教区の歴史
人間への共感をバネとして ― 外国人の司牧に関する司教教書 東京教区
1997年05月18日
目次
- 滞日外国人の増加がもたらす東京大司教区への問いかけ
- 司祭研修会において
- 抽象論を避け、生きた人間の営みへの共感として
- 職場での差別と蔑視
- 生活上の差別
- 言語・習慣・文化の違いからくるストレス
- ひとりぼっちのさびしさ
- 日本人男性との結婚生活の難しさ
- 共に祈る
- 小教区共同体の一員としての受け入れの難しさ
- 幼児洗礼について
- 緊急援助への備えのお願い
- カトリック東京国際センター(CTIC)の充実
東京大司教区のすべての信徒、司祭、修道者の皆様へ
はじめに
聖霊降臨祭のお祝いを申し上げます。
聖霊降臨祭は、教会の誕生の記念日です。罪深く弱い弟子たちは、御子イエス・キリストがお送りくださった聖霊を受けて、愛にみちた大胆な使徒に変わり、救いを求める人々に、主イエス・キリストの福音を伝える活動を開始しました。
今日の聖霊降臨の祝日に、使徒たちの上に注がれたのと同じ霊が私たちの上に注がれます。教区長として、私は、弟子たちの生き方を新しく変えた聖霊が、東京大司教区のすべての信徒・司祭・修道者に新たな光と力を与え、特に、厳しい状況下で生活を余儀なくされている外国人に対するより深い理解と愛の実践に導いてくださることを願って、この手紙を書き送ります。
滞日外国人の増加がもたらす東京司教区への問いかけ
海外諸国より職を求めて日本を訪れる人々および日本人の配偶者としてやってくる外国人の数は、着実に増えております。また、その中でも、東京大司教区内で生活していると想定される外国人信徒の数は 7万人を越えております。それは、8万余の東京大司教区の信徒数とはぼ同数であり、大司教区にとって安易に無視することのゆるされない数であります。
司祭研修会において
すでに教区ニュース等でご存じだとは思いますが、昨年司祭たちは、滞日外国人に対する司牧をテーマに研修会を行いました。このテーマを 2つの観点から検討いたしました。
一つは同じ信仰者としての観点です。フィリピンや中南米から来日する外国人には、私たちと同じ信仰をもっている者が多く、こうした人々を日本人を中心とした教会のお客さんとして接するのか、あるいは同じ母なる教会の兄弟姉妹として受け入れ、教会共同体の責任をもつ同じ仲間として接するのか、という問いでした。
正直のところ、この間いをつきつけられて、当初、多くの司祭たちは戸惑いました。司祭たちは、これまでひたすら日本人を対象として宣教司牧に専念してきたからです。「日本で生活する外国人は一時的滞在者にすぎないでほないか」という思いと「同じ霊、同じ信仰、同じ主キリストに結ばれる教会共同体の一員ではないか」という思いとの間で、司祭たちの意見は分かれましたが、「教会の中ではだれも外国人ではありません」という教皇の言葉に励まされて、前向きに外国人にも開かれた教会に転換していくよう、決意を新たにいたしました。
もう一つの観点は、日本に来て直面する生活上の困難を直視し、助けを求める叫びには具体的に対応すべきか否かという問いでした。司祭たちの思いは「滞日外国人に対する理解と共感の希薄な日本社会の中にあって、宗教、民族、文化、歴史の違いに直面して苦しむ人々を無視することは、キリストの心に背く。教会こそ、率先して、彼らの側に立ち、その人たちと共に生きていくべきである」ということで一致し、そのためにどうしたらよいか、かなり具体的なことまで話し合いました。皆様に送るこの手紙には、そうした話し合いの成果を取り入れております。
抽象論を避け、生きた人間の営みへの共感として
今回の司祭研修会のもう一つの特徴は、抽象的な議論を避けたということです。最初の日にはアジア諸国から農村花嫁としてやってきている女性たちのさまざまな問題にかかわっている 講師に基調講演を求め、2日目には日本での生活経験の長い数人の外国人に発題を願い、外国から日本にやってきて生活する人々が、人間としてどのように悩み、苦しみ、傷つぐのか、具体的に研修しました。こうして司祭は、滞日外国人の司牧の問題を生きた人間の問題として理解し、共感を深め、東京大司教区として具体的に何ができるか、を話し合いました。
