教区の歴史
「みんなのために生きる」
2006年07月02日
・・・「一粒会だより」 2006.7 掲載
この春、わたしは初めて司教として助祭叙階式を司式しました。フランシスコ会が1人、カルメル会が1人、東京教区が3人でしたが、教区の助祭叙階式はそれぞれの出身教会で行なわれましたので、全部で5回行なうことになりました。
助祭叙階は、司祭叙階ほど目立ちませんが、神学生が神と教会に対して決定的な約束をする大切なときです。「助祭」と訳された元のギリシア語は「ディアコノス」で「仕える人」という意味です。助祭に叙階されることによって、教会の中で公式に奉仕者として立てられることになります。叙階式は「仕える」というキリストとその弟子たちの生き方を目に見える形で表す秘跡なのです。
ことばの典礼の後、叙階の儀が始まると受階者は司教の前に立ちます。そして神と教会のために自分のすべてをささげる約束をします。個人的な欠点やいろいろな悩みもあるでしょう。それでも目の前のこの人が自分のすべてを差し出そうとする姿に、わたしはその都度、大きな感動を覚えました。受階者を見守る共同体は深い祈りをもってその約束を見守っています。単なる人間の約束を超えた聖霊の働きをそこに感じることができました。
助祭叙階式に参加していた若者や子どもたちは何を感じたでしょうか。わたしは「こういう生き方もあるんだ」ということを少しでも彼らに感じてほしいと思いました。
人間が自分の力で自分のほしいものを手に入れようとする、自分の地位・財産・健康をひたすら追い求める、そういう生き方は間違っていると簡単に言うことはできません。しかし、そればかりを追及してきた結果、人は欲望と競争の世界に落ち込み、「共に生きている」という感覚が失われて一人ひとりがどんどん孤立していき、暴力や犯罪が目に余る社会になってしまったのではないでしょうか。さらに言えば、人生の意味を見失い、どこかで行き詰まったときに、みずからの命を絶ってしまう人が決して少なくないのが現実なのです。
神学生になり、助祭になり、司祭になるという生き方はこれとはまったく違う生き方です。それはわたし個人のためではなく、「みんなのために生きる」人生を選び取ることです。他者のために自分を犠牲にする、というよりも、わたしの命は神とのつながり、人とのつながりによって生かされているのだから、みんなのためにわたしはこの役目を引き受けよう、それが「召命」ということです。
若者たちよ、どうかその招きを感じてください。