お知らせ

お知らせ

Tangible第26号

2024年11月13日

教区カテキスタ第6期 認定・任命ミサ

9月7日(土)、カテキスタ養成講座の6期生2名が新たに「教区カテキスタ」として認定・任命された。

カテキスタは小教区の枠を超えて、新しく教会を訪れた人々のために奉仕し「入門講座」を担当する人たちである。

当日、ケルンホールでアンドレア司教による修了式の後、 認定任命式が東京カテドラル大聖堂で行われ、それぞれの派遣先教会が発表された。

今回は、当日行われたカテキスタ養成講座の最終講話と認定任命ミサでの説教の要旨を掲載する。

「東京大司教区 カテキスタ養成講座」 2024年9月7日・最終講話要旨

カトリック東京大司教区 アンドレア・レンボ補佐司教

私たちの福音宣教はどのようにあるべきなのか。このテーマを論ずるにあたり、「ルカによる福音」と「使徒言行録」の次の言葉から始めたいと思います。「人は皆、神の救いの道具(τὸ σωτήριον)を仰ぎ見る」(ルカ3・6)。「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いの道具(τὸ σωτήριον)は全ての民族に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」(使28・28)。ギリシア語τὸ σωτήριονは新共同訳聖書では「救い」と訳されていますが、私は「救いの道具」と訳しました。この言葉はイエス自身のこと、あるいはイエスの行った救いのみわざを指していると考えるからです。聖書の中で、イエスと出会い、イエスの救いにあずかった人々はイエスを信じるようになります。このことは冒頭で掲げたテーマを根本から見直す際に大きな助けになると思います。本日は「ルカによる福音」を取り上げます。第三福音書の執筆の目的は、神の計画の連続性と成就、すなわち、待望されていた救いの時がイエスの到来によって始まることを示すことにあります。それを象徴する表現が「今日(σήμερον)」です。この表現が使用されている5つの箇所にイエスの福音宣教の特徴を学び、私たちの福音宣教について考えます。

1. イエスの誕生(ルカ2・8–12)
 伝播による福音化-喜びのうちに

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」

イエスの誕生は喜びを与えるものであるということが重要です。福音宣教はこの喜びに根差すものでなければなりません。また、この喜びに最初にあずかったのが羊飼いたちであったことも注目されるべきです。当時の社会において貧しさの中にあった人たちにまず喜びが伝えられるのです。これは偶然ではありません。神は貧しい人々を探し、恐れではなく、喜びで満たします。羊飼いたちは救い主が生まれたという知らせを受けてどうしたでしょうか。イエスを探しに行き、見て、そして他の人々に知らせたのではありませんか。福音宣教とは喜びとともに多くの人々に伝えられてゆくことに外なりません。そして、この喜びは民全体に与えられます。これこそが分け隔てのない共同体の礎になります。

2. ナザレで受け入れられない(ルカ4・16-22)
 ことばによる福音化-神のことばを 行動の規範にすることによって

「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。』と話し始められた。 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」

「イザヤ書」(61・1-2)の言葉は、受肉した神の子のこの世における使命、救い主としての使命を表しています。福音を告げ知らせることは、その一つです。福音の中にはイエスとのすばらしい出会いと物語があります。人々にイエスを出会わせるために、私たちはよりいっそうイエスの言葉、福音を聞く必要があるでしょう。 福音には、私たちが取り組むべき優先課題が示されていると思います。私たちの教会の活動を振り返ってみましょう。私たちは福音に基づく活動をしていますか。それとも司祭あるいは教会の役員の関心に基づいた活動をしているでしょうか。

3. 中風の人をいやす(ルカ5・17-26)
 魅力による福音化-神への賛美につながる大胆さと驚きとともに

「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された。』と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。『何を心の中で考えているのか。《あなたの罪は赦された》と言うのと、《起きて歩け》と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た。』と言った。」

中風を患っている人をイエスの目の前につり下ろした人々の大胆さに、イエスは引き寄せられました。イエス自身も人々に驚きを与えます。その驚きは神の賛美へと変わりました。しかし、この驚きは、教会のスキャンダルが社会に与える驚きとは異なります。福音宣教は人々を魅了するものであり、また驚きをもって受け入れられるようなものであるべきです。

4. 徴税人ザアカイ(ルカ19・1-9)
 出会いによる福音化-今、ここで、救いを伝えることによって。そして主からの招きと人間による応答のコミュニケーションに寄与することによって

「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します。』イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」

