教区の歴史
愛は決して滅びない(連載3)
2008年09月14日
ペトロ岐部と187殉教者の列福にあたって
・・・カトリック新聞」 2008.9.14 第3971号掲載
3 信仰と愛の共同体
愛は決して滅びない
キリシタン時代のことを学んでいく中で、わたしが特に関心を持ったのは、この時代の初期に活動したルイス・デ・アルメイダという人のことです。ポルトガル生まれのアルメイダは、フランシスコ・ザビエルに遅れること3年、1552年に初めて来日しました。彼が日本に来たのは宣教師としてではなく、貿易商としてでした。インドのゴアやマカオで貿易によって富を得て、日本にも商売をするために来たのです。当時、山口にはコスメ・デ・トーレスという神父がいて、ザビエルの後を継いで宣教活動をしていました。アルメイダはこのイエズス会宣教師から影響を受けていたようです。
見捨てられた人を救う
日本に来たアルメイダは、私財を投じて豊後府内(今の大分市)に乳児院を作りました。当時の日本では貧しさのために育てることのできない赤ん坊を殺したり、見捨てたりすることが多かったようです。アルメイダはこれを見て、放っておけないと感じて乳児院を作ったと言われています。その後、アルメイダはイエズス会に入会し、もともと医師の資格を持っていたので、大分に病院を作ります(1557年)。この病院は日本で最初に西洋的な医術を行った病院でした。アルメイダはこの病院に初めから一般病棟とハンセン病の病棟を作りました。アルメイダの病院は成功し、多くの人が病をいやされ、キリシタンになる人も多かったと言われています。
当時の日本人がキリスト教にひかれた理由はいろいろあったことでしょう。南蛮貿易による利益を得ようとした大名もいたでしょうし、病気が治るというような現世利益を求めた人もいたかもしれません。しかし、アルメイダが示したように、当時見捨てられていた貧しい赤ん坊やハンセン病の人々をかけがえのない神の子どもとして見て、尊重するという姿勢が多くの人々に感銘を与えたことは非常に大切なことではないでしょうか。キリスト教のメッセージはいつの時代にも単なる言葉ではなく、まさにこのような生き方をとおして伝わるものだからです。
信徒の組の働き
アルメイダは「ミゼリコルディアの組」という信徒の組織を作って、これに病院の運営をゆだねました。「ミゼリコルディア」はラテン語で「あわれみ」を意味し、この組は貧しく苦しんでいる人々を助けることを目的とした信徒の組織でした。アルメイダは後に司祭になり、迫害の時代が始まる前(1583年)に世を去りました。しかし、彼の作ったミゼリコルディアの組は迫害の時代を生き続けます。
今回列福されるミカエル薬屋は、長崎のミゼリコルディアの組の会長(慈悲役)でした。各地のミゼリコルディアの組は迫害時代・潜伏時代の教会の人々を支え続けたと言われています。
当時の公教要理であった「ドチリナ・キリシタン」には、マタイ福音書25章31‐40節のキリストの言葉に基づいて、兄弟愛の身体的実践として次の7つのことが教えられていました。「飢えた者に食を与える事。渇いた者に飲み物を飲ます事。肌を隠せぬ者に衣類を与える事。病人と牢にいる者をいたわり見舞う事。行脚の者に宿を貸す事。とらわれ人の身を請ける事。人の遺体を葬る事」。
このような教えの実践が厳しい迫害の中にあってキリシタンの共同体的な助け合いを実現し、信仰を支えたのです。
今回列福される188人の中には、大きなグループがいくつかあります。小倉・大分・熊本で18人が殉教した加賀山隼人の一族など、九州各地に信仰と愛を守り抜いた共同体の姿がありました。1619年に52人が殉教した京都の教会共同体は、都から司祭・修道者が追放されたあと、信徒だけで信仰を守っていた共同体でした。1629年に53人が殉教した山形・米沢の教会共同体は、貧しい地方の中で信者以外の人々と苦楽をともにし、周囲の人々から尊敬を受けていた共同体だったと伝えられています。
「コンフラリア」とか「組」と呼ばれる信徒の共同体が、長い迫害と潜伏の時代に人々の信仰を支え、受け継がせていった姿は、現代の教会のあり方に多くの示唆を与えてくれます。