教区の歴史
愛は決して滅びない(連載2)
2008年08月10日
ペトロ岐部と187殉教者の列福にあたって
・・・カトリック新聞」 2008.8.10 第3967号掲載
2 イエスの証人になる
殉教者と訳されるギリシア語の「マルテュス」の元の意味は「証人」です。使徒言行録22・20でパウロは復活のイエスに向かってステファノのことを「あなたの証人」と言っています。ステファノはキリスト教最初の殉教者として有名ですが、彼の最期は使徒言行録にこう伝えられています。
「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」(7・59―60)。このステファノの最後の言葉は、ルカ福音書が伝えるイエスの十字架上での言葉と非常によく似ています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23・46)。最後まで自分を殺そうとしている人々をも愛し、ゆるし、そして神(あるいは、復活のイエス)に絶対的な信頼を貫いた姿はどちらもまったく同じだと言えます。ステファノの生涯の最後はまるでイエスの生き写しであり、だからこそ、彼は「証人」なのです。
殉教者とは「イエスの証人」です。それはイエスの死の証人というよりも、イエスのいのちの証人と言ったほうがよいのではないでしょうか。
イエスのいのち
実は、イエスの十字架の死について考える時も、死という一点を取り出してその意味を考えるのではなく、死に至るまでの生き方を見つめることが大切です。
イエスは神をすべての人の父とし、どんな人も例外なく愛してくださるいつくしみ深い神の姿を人々に伝えました。そして、その神に信頼し、人を、特に虐げられた貧しい人々を愛して生きました。イエスのメッセージと生き方は多くの人に希望をもたらしましたが、当時の宗教的指導者、エリートたちからは反感を買いました。イエスはこのために抹殺されることになったのです。もしイエスがもっとエリートや指導者に迎合した活動に切り替えていれば殺されずに済んだはずです。それでもイエスは最後の最後まで、どんな人も例外なく愛しておられる神に信頼し、どんな人をも例外なく愛そうとされました。上に見た、ルカ福音書が伝えるイエスの十字架上での言葉は、そのようなイエスの生き方を凝縮したような言葉だと言えるでしょう。
マルコ福音書でイエスがご自分の死について語る言葉は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10・45)という言葉です。これは自分の死が、「仕える」という生き方の頂点であることを表しています。ヨハネ福音書は受難物語のはじめで次のように言います。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13・1)。ヨハネによれば、イエスの死はイエスの愛の頂点なのです。
大切なのは、死だけを切り取ってその意味を見ることではなく、死に至るまでの生き方をとおして死の意味を見ることです。イエスの証人(殉教者)たちの生涯を見るときもそのことが大切です。
死を超えての完成
死に至る生き方。それは決して死で終わる生き方ではありません。信頼という神とのつながりは、死によって断ち切られるものではない、愛という人とのつながりも死によって断ち切られるものではない。神との絆・人と人との愛の絆は、むしろ死を超えて完成していくのだ。この死を超えて完成するものをイエスも証人(殉教者)たちも信じていました。「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13・9)とパウロは言いましたが、この言葉こそ、復活の信仰の核心を表す言葉だと言うことができるでしょう。
わたしたちも証人になるよう招かれています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)。それはイエスの神への信頼と人への愛を証しすることであり、イエスの復活のいのちの証人となることです。