お知らせ
Tangible第27号
2025年01月07日
新カテキスタの声
教会を訪れた人を「お帰りなさい。待ってたよ」とお迎えしたい
カテキスタ
チーム清瀬◉第6期生
町田教会 掛水 雅江
1年間のカテキスタ養成講座での私の模擬授業は散々たるものでした。模擬授業の準備で調べること自体は、とても楽しかったです。しかし、それは私にとって情報過多となり、まとめられなくなり、時間切れとなり、焦点ボケすることの繰り返しでした。このような状態で、カテキスタが務まるわけがない。私には無理だと日々感じていましたので、5月の面接時にいただいた《教区カテキスタ認定・任命のための申請書》の提出延期をお願いしました。その際の猪熊神父様のお言葉から、教区カテキスタとしての奉仕を希望しない選択の自由も与えられていると私は解釈し、気持ちが軽くなりました。
では、キリスト者としての私が望むことは?私が望むことは、「神が喜ぶことをしたい。神の国を実現したい」です。「神があなたをこよなく愛し続けていることを、腹の底から感じて欲しい、感じ続けて欲しい」。そして、「共に神の愛に応えたい=共に神の国を実現したい」。具体的にどのような形で実行するのか?私にとって、カテキスタとして奉仕することなのか?その時も今も、正直、分かりません。
ただ、猪熊神父様に、申請書は祈りながら書くようにと言われたので、「あなたのお望みのように私を使って欲しいのです」と祈りながら申請書を書きました。あとは、お任せしようと。ですから、認定・任命されるとはみじんも思わなかったので、認定・任命ミサでは、狐につままれたようでした。
認定・任命されてから3カ月近くが経ちました。先輩カテキスタの方々の豊富な知識、能力の高さ、熱意に触れ、「私でいいのか?私はやっていけるのか?」という不安を、やはり感じています。と同時に、私は、神が使いやすいように空っぽになろう。与えられているものは精一杯使い、足りないものは、与えて下さいと祈り続けよう。教会の高い敷居をまたぎ、重たい扉をたたき、一歩踏み出してくださった方にお会いできることを楽しみに準備したい、と思うようにもなりました。
かつて、帰る家を見失い、路頭に迷っていた私は、最後に、幼児、小学生時に通っていた聖公会の教会にたどり着きました。礼拝の後、仲間の悪口を言う、牧師の悪口を言っているくせに、牧師を持ち上げている。日曜学校の担当の大人は、私たち子どもに平等に接してくれない(私が勝手にそう感じていただけです)。押し付けがましく聖書の話をする。そんな教会が大嫌いでした。中学生になったのをきっかけに、しめしめと行かなくなりました。ですが、ドン底に落ちた時、心療内科、カウンセリング、神社仏閣、カトリックの教会、日本キリスト教団の教会を訪ね歩き、最後にその教会にたどり着いたのでした。泣くこともできなくなっていた私は、やっと家にたどり着けた安堵感からか?初対面の牧師の前で、毎主日の礼拝の中で号泣していました。私は、教会を訪れた人を「お帰りなさい。待ってたよ」とお迎えしたいです。私がしていただいたように。
カトリック教会に転会したのち、今回の教区カテキスタ養成講座を受講することになりましたが、本気で指導し、支えてくださった猪熊神父様、スタッフ・講師の方々、見守ってくださった町田教会の田中神父様、町田教会の仲間たち、夫、息子に感謝しています。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします
「共にいる」―それは、大きな喜び、例えようのないほどの安心感、希望
カテキスタ
チーム松戸◉第6期生
洗足教会 川本 裕子
教区カテキスタ養成講座「共に歩む信仰の旅―同伴者イエスと共に―」1年間の学びの最終回2024年9月7日(土)まとめの講話と講座修了式、教区カテキスタ認定・任命ミサ、懇親会は、私にとって大きな出来事となりました。
私は、この日、「共に歩む信仰の旅」という言葉通り自分自身が「共に歩んでもらっていた」そして「今も、これからも共に歩んでもらえる」と気づきました。 猪熊神父様はじめ神父様方は、講座を開講し、導き、信仰の目を開いてくださいました。私は講座の内容に沿うように次第に自分自身が変えられていきました。 スタッフの方々は、いつも温かく励ましてくださり、お顔を見ると涙が出てしまうほどのありがたい存在でした。資料の準備、発表の練習など養成講座の勉強をしていると次の講座はあっという間にやってきます。自分の力だけではなく、皆さんがいらっしゃったから続けられたとあらためて実感しました。
アンドレア・レンボ補佐司教によるまとめの講話、そしてミサ。福音を宣べ伝える召命をいただき、私は初代教会の使徒たちのように、派遣され旅立つ思いがしました。それと同時に、やはり一人ではなく、ここにいらっしゃる仲間の支えがあってこそ踏み出し、歩み続けることができるのだと実感しました。ミサ中は、背中に先輩カテキスタの方々のとても温かい大きな支えのようなものを感じて座っておりました。皆が呼び集められ一つになりイエス様に包まれている体験でした。
