お知らせ
Tangible第28号
2025年01月07日
2024年 生涯養成委員会 年次報告
東京大司教区の生涯養成委員会は、発足以来、本来の信徒養成の各種の必要のうち、優先順位が高いと考えられている教区カテキスタ養成を準備し、実施してきました。今後は、これに加えてカテケージス関係、聖書関係、典礼関係、教会行政関係の講座などの開講も目指してまいります。
本報告では、2024年度に行った事項と、近い将来に向け考えている方向性についてご報告いたします。
1. 教区カテキスタ
① 教区カテキスタ養成講座
第6期教区カテキスタ養成講座は2023年9月から始まり、2024年9月には2名が教区カテキスタとして認定・任命を受け、チーム清瀬、チーム松戸に配属されました。
今後、新規カテキスタの養成は2025年度、2026年度の2年間は行わず、2026年10月から、第7期として再開を予定いたします。
② オープン講座
2024年9月より、信徒および奉献生活者を対象としたオープン講座を実施しております。この講座は本来教区カテキスタ養成のために企画したものですが、応募者が3名と少なかったことから一般に公開したものです。期間は2025年8月までの1年間、月2回のペースで全22回行います。
初回のオリエンテーションには一般参加者約90名に教区カテキスタ・スタッフ併せて約40名を加え、130名ほどが参加いたしました。2回目以降は一般参加者、教区カテキスタ等併せて80~90名が参加しております。
講座は教区司祭(髙木賢一師、猪熊太郎師、高木健次師、古市匡史師)、サレジオ会阿部仲麻呂師、フランシスコ会小西広志師、教区信徒赤井悠蔵氏が担当いたします。
なお、講師陣は未定ですが、2025年10月からも、同様のオープン講座を開講する予定です。
③ カテキスタ向け講座
新規カテキスタ養成を行わない2年の間に、既に認定を受けた教区カテキスタおよびスタッフ約60名を対象として、1年6カ月を次の3つのフェーズに分けた再養成プログラムを行います。
第1フェーズ:「わたしたちはどこから来たのか」 (召命の自覚)
第2フェーズ:「わたしたちは今、どこにいるのか」(課題とチャレンジの共有)
第3フェーズ:「聖霊はわたしたちをどこへと導くのか」(具体的なプロジェクトの作成)
④ 派遣先小教区との交わり
派遣されて入門講座やフォローアップ講座を行う小教区の司祭、信徒の方々と、教区カテキスタが良い交わりを保つことが大切です。小教区はそれぞれの地域性などにより異なった特徴を持っており、カテキスタはそれを踏まえて講座を行っていくことが望まれます。
このため、今後は少なくとも年に1度は生涯養成委員長と事務局が派遣先の小教区を訪問し、意見交換を行うこととします。2024年は10月~11月にかけて、翌年3月をもって派遣を中止する松原教会と神田教会を除く、清瀬、関町、関口、葛西、松戸、西千葉の6教会を訪問し、主任司祭、教区カテキスタ、支えてくださっている信徒の方などと意見交換を行いました。
⑤ 新たな派遣先小教区へのアプローチ
各小教区から教区カテキスタの派遣のご依頼があった際には、できる限りご要望にお応えするよう努めます。2024年11月には築地教会から、日曜日に周辺地域の若い夫婦が子供連れで訪れることが多く、その人たちへの対応を行うカテキスタの派遣依頼があり、検討の結果、2025年1月19日より原則月2回の講座を開設することにいたしました。これまでの派遣先は受洗を前提とした講座でしたが、このケースの場合には、先ず教会を知っていただく、キリスト教について興味を持っていただく、ということから始まります。築地教会周辺の湾岸地域はタワーマンションの林立で人口が急増している地域であり、住民の方々に教会の存在を知っていただくきっかけを作るための派遣となります。
今後、東京教区内の地域別の特性に合わせる形で、カテキスタの派遣を行っていく所存です。
2. 聖体授与の臨時の奉仕者
2024年3月~6月にかけて、奉仕者の養成プログラムのための企画作業を8回行いましたが、手順の誤りにより計画を中止することになりました。今後、ある程度時間をかけ、次の2つの段階を経て、教区が認定する「聖体授与の臨時の奉仕者」の養成を計画いたします。
① 一般信徒への聖体に対する正しい認識への招き
コロナ後に明らかになってきましたが、小教区ごとに信徒の聖体に対する認識に違いが見られます。ご聖体について皆で一緒に考察し、祈ることを通して、より豊かな理解と体験を深めてまいりましょう。
そのために、広く一般信徒を対象とした聖体に関する研修を行います。
② 信徒による聖体授与の臨時の奉仕者養成プログラム
上記研修を行い、共通した聖体に対する理解が進んだ段階で、奉仕者養成プログラムを企画します。東京大司教区では、地域によって、また個別の小教区の司牧司祭によって奉仕者の必要性が異なりますので、必ずしも全ての小教区で奉仕者が必要とされるわけではありません。この点を踏まえた養成が望まれます。
現場の声
あしあとが一つだったとき
カテキスタ
チーム西千葉◉第3期生
小岩教会 市川 正史
カトリック入門講座で「見失った羊のたとえ」(ルカ15・1~7)を担当させていただきました時、「あしあと」という詩を配布資料に記していました。
「ある夜、夢を見た。わたしは主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、人生が映し出された。