私も、この手紙の中で、フィリピンからおいでになったマルガリータさん(仮名31歳・女)とペルーからおいでになったルイスさん(仮名36歳・男)を取り上げます。それは、祖国から離れた異国の地で生活をしている人々が、どのような問題に直面しているかを具体的に紹介して、皆様の共感を呼び起こしたいという思いからです。
職場での差別と蔑視
まず、この2人に共通した日本での体験は、差別でした。マルガリータさんもルイスさんも、同じように、「貧しい国から来た」「アジアや中南米から来た」ということだけで、日本人からさげすまれたという惨めな体験をしております。
ルイスさんが最初に就いた職場では、いわゆる3Kといわれる、「きつい」「汚い」「危険」な仕事を与えられました。また給料も、同じ仕事をしながら、日本人のそれとは比べることもできないほど低額に抑えられ、それに不満を示したり、拒むような態度を少しでも表そうものならば、さまざまな嫌がらせをされてしまいます。この 2人の証言によれば、アジアや中南米からの人々を同じ人間として対等に受けとめてくれる職場はごく少数とのことです。
このことは、私たち日本人の反省すべき点の一つです。明治の開国以来、私たち日本人には欧米諸国への潜在的なコンプレックスと憧憬があり、欧米人には寛大ですが、アジア諸国や中南米の人々には、根拠のない優越感を抱いてしまっております。それを、マルガリータさんもルイスさんも、敏感に感じております。
このように話を具体的に聞いていきますと、私たちがいわゆる「外国人の問題」として表現していることは「日本人の問題」であることが明らかになってきます。日本人である私たちが与えてしまっているものだからです。日本人が自らを反省し、悔い改めなければならないと思います。
「父である神さまの前に人間は兄弟姉妹である」という私たちの信仰の光にもとづいて、私たちの心情を潜在的に動かしてしまっている偏見と先入観を払拭し、このような差別観をなかなか克服できない日本社会の良き証しとなるよう努めるべきです。
生活上の差別
もう一つ、この2人が共通して体験したことは、日常の生活をしていく上でのさまざまな差別です。たとえば、マルガリータさんが、最初に直面した差別は、生活の拠点としてのアパートを借りようとしたときのことでした。「アジア・中近東・中南米の人はお断り」という不動産業者が多く、また日本人の保証人が求められたりなどして苦労し、住居を見つけるまでかなり時間がかかってしまったとのことです。
このような問題に対して、地域の小教区・あるいは修道会の皆様には、親身になって相談にのり、必要とあらばアパートを借りるときの保証人となれるよう、手助けをしていただきたいと思います。そのためには、個人の善意の努力だけでは限界がありますので、ぜひとも小教区として修道会として取り組み、こうした問題に直面しておられる人々の力になっていただきたいと思います。
言語・習慣・文化の違いからくるストレス
マルガリータさんとルイスさんが共通して体験したことのもう一つのことは、言語・習慣・文化の違いからくるストレスです。
2人にとって、日本の社会は、全く異質の世界です。言葉が分からない、気持ちを相手に伝えられない、文字が読めないということからくる緊張感。日本人のしきたり・つき合い方・礼儀作法等が理解できないことからくる戸惑い。さらにまた掃除の仕方、ゴミの捨て方、時間の守り方、物事の決め方等の些細なことがきっかけとなり、地域住民や職場の仲間との間に生じる不和。こうしたことが重なって最初の数年間はいっときも気をゆるめることができず、心に深いストレスを抱え込んでしまったとのことです。そのためにノイローゼになって、心身のバランスを崩してしまった仲間も多いということです。