「共にいる」―それは、大きな喜びであり、例えようのないほどの安心感、希望です。 これが神様のみこころ、そしてイエス様がいつもそばにいて伝えてくださっていることなのだと、私の中に刻み込まれました。本当に、この講座の最後の授業、1年間の総まとめを全身全霊で受講したかのようでした。
私の「気づき」の恵みを、これから巡り合う入門講座を受講される方々にお伝えしていくことができますように。そして共に歩んでいくことができますように。 皆さま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
現場の声
“理論武装”ではなく“分かち合う”ために~酸いも甘いも味わいながら…~
カテキスタ
チーム清瀬◉第1期生
麹町教会 荒井 貴
新型コロナウイルス 感染拡大のなかでの出発
私が教区カテキスタとして奉仕を始めたのは2021年7月でした。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、最初の任命・認定から1年以上が経過していました。派遣先は関口教会で、この時も感染拡大による不安な状況が続いていました。
関口教会は都心にある大きな教会で、講座の参加者に出入りが多く、不安定な状況が続きました。そこで、新しい参加者が来るたびに「ミニオリエンテーション」として洗礼の意向や所属教会の希望について確認しました。また、講座のプログラム(スケマ)も7月から開催になったため、テーマや内容を変更しました。
「易しく伝える」ことの「難しさ」
講座での経験を重ねていくうちに私は自らの力不足を痛感するようになりました。カテキスタ養成講座で一度学んだテーマについて、自分なりに予習をして講座に臨んでいましたが、同席していたベテランのカテキスタから「補足」され、私の話があっさり持ち去られたこともありました。また、ある参加者からメールで「話が難しすぎて元気をなくしました」という反応もあり、「易しく伝える」ことの「難しさ」を痛感しました。
関口での奉仕を始めて1年が経とうとしていた頃、当時養成担当だった猪熊神父様から声がかかりました。「荒井君には清瀬教会に行ってほしい。君のそのキャラクターでチームを大いに活性化してもらいたい」。こう言われた時には「何…オレが清瀬に行くの!?」と思い、関口教会で共に奉仕していた仲間からも「荒井君、ヘッドハンティングされましたね…」と言われ、ずいぶん戸惑いました。
新たな派遣先での気づき、手探りしながらのフォローアップ講座
しかし、この派遣先変更が私自身の変化にもつながりました。清瀬教会に実際に足を運んでの「派遣前講習」を通じて、共同体の皆さまや主任神父様と直接お話をする機会が与えられたことで、講座に向けた準備にも良い影響が出てきました。それまでの予習の姿勢としてはまさに「理論武装」だったことに次第に気が付き、予習することで鎧とまでは言わなくてもハリネズミの持っている針、あるいはアルマジロが持っている甲皮のような硬い皮をまとって講座に臨もうとしていたのかも…そう感じ始めていました。
今、清瀬教会では入門講座だけでなく既に洗礼を受けた方々に向けた「フォローアップ講座」も開催されています。カテキスタによるフォローアップ講座の運営は初めての試みで、手探りしながらその道を歩んでいます。どちらの講座にせよ、硬い甲皮やトゲトゲした針を身にまとうのではなく、着心地の良いジャケットをサラリと着て講座に臨んでいきたいものです。 また清瀬教会では、土曜日に加え日曜日にも講座があります。朝10時のミサに出てから講座が始まります。講座の出だしでミサの内容(典礼暦や説教)について簡単に触れることが講座の導入として、とても効果的です。
教会が「共同体」であることを感じる時
そして私には清瀬教会でのお気に入りの場面があります。それは、主日ミサの「奉納」です。祭壇で奉仕できないような小さな子どもたちが親御さんに導かれながら祭壇に献金を奉納します。大人なら片手で持てるような献金かごですが、小さな子どもたちにとっては両手いっぱいに抱え込むような大きさです。少し危なっかしいのですが、祭壇まで進み、ペコリと一礼してから会衆席へと戻っていくその姿のなんと微笑ましいことか!!教会全体がまさにひとつの「共同体」であることを肌で感じられる場面だと思います。
あと何年カテキスタとして奉仕できるか…衰える体力、そしてあふれ出る好奇心のはざまで悩むこともあると思いますが、あくまでも「わたしの思いではなく、主のみ心のままに」
どんなふうにかみ砕き、何に例えればうまく伝えられるか
カテキスタ
チーム清瀬◉第1期生
板橋教会 林 惠美
こんにちは。 チーム清瀬担当、板橋教会の林と申します。カテキスタとしての講座担当は現在3巡目に入りました。前任地の葛西教会から3年の間、わずか3名の方の受洗へのお手伝いをしたに過ぎません。カテキスタとしての経験はまだまだの新米と言って良いと思います。
