若者の間の出来事のように思われるかもしれません。神様が(イエス様が)、ある日突然一人の若者に声をかけて、彼を司祭に、彼女をシスターに呼び出す。もちろんそういう面があります。しかし、共同体的な面も大切です。すべてのキリスト者が司祭や修道者になるわけではありません。誰かが選ばれて司祭・修道者になる。それは共同体全体のためです。この、教会共同体のためにある人が司祭に、ある人が修道者になるという面も大切です。
もし、神様と一人の若者というレベルを考えたら、「なぜ神様は、もっと多くの若者を呼び出さないんだろう」とか「なぜ今の日本の若者は神様の声を聞かないんだろう」という疑問が起こるかもしれません。しかし、共同体ということを考えるならば、違うことが問われるはずです。今、この世界の中で神様から教会に与えられた使命は何か。何のために日本の社会の中にキリスト信者の小さな共同体は存在しているのか。そして、教会が、神からの使命を果たすために司祭・修道者に与えられた役割は何なのか。そう問いかけ、そこに本当に大切な意味が見えてくるならば、司祭・修道者になろうという人は必ず出てくるはずです。
逆に言えば、今の日本のような状況はそれが見えにくい状況なのだということです。実は、世界的に見れば、司祭召命は決して減っていないそうです。貧しさや人権侵害・迫害という厳しい状況の中でこそ、教会の使命はもっとはっきりと感じられますし、そういう国々ではたくさんの召命があります。
ほんとうにわたしたちは、教会の使命をどのように受け止めたらよいのでしょうか?
第一朗読はイザヤ書の「主のしもべ」の箇所が読まれました。このしもべは苦しみの中にあって、神に聴き従い、人々に神の言葉を伝える使命を生きています。
第二朗読はヘブライ人への手紙。あらゆる点で兄弟姉妹と同じ者になられたキリスト、そのキリストは苦しみをとおして、神に従うことを学ばれたというのです。そしてこのキリストこそがほんとうの意味で神と人とを一つに結び合わせる「祭司」の務めを果たした、とヘブライ書は語っています。
そして福音は3度目の受難予告に続く、ヤコブとヨハネの願いの箇所。「しもべになる」「仕えるものになる」というキリストご自身の生き方が宣言され、それが弟子たちの生き方でもあることがはっきりと示されます。
これがわたしたち教会の使命です。人々の救いのために、神の言葉を聞き、徹底的に神に従って生きる、同時に兄弟姉妹とともに喜びや苦しみを分かち合って生きること。全人類が皆、神の子として、互いに兄弟姉妹として生きることができるように、自分のおかれた場で、日々働いていくこと。
そのような生き方は、「とにかくお金が大切」「われ先に、われ先に」という消費社会、競争社会の中で見失われている生き方だと言えるでしょう。国家や民族の敵対・対立の中で見失われていることだと言ってもいいでしょう。この対立や競争の世界の中で、教会にはすべての人と兄弟姉妹として生きるという大きなミッションが示されているはずです。
具体的に何をするのでしょうか。それは小さなことの積み重ねでしょう。
教会を訪れるすべての人に神のやさしさを伝えることができるよう、いつくしみと笑顔をもって人に接すること。悩んでいる人、悲しんでいる人の話を聞き、その痛みを分かち合い、その人のために祈ること。どんな絶望的な状況の中でも祈り続けることをとおして、救いと希望のしるしとなること。子どもや病人、障害者や高齢者、貧しい人を大切にし、祝福し続けること。どんな人も孤立しないで、安心していることのできるような共同体を作ること。仕事や住む家を失い、いのちや人間としての尊厳を脅かされている人々に、できるだけの援助を惜しまないこと。
教会がすることはそういうことですよね。司祭や修道者が自分の一生をかけてするのもそういうことですよね。
むなしい仕事ですか?人生をかけるに値しない仕事ですか?
そんなはずはありません。多くの青少年がこの召命の道を見いだすことができますように祈りたいと思います。そしてそのために、わたしたち自身、司教も司祭も信徒も、わたしたち自身がこの召命の道をしっかりと見つめて、しっかりと歩むことができるように、そして、青少年に向かって「わたしたちと一緒に働こうよ」と呼びかけることができる教会になりますように、今日このミサの中で心を込めて祈りたいと思います。