どの光景にも砂の上にふたりのあしあと、一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあと。
……一つのあしあとしかなかったとき、それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだったとわたしは嘆きます。
……主は、ささやかれた。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負ってあるいていた」
(マーガレット・フィッシュバック・パワーズ、松代恵美訳『あしあと』太平洋放送協会、1996年などを参考に私訳)
講座に来ている一人の未信者の方は、この詩を見て、「以前、借りて読んだ本に載っていて、好きな詩です。資料に記されているのでとっておけます。ありがとうございます」と声をかけてくださいました。そのメッセージに、私もうれしく感じました。
この詩は、カテキスタ養成講座の模擬授業の「見失った羊のたとえ」の回でお話させていただいた時にも、触れていました。模擬授業の後、講師、スタッフの皆様から講評をいただけるのですが、約4年前、講師の岡田夫妻から、「この『あしあと』の詩は、入門講座の中で、なるべく早い段階で伝えてあげられるといいと思いますよ」とアドバイスをいただいておりました。
◆派遣先の西千葉教会で感じる温かみ
その後、私は2022年9月に東京教区カテキスタとして認定・任命いただき、カトリック西千葉教会へ派遣されました。当時の「チーム西千葉」先輩カテキスタ男性2名、女性4名から心優しく受け入れていただき、2023年3月から入門講座に参加しております。知識も心も足りない私ですが、チームの皆さんが助けてくださいます。小岩教会で考え方・感じ方を記して贈ってくださる方、西千葉教会の福島神父様と信者さんがチームメンバーに温かく声をかけてくださることに気持ちが明るくなり、そしてカテキスタ仲間でもある西千葉教会の信者の方が、結び目になってくださり、感謝しております。
活動を簡単に紹介いたします。西千葉教会での入門講座は月に2~3回、土曜日16時~17時15分に開催。講座回数は年20回前後、現在はカテキスタ5名で主担当・サブ担当を割り振り、順番に担当していきます。年間講座の前半は、福音書に触れ、自身の体験・感じ方を交えながら、分かち合っていきます。「父なる神と私たち」「神の恵み」などのテーマに沿いながら、イエスの生き方、昇天と聖霊降臨までの内容です。後半では、ミサ、典礼、秘跡、……日々の信仰生活について話しながら、ともに思いを交わしていきます。講座参加者とチームメンバーの声が交わるときに、とても温かみを感じます。
◆旗を掲げ、信じて望み、待つ
2023年3月から1年ちょっと、未信者の方の参加がなかったですが、西千葉教会の信者の方が2023年に1人、2024年前半に2人参加され、一緒に聖書を読み、分かち合うひとときをいただけました。福島神父様と講座について相談した時に「未信者の方がいつ来るかは分からないけれど、いつか来ます。信じて望み、入門講座を続けて待ちましょう」と、チームを勇気づけてくださいました。
カテキスタ養成講座の時、猪熊神父様がある書物の紹介の中で「強い雨風の時に、通ってくる人はいないかも知れない。でも1人が来るかもしれない。準備していましょう」というお話をされ、「講座を行っている旗を掲げ続けましょう」とメッセージをくださったことも思い起こし、メンバーの気持ちも一致しました。猪熊神父様からカテキスタはチームであることを大切にと教えていただけました。
入門講座には2024年5月に1人、8月に3人、未信者の方が来てくれました。
◆「物語ってください、体験として」
実は、「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20・1~16)について分かち合っている時、「私は悩んだとき、人と比較してしまい、自分だけがどうして辛い思いをしなければならないのか感じた」と話すと、講座に参加されている一人の方が「それこそ、『あしあと』の詩ではないですか」と言葉をかけてくださいました、信仰を感じるメッセージでした。恥ずかしい私、でも「ありがとうございます」と素直に答えることができました……。
《私は孤独と思っていたときもイエス様がそばにいてくださったと感じた》~十字架のイエス・キリスト、見つめる聖母を想う。そして陰ながらに祈り支えてくださった人がいる。
《一人ひとりの中にキリストはいる》~苦しみ、不安の中で、希望、自分自身を見失いそうなときに、私たち一人ひとりを大切にしている父なる神は捜しにきてくださる。
イエス様はそばにいてくださる。少しでもお伝えできればという気持ちを呼び起こします。小西神父様から「物語ってください、体験として」と教えていただけました。
故郷の教会・教区で言葉少なくとも語り合い一緒に歌った仲間、優しく温かく見守ってくださった神父様、信者の皆さん、家族、小岩教会の神父様、シスター、信者の皆さんにとてもお世話になってきたこと、神さまの恵みのもと一人ひとりとの出会いに育まれた大切なことを、少しでもお返していきたい、喜びを伝えたいと心新たに願い、祈ります。
信仰でつながれる喜び、神を知り神と親しくなる喜びを味わえますように