イエスとザアカイの出会いはイエスの福音宣教をよく伝えるものです。イエスはザアカイとどこで出会ったでしょうか。福音宣教は教会という建物の中だけではなく、どこででも、いつでも、行われるものです。出会いはどこにでもあり、私たちはどのような時にもイエスの救いを伝える義務があります。

また、イエスはザアカイの家に泊まりたいと言われました。ザアカイはどうしたでしょうか。すぐにイエスを迎え入れました。このエピソードは、キリスト教信仰の始まりが、主の招きと招かれた者による歓待という神と人間とのコミュニケーションから成り立っていることを示しています。私たちの福音宣教はこのコミュニケーションを促進する役目を持っています。

5. 十字架につけられる(ルカ23・39-43)
 共感と憐れみによる福音化- ともにあることによって

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。』と言われた。」

福音宣教は相手に一方的に教えを押し付けることではありません。イエスが十字架上で共に十字架にかけられていた一人の罪びとを憐れみの心で受け入れ、救いを与えたように、救いを必要としている人に寄り添い、その人が語ることに耳を傾ける、これも私たちが大切にしなくてはならないことです。

「東京大司教区 カテキスタ養成講座」 2024年9月7日・認定任命ミサ説教要旨

カトリック東京大司教区 アンドレア・レンボ補佐司教

本日は、東京大司教区のカテキスタとして新たに認定・任命される皆様を祝福するために集まりました。この重要な役割を担う皆様に心から感謝を申し上げます。

本日の福音は「マルコによる福音」第7章31節から37節です。この福音では、耳が聞こえず、口の利けない人を、イエスが癒される出来事が描かれています。イエスがこの人に「エッファタ」と命じられると、その人の耳が開かれ、舌のもつれが解かれ、話せるようになるという奇跡が起こります。この言葉「エッファタ」は「開け」という意味です。 聞くことも、話すことも出来なかったその男は、どちらの不自由からも解放されました。これは、全くの無音、孤立した世界に住んでいた一人の男が、今や完全に共同体の一員になったことを表しています。

イエスが行われる癒しは、物理的な病気だけでなく、私たちの内面的な苦しみからの解放、神との関係の根本的な修復を意味します。イエスの「エッファタ、開け」という言葉は、私たちの霊的な耳と心を開かせ、神の愛と真理に対する感受性を高めてくれるのです。

この奇跡の起きた《順序》が非常に大切だと思います。まず、男の長きにわたり音が聞こえない苦境は、イエスの「エッファタ」つまり「開け」という命令によって、それまで閉ざされていた耳が開かれて、イエスの声が聞こえるようになりました。次に、イエスの声が聞こえたのち、言葉が話せない苦境は、同じイエスの「エッファタ」という命令によって、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。この奇跡の順序によれば、言葉を聞くことが最初に起こって、続いて、言葉を話すことが可能になりました。人間は、自分が耳で聞いて、答える言葉と等しいものになっていきます。神は言葉です。神はご自分をお伝えになり、ご自分をお与えになる。そして神である言葉を与えられた人間は、まず耳で受け止め、続いて舌によってそれに答えます。キリスト教は、聖書という書かれたものを大切にします。言葉の宗教と言えますが、キリスト教は書かれたものを読むだけのものではなく、神の言葉を聞くという宗教であり、さらに言えば、私たちに呼びかける方との交わりの宗教です。

このように、私たちはイエスの奇跡を通して、神の恵みが私たちの人生の隅々にまで届くことを信じるべきです。そして、イエスが私たちの心と耳を開かせてくださることを期待し、その愛に応えようと努めるべきです。 本日の福音は、私たちが信仰の中でどのように生きるべきかを教えてくれます。イエスはこの奇跡を通して、私たちに「開け」というメッセージを送っています。耳が開かれることで、神の言葉を聞き、理解することができるようになります。口が開かれることで、神の栄光を賛美し、他者と愛を分かち合うことができるのです。

カテキスタとして認定・任命される皆様は、まさにこの「開け」という言葉に込められた使命を担うことになります。すなわち、皆様はこれから、神の言葉を聞き、理解し、理解したことを信者たちに伝える役割を果たします。また、信者たちが互いに愛と支え合いの中で成長できるように導くのです。

教皇フランシスコは、「信者は信仰の証しを生きることによって、教会に光をもたらす存在です」と何度も語っています。カテキスタとしての役割は、知識を教えることに留まらず、信仰者の模範となり、多くの人に神の愛と希望を伝えることです。皆様がその任務を果たすとき、イエスが「エッファタ」と命じられたように、皆様の言葉と行いが多くの人々の心を開き、神の言葉を受け入れられるように導くことを願っています。