こうした緊張をやわらげ、日本人の生活に適応できるよう、手助けすることも、私たちの大切な役割と考えます。一部の教会では、日本語教室を開いているところもあります。また生活相談のチームを設けている教会もあります。また日本社会に早く慣れるよう、外国人の参加を呼びかけて教会行事を試みている教会もあれます。
ひとりっぼっちのさぴしさ
滞日外国人にとってさらに辛いことは、孤独です。マルガリータさんもルイスさんも、親兄弟姉妹ほ祖国におり、身近に親身になって話し合える人がほとんどおりません。私たちもそうですが、孤独に耐えられる人間は、そう多くはありません。人間は誰もが肌のぬくもりを求め合うものです。遠い異国の地で生活し、すでに指摘しましたような重荷を背負う人々は、慰めあうことのできる仲間を求めます。祖国の便りを交換し、生活のための体験を分かち合ったり、情報を伝え合ったりするために、同じ国同士の者が集まるのも、当然なことです。そのために、日曜の教会が利用されることも、当然なことだと患います。できる限り、こうした方々に、教会を開放していただきたいと思います。
そこで独自の集まり方、部屋の山使い方などが原因となって、教会の司祭・信徒たちとの間にトラブルが起きたり、外国人の集まりが、路上にも溢れ、店が出たりして、近隣の迷惑になってしまうというようなことがあることも、私は十分承知しているつもりです。
トラブルの多くは、文化・習慣の違いからくるものです。聖堂を汚す、聖堂の中で騒ぐ、後かたづけをしない、時間を守らない、連絡が不十分だなどなど。こうしたことは、日本人の共同体にとっては、耐え難いことかもしれません。こうしたトラブルを解決するためには、一にも二にも相互のコミュニケーションが大事です。相手にきちんと要望を伝えることば、これからも日本で生活しようとする外国人の方々にほ貴重な学びの機会になるでしょう。また、そのために、外国人の方々の中に、日本人の事情もよく理解し、日本人の共同体と責任をもって話しあうことのできる責任者を育てることは、トラブルを解消していくための一つの知恵だと思います。また教会委員の中に、外国人が加わることも、一つの解決方法です。この点に関しては、いろいろな工夫・試みが可能だと思います。
同時に一方的に日本人のやり方を押しつけるのではなく、外国人の風習・やり方に、時間をかけて忍耐深くかかわってくださるよう、お願いいたします。
日本人男性との結婚生活の難しさ
日本人男性と結婚した女性たちの問題も、司牧上、そして人道上、無視することできない問題となっていることも事実です。
国際結婚は、同国人同士の結婚以上に難しい問題に直面します。言葉の限界もあります。風習・文化の違いもあります。
たとえば、フィリピン人女性と日本人男性の結婚を例にあげてみれば、次のようなことが指摘できます。フィリピン人の家族は、一般的に大家族です。家族の間に常に会話が飛び交います。子どもの数も少なくなった日本人の家庭の会話は決して豊かとは言えません。妻は、帰宅の遅い夫を、独りで家の中で待ち続けるということになります。またそこに姑の力が強い場合には、夫と姑の 間から、外国人妻がはじかれてしまうこともあります。意思の疎通がうまくいかないことから、夫が暴力を振るってしまうようなケースも少なくありません。
マルガリータさんの場合、結婚後3年目に夫からいきなり「好きな人ができたから、別れたい。金をやるから、国に帰れ」と一方的な宣告を受け、紆余曲折の末、離婚しております。結婚してから別れるまでの彼女が耐えた屈辱感は、私たち日本人に容易に理解できるものではありません。
身近なところに友人もなく相談相手もいない場合には、そうした家庭内の重圧に耐えられず、心身に不調をきたした人もおりますし、最近では薬物やアルコールに慰めを求めてしまうケースも多くなっております。またさらには人格が崩壊してしまうケースもあります。幸い、マルガリータさんの場合は、相談にのってくれるシスターや教会の仲間がいたことから、救われました。