中高生の堅信のための勉強会を担当して
3年ほど前のことです。所属教会司祭の依頼により中高生の堅信のための勉強会を担当しました。その後父兄からの要望があり、1年半ほど勉強を継続しました。これが自分にとって、とても有意義な経験になりました。
幼児洗礼の子どもたちは基本的な信仰理解が不十分で、彼らの真っさらな思考に近づいて話をするのに工夫が必要でした。その中で感じたのは、受洗して何十年も経っている立場からものを言ってもまるで伝わらないということです。どんなふうにかみ砕いて、何に例えればうまく伝えられるかということに、一番神経を使いました。どこに焦点を持っていけば彼らの興味を引くのかということも毎回課題になっていました。でもこの試行錯誤が、カテキスタを務める上での良い勉強の機会になったと思っています。
聖書や典礼の言葉の元々の意味に焦点を合わせて
私は大学で古典文学を専攻しており、言葉の成り立ちには比較的こだわりがあります。日本人にとって(隠れキリシタンの歴史を除けば)たかだか150年の福音宣教に過ぎません。遠く中東で生まれた信仰が、その後ギリシャ語、ラテン語の翻訳を経て世界に広がり、今やっと日本にたどり着いたという程度のことだという前提で、現在日本語に翻訳され、使われている聖書や典礼の言葉の、元々の意味はなんだったのか、というところに焦点を合わせてお話することがあります。 入門講座では、ヘブライ語、ギリシャ語の翻訳と日本語の語源を例に挙げ、このみ言葉が本来何を伝えようとしていたのか、そこを考えていただくことに重点を置いています。
自分の信仰を見つめ直していただくようなフォローアップ講座に
現在清瀬教会では入門講座と並行して、信者のためのフォローアップ講座も開催しています。同じテーマで倍の時間をかけて進めていくのですが、入門講座で使う言葉とのメリハリをつけていきたいと思っています。ただし、難しいことを話すつもりはありません。自分の信仰の原点を見つめ直していただくような講座にしたいと思っています。
そろそろ定年を迎えることもあり、あと何年カテキスタとしてミニストリー(任務)を続けられるのか時々考えてしまいますが、できる限りの務めを果たしていきたいと願っています。
典礼あれこれ 第17回
「感謝の典礼1」奉献文、とりなしの祈り
感謝の賛歌を歌った後に続けられる祈りは、従来、奉献文と呼ばれ、現在では、第一から第四までの四つの奉献文と、二つのゆるしの奉献文があります。しかしながら古来より、東方教会では、叙唱前の応唱「主は皆さんとともに」「またあなたとともに」「心を込めて」「神を仰ぎ」「賛美と感謝をささげましょう」「それはとうとい大切な務めです」から続けて唱えられる祈りを「奉献文」と呼んでいたようです。そして、西方教会では奉献文は一つだけでしたが、東方教会では、奉献文と結びついた固有の叙唱を含めて、いくつかの奉献文がありました。このような伝統を踏まえて、今日では、叙唱前の応唱から奉献文ととらえるのが一般的になっています。
「それはとうとい大切な務めです」と皆さんが唱えた後、皆さんの関心はどこに向いているでしょうか?司祭だけが唱える祈りが続く中、皆さんは何を考えておられるでしょうか?西方教会の伝統で、唱えられる叙唱の祈りは数多くあります。神さまの偉大さをのべる祈りや、救いの歴史についてのべる祈りなど、典礼季節や祝祭の種類に応じて、神さまの前で唱えられる祈りです。その日のミサのテーマ、特に他の秘跡を伴うミサにおいては、祝いの意味を浮き彫りにする祈りとなっています。
この叙唱の祈りに心を向けることは、神さまへの感謝と賛美へとつながっていく私たちの祈りにとって、大切なことだと思います。また、これに続く奉献文の祈りに、私たちの心を合わせていくことも大切だと思います。これらの奉献文の祈りは、司祭だけが捧げる祈りではなく、ミサに参列している一人一人が共にささげる祈りだからです。
特に、最後の晩さんのイエスさまの言葉の後の奉献文の主語は「わたしたち」になっています。歴史的に、司祭がひそひそと唱えてしまい、奉献文が会衆から切り離された時代もありましたが、現代においては、国語化され、はっきりと司祭が唱える祈りとなっています。私たちも司祭の司式奉仕に合わせて、唱えられる一つ一つの祈りに自分自身の心、自分自身の祈りを合わせていきたいと思います。
また、この奉献文の中では、聖霊を願う祈り(エピクレーシス)が唱えられます。パンとぶどう酒の形で、キリストの御からだと御血になるようにと願う祈りですが、それだけでなく、ご聖体をいただく私たち一人ひとりが一つになるように、とも祈られています。パンとぶどう酒の聖変化だけでなく、キリストの御からだをいただく私たち一人一人が聖霊によって新しい人となるようにと祈るのです。
加えて、この奉献文では、全教会のため、そして生きている人たち、亡くなった人たちのためのとりなしの祈りも捧げられます。私たちに関わりのある人たちを一人ひとり思い浮かべながら、心からの祈りを司祭とともに捧げていきたいと思います。