カテキスタ
チーム西千葉◉第1期生
五井教会 神﨑 理恵
西千葉教会の聖堂の隣にある元幼稚園の2階大会議室で、私たちカテキスタは受講生が来るのを待ちます。
今から4年前、新型コロナウイルスのために政府から緊急事態宣言が出され、外出もままならなくなり、私たちの入門講座も当初の予定を大幅に変更せざるを得ませんでした。スケマを何度も書き換え、講座にもいろいろな配慮が必要になりました。それでも2020年11月になんとか開講にたどりつき、4名の受洗希望者とともに学びを始めることができました。今思えばずいぶん遠いことのように思えます。
さて、現在、チーム西千葉では、4名の受講生と5名のカテキスタ、そしてサポーターとして西千葉教会の信徒の方(カテキスタ第1期生)が入門講座に参加しています。 カテキスタとして西千葉教会に派遣されてから約5年が経ち、手探りで始めた入門講座も、今は一人で講座の下準備をするというよりも、「このテーマではこれを伝えよう」といったことをチームの皆と話し合いながら作り上げています。私は自分の思いばかりが先走ってしまうことが多々ありますが、初心に戻り、受講生の方々に平易な言葉で語り、頭の中に聖書の場面を思い浮かべてもらえるよう工夫しています。
ある日、私は担当した講座のなかで、用意した内容を必死で説明していました。振り返ると、受講生が理解していようがいまいが、おかまいなしでした。講座が終わった直後の反省会では、「最初の15分、何の話をしているかわからないっていう顔をしてたよ」と指摘されました。それでも、後半になると、受講生がぽつぽつと感想やイエス様の印象を語ってくれるようになり、場が温まって良い雰囲気になっていました。その場を大事にしていきたいと思うのです。 また、「聖書に興味があって教会に来てみました。洗礼は考えていません」と言っていた方が、3カ月後に「ミサに出てみようと思います」とおっしゃったときには、カテキスタ全員の心は喜びにあふれました。うれしい瞬間です。キリスト教の一般的な知識を伝えることも大切なことでありますが、この道をともに歩む仲間が増えていくような気がしました。
呼びかけてくださる神の声に信頼を置き、小さな歩みを前に進めることができますように。偶然のように集まった私たちと受講生の皆さんとが信仰でつながれる喜びを、そして神を知り神と親しくなる喜びを味わうことができますように。
典礼あれこれ 第18回
「感謝の典礼3」 私たちのささげるミサ
奉献文の祈りがささげられた後、「キリストによって キリストともに キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」と栄唱がささげられます。栄唱を唱えながら、聖別されたパンとぶどう酒が高く掲げられますが、これは3、4世紀の教会にすでにみられるほど古いものです。
そして、この栄唱に応えて唱えられる「アーメン」は、別名、グレートアーメン(「大いなるアーメン」)とも呼ばれ、ヒエロニムスによれば、このアーメンが空の雷鳴と同じように教会堂に響き渡ったと伝えられています。言うまでもなく、このアーメンが重要とされるのは、司祭の司式奉仕によってささげられた奉献文全体に対するアーメンだからです。
極端な例ではありますが、もし、会衆によるアーメンの応答が一切なければ、司祭がささげた奉献文に同意しない、という意思表示にもなりかねません。それほど大切なアーメンなのです。そしてこのことは、ミサは司祭だけがささげるものではない、ということを明確に表しているとも言えます。教皇フランシスコは、使徒的書簡『わたしはせつに願っていた』の中で、「ミサを祝う主体は司祭だけではなく、キリストのからだである教会共同体全体であることをいつも忘れずにいましょう」(36項)と私たち一人ひとりに呼びかけています。
キリストの名のもとに、神さまによって集められた教会共同体全体がささげた奉献文に続いて、「主の祈り」がささげられ、世界に、そして教会に平和を願う祈りが続きます。聖体拝領の直前には、直接顔と顔を合わせている信仰共同体の中で、平和のあいさつが交わされていきます。平和を祈る対象が徐々に狭められていることにも心を留めたいと思います。
聖体拝領は、感謝の典礼の頂点とも言えるひとときです。一人ひとりがキリストの御からだをいただき、主キリストと一致させていただく時です。拝領後の沈黙の時は、復活されたキリストの現存が満ち満ちたひとときとなっていきます。先に引用した教皇の使徒的書簡には、教皇聖大レオの言葉が記されています。「主の御からだと御血の拝領の結果、われわれは受け取るものの中へ移る」(41項)。
本稿で連載は最後になりますが、私たち一人ひとりが、意識してミサをともにささげることの大切さを強調したいと思います。司祭だけがささげるミサなのではなく、一人ひとりが教会共同体の一員として、責任と自覚をもってささげるミサでもあるのです。そして、それを繰り返すことによって、ミサの精神を心と身体に刻み続けていくのだと思います。こうした典礼による養成を通して、私たち一人一人は「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」(エフェ4・13)させていただくのです。
※Tangibleは今号をもって休刊といたします。長い間ご愛読いただきありがとうございました。