どうぞ、日本人と結婚して、日本で生活している人々には、温かい言葉をかけ、その孤独の苦しみを少しでもやわらげるよう配慮してくださるようお願いいたします。
共に祈る
マルガリータさんにしろルイスさんにしろ、カトリック国からの人々です。生まれたときから教会に親しんできた方々ですから、教会とのかかわりが大きな支えと力になっております。教会に通うことを楽しみにしております。こうした人々が、日本の教会、地域の教会に慣れ親しみ、同じ典礼にあずかり、共に祈る、それは私たちの心からの願いです。そのために、聖書朗読の一部を外国語にしたり、説教の概要を外国語で説明したり、あるいは外国語の典礼聖歌を導入するというような工夫があってもよいとは思います。来日した外国人の信徒の方々に、原則的には日本の典礼を尊重し、それに参加していただくことば、大事なことと私は考えております。
しかし、マルガリータさんが、家庭のことで大変苦しみ悩んでいるとき、フィリピン人共同体のミサに参加し、幼いときから慣れ親しんできた典礼・聖歌に触れたとき、日本語の典礼には感じられなかった喜びと慰めを心の底から味わうことができたと、私たちに打ち明けてくださったことも、尊重すべきことと思いました。
全く異なる言語・風習・民族の中で生活する人々が体験する孤独と心細さ、そしてそれに常についてまわる緊張感に思いをはせるとき、こうした人々が幼いときから慣れ親しんできた典礼に触れるということは、大変救いになるということです。そうした機会を提供するということも私たちの責任だと私は考えます。
しかし、それは、現実的にすべての小教区が対応できるような条件を備えているとは限りません。場所の問題もあります。言葉の問題もあります。そうした対応は「地域協力体」の課題として、地域ぐるみでその可能性を考えてくださるようお願いいたします。
まだ、外国人司祭の多い男子修道会・宣教会には、こうした状況をご理解の上、積極的にふさわしい人材を派遣してくださるよう、協力を求めたいと思います。
また、ひとたび外国人を対象にしたミサを開始したら、それを安易に閉鎖することはゆるされないことです。継続していく責任が生じますので、私としては、今後司祭の人事異動に際しては、その辺のところも考慮していくつもりでおります。
小教区共同体の一員としての受け入れの難しさ
マルガリータさんもルイスさんも、幸いにも、事情を理解した主任司祭の導きにより、信徒としての信者籍を小教区共同体に入れることができましたが、残念なことに、多くの滞日外国人の方々は、私たち日本人信徒と同じような形で信者籍をおくことが困難です。いろいろな理由があります。祖国の教会に籍を登録するという制度がないということ。また、安定した仕事が少ないことから、条件のよい仕事を求めて短期間のうちに住まいが変わってしまうということ。また、多くの者が超過滞在であることから自分たちの住居を明らかにすることに警戒心をもっているということ。
こうした事情から、多くの主任司祭も、どう対応してよいか分からず、戸惑っております。また小教区共同体に信者籍を入れない限り、自分としては責任がとれない、と考えてしまう主任司祭も少なくありません。定期的に通う外国人の信徒たちに、信徒カード(アイディカード)を発行している教会もあります。それも一つの方法かもしれません。が、幸いなことに、多くの司祭たちは、「『登録するかしないか』は教会組織の問題であり、支えを求める外国人信徒を心から受け入れるということは、愛の義務である」という確信から、温かく外国人の信徒たちに対する宣教司牧に努力しております。
外国籍信徒の小教区共同体への登録の問題に関して、どのようにしていったらよいか、今後、司祭評議会、宣教司牧評議会、あるいは司教協議会等にはかっていきたいと考えております。
幼児洗礼について
多くの主任司祭たちが、幼児洗礼を求める親たちにどう対応してよいのか、苦慮しております。司祭たちには、洗礼を求める動機に対しての戸惑いがあります。「早く洗礼を授けないと、この子の生涯は呪われてしまう」とか「悪魔に取り憑かれてしまう」とかいう親たちの信仰理解への疑問や「ふさわしい宗教教育を子どもたちに与えられないのではないか」という親たちの生活への疑問と「救いをもたらす洗礼を求める者にはできる限り広く授けるべきである」という思いが交錯しております。
私としましては、幼児洗礼の依頼に対しては、親や代父母たちへの適当な要理教育の準備をした上で、洗礼を授けるようにしてくださるようお願いいたします。何が適当な準備かは議論の余地があるとは思いますが、できるだけ何度かの要理を学ぶ機会をもつよう配慮していただきたいと思います。
しかし、言葉の問題からすべての司祭にそれが可能でないことば確かです。ここで、皆様の参考になるのではないかと思い、あるブロックの解決方法を紹介いたしましょう。
そのブロックの司祭たちは、フィリピンの信徒の方々から幼児洗礼の申し出を受けると、それをレイミッショナリー(信徒宣教者)に紹介し、その指導のもとに親たちが教えを学ぶことを条件づけました。レイミッショナリー(信徒宣教者)は、司祭たちとの連絡を密に取りながら、幼児洗礼のための準備をします。
外国籍信徒の多い地域においては、この問題を、新たに展開される地域協力体の最優先課題として取り上げ、具体的に対応してくださるよう、お願いいたします。
緊急援助への備えのお願い
海外で病気になったことのある方には思いあたることだと思いますが、言葉ができないために病状を伝えることができず、外国人は大変苦労します。ルイスさんもそうでした。職場で倒れたとき、救急車の中や病院で病状を説明することができず、大変苦労したという経験があります。幸い、ホァンさんは、職場の良い同僚に恵まれ、彼のお陰でスペイン語のできるシスターに通訳をしてもらうことができましたが、これは恵まれたケースです。受け入れてくれる病院を探すこと、付き添うこと、さらには公共機関からの援助が可能かどうか等、緊急時に奉仕できるチームが、小教区共同体や修道会・宣教会さらには「地域協力体」に結成されると大変助かります。
また、入院費・治療費は高額です。保険に加入することのできる外国人はごく限られております。医療費が払えないために、病院から断られる場合もあります。教区全体で考えなければならない問題ですが、まずは身近な小教区で、一小教区で難しい場合には「地域協力体」で、募金をして蓄えておき、いざというときには、緊急に援助ができるように備えてくださるとありがたいと思います。この制度を長続きさせるためには、もちろん、緊急援助のためのルールを決めておくことが大切となります。
また、いろいろな事情が重なって、外国人が緊急に避難しなければならない緊急避難所(シェルター)が、必要になるケースもあります。教区に、外国人のケアにかかわっている方々から緊急避難所(シェルター)の必要性を訴えられたことがしばしばありますが、教区としては、適当なシェルターをなかなか提供できずに悩んでおります。どなたか、適当なシェルターを提供できる方がおいででしたら、教区の方に申し出てくださるようお願いいたします。また、修道会の関係者の方々には、修道院の一角にでも、適当と思えるような場がありましたら、ご配慮くださるようお願いいたします。
カトリツク東京国際センター(CTIC)の充実
外国人の方々への実践的な相談窓口として、東京国際センターが、大書な役割を果たしてきております。その活動の場は、江東区亀戸にあります。これまで実に多くの外国人の具体的な助けとなってきております。現在その活動は人道的な対応に重点がおかれておりますが、課題はそれだけではありません。ここに紹介しましたように、外国人の信徒のさまざまなニード(たとえば典礼や幼児洗礼等)に応えていくことも求められております。
私は、今回、皆様方には、人道的な視野そして司牧上の視野に立って、個人としてあるいは地域として力を合わせて、日本を訪れてくる外国の人々を受け入れてくださるようお願いいたしましたが、個人の力にも地域の力にも限界があります。私は、さらに総合的な視野に立って対応できるようなセンターの充実をはからなければならないと考えております。その具体化に関しては、司祭評議会・宣教司牧評議会にはかっていたきいと考えております。・プランが具体化しましたら、改めて皆様の積極的な協力をお願いいたします。
むすび
1 キリスト教の土着化についての意識転換
第二バチカン公会議後、地域教会の独自性が認められ多様性の一致の旗のもとに、教会は宣教司牧活動を展開してまいりました。その典型的な例が、それぞれの国・民族の言語による典礼です。日本の教会もその流れにそって、歩んでまいりました。その中で、大きな課題は、キリスト教の土着化でした。ヨーロッパの 2000年の歴史の中で育ち、伝えられてきたキリスト教を、「日本人の背丈にあったものにする」ための努力を、今後も忍耐深く続けていかなければならないことは事実ですが、外国人信徒の数の増加は、私たちが、日本人の背丈にあったものを探すということに、いつまでもとどまっていることをゆるさない、新たな課題を私たちに投げかけてしまったのです。
キリストの愛は、ちょうど、キリストが神であるにもかかわらず、神であることを放棄されたと同じよう、私たちは、日本人であることを、ときには脱ぎ捨て、裸になって、多様の文化・言語を生きる信徒の共同体を、そのまま受け取っていかなければならない時代に入ろうとしているのです。それは、これまで日本人の教会が体験したことのない、重い課題ですが、それを避けることは、ゆるされません。むしろ多様なものを受け入れることは、確かに辛いことですし、さまざまな緊張と痛みをともなうものでありますが、それによって、日本の教会は真の意味で力をつけ、豊かになっていくのではないかと思います。
国際化が唱えられておりますが、国際化は、多様な文化・言語・歴史を生きる人々・共同体との出会いをとおして、具体的に始まり、深められていくものであることを忘れてはならないと思います。
外国人との出会いをとおして、島国根性をなかなか抜けきれない日本社会にあって、日本の教会が先駆者的役割を果たしていくことを、私は願っております。
2 アジア、中南米、中近東の人々と、友人としての交流を
今回、この手紙で、私は教区としての責任から、問題点を強調しましたが、その豊かさについて忘れているわけではありません。教区の皆様は、毎年、 4月の終わりの日曜日に、東京カテドラルの構内で、「インターナショナルデイ」の催しが行われていることを、ご存じでしょうか。この催しは、東京大司教区創立百周年記念行事の一貫として始められ、その後、毎年行われるようになり、今年で第 7回目になります。参加者の数も参加国籍の数も毎年増加し、今年は、30数か国、3000人近くの人々が集まりました。
国際色豊かなこの集まりをとおして、日本で生活する外国籍の人々の素顔に触れることができます。この集まりに参加していたマルガリータさんもルイスさんも、本当にのびのびと明るく楽しんでおりました。普段見られない民族衣装をまとった 2人には、それぞれの国の豊かな伝統・文化を誇りにしていることが、その態度から溢れでています。ゆっくりと話してみますと、人間として魅力があり、さまざまな困難をたくましく賢明に乗り越えてきた人柄の確かさが伝わってきます。また、日本人の私たちには決して真似できない明るさや信仰の表し方に接して、多くを学ぶこともできます。
私たちの教会共同体を訪れる人々は、私たをに豊かさをもたらしてくれる友であり、複雑な現代世界の諸問題を解決していくための貴重なパートナーでもあります。世界の平和は、互いに人間として信頼し尊敬しあう真実の友情の上に築かれていくのではないでしょうか。
私たちの上に注がれる聖霊が、私たちの心を照らし、導いてくださいますように。
1997年5月18日 聖霊降臨祭の良き日に
カトリック東京大司教区
教区長 白柳 誠一 枢機卿