お知らせ
Tangible第25号
2024年10月09日
認定・任命ミサについてのご報告
生涯養成委員会 担当司祭
猪熊太郎神父
皆様のお祈りと励まし、そして、様々な形の支えによって、まことに喜ばしいことに、去る9月7日(土)、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、第6期生2名が「教区カテキスタ」として誕生しました。また、同時に、新チームへの異動が決まっている4名のカテキスタたちの再任命も行われました。アンドレア補佐司教様による認定・任命式が滞りなく行われ、カテキスタ一人ひとりの任地と任期が発表されました(詳細につきましては、次号、Tangibleをご覧になってください)。
彼らカテキスタは、これから半年間、派遣先の教会と連絡をとりつつ、入門講座を、2025年4月から始めることができるように、先輩カテキスタたちと共に、さらに具体的な準備をすすめていくことになります。
毎年のことですが、信仰を求めて、教会の門を叩く方々がいます。
世の中の人々にとって、教会の敷居というものは決して低いものではありません。しかし、それでも、その敷居を越えて尋ねて来る方々が、少なからずいらっしゃるのです。 そのような方々を小教区の皆さんと共に受けいれ、入門講座を通して、信仰の火を次の時代に継承していけるように、教区カテキスタたちは、これからも、奉仕していくことになります。
また、この9月28日(土)からは、生涯養成委員会初の試みとなる、オープン講座が始まったことも、この頁を借りまして、ご報告させていただきます。
長い時間をかけて、諸先輩たちから引き継いできたわたしたちの信仰について、特にその基本的な骨格である部分について、この1年をかけて、皆で学んでいくことになります。
皆様のますますのお祈り・励まし、そして、有形無形の援助を、これからもお願いしたいと思います。
現場の声
共に歩む信仰の旅―同伴者イエスと共に―!
カテキスタ
第1期生 チーム松戸
上野教会 竹内 公子
私たちカテキスタの理念は、「共に歩む信仰の旅―同伴者イエスと共に―」です。
「共に歩む信仰」とは、受講生と共に、という意味です。さらにイエス・キリストを真ん中にした学びでもあります。受講生に対してカテキスタが一方的に話をするのではなく、カテキスタと受講生、また受講生同士の対話の場となるように、カテキスタ側もできる限りの準備をしてから臨んでいます。
◆対話の場のための楽しい雰囲気づくり
私自身が心がけていることは、楽しい雰囲気づくりです。その日のテーマにそって、御言葉が恵みとしてどのように日々の生活の中で私たちを励ましてくださるのかという点を大事にしています。事前に準備をしてきたことの中から、イエス・キリストが何を語られているのかを、信仰生活を望まれて参加してくださる受講生と共に考えて答えを見つけられたら、と夢中で1時間の講座を進めています。
カテキスタの中には学者の方々がおられます。また神学に通じた方々もおられます。私は、カテキスタとは呼ばれていますが、学者や神学に通じたカテキスタというわけではなく、いわば、弱く小さな「微力な」カテキスタです。このようなカテキスタもいるということを知っていただきたいと思います。
◆共に学ぶイエス・キリストのたとえ
ある日のテーマは「ぶどう園の労働者」でした。朝から1日中働いた労働者と1時間しか働かなかった労働者に、主人が賃金を払い始めました。現代の私たちの常識では、当然たくさん働いた労働者の方が多くの賃金を得られることになります。ところが主人は最後に雇われた労働者から賃金を払い始めました。長い時間を働いた労働者を目の前にしてです。よほど気持ちが高まってきていたのでしょう。最初から働いていた労働者の番が来て、1時間しか働かなかった労働者と同じ賃金を受け取り、怒りが爆発しています。「なぜ?」と。
そこからが大事な場面になります。受講生の一人一人に尋ねました。みなさんが疑問を話し出しました。「なぜなのか?」と。すると一人の若い受講生が話します。「主人であられるイエス・キリストがなさることは、労働者に対しての約束事です。呼びかけのときに約束をなさいました。約束通りにしたことがどうして怒りになるのか、とイエス・キリストは戒めます」。受講生の一人はこのように目の前にいる他の受講生に話し出しました。このとき私は感動いたしました。素晴らしい体験でした。他の受講生も感心した様子で納得していました。その時の雰囲気は温かい空気に包まれ、皆さんニコニコ顔になっていました。皆さんにとっての収穫は大きかったと思いました。こうして受講生が受講生に話をし、互いに尊敬を表す姿はとても素晴らしいと感じました。
神様は約束を決して覆さないということを皆で学びました。また神様のなさった最後の労働者に対しての愛情の深さも感じ取ることができました。最後に雇われた労働者は、誰の目にも留めてもらえない弱さを抱えていた様子が分かります。そんな弱さに対していつも神様はしっかりと目を留めてくださることを私たちに教えてくださっています。
イエス・キリストのたとえの中には、この話との共通点がたくさん見られます。私も時として不平不満がつのることがあり、その度に「はっと!」いたします。この私の心に対して「こんなに恵まれているのに不足があるのか」と。「あっ!いけない!」と気づき、すぐに「はい!ごめんなさい」と謝ります。
日々の生活の中でも度々「聖書」から学んできた言葉がふと心に浮かんできます。私が育児中に落ち込んだときには、「いつも喜んでいなさい……」という御言葉を口にしていました。「喜びのある生活」ができたら素敵だなといつも心から思います。
◆フォローアップ講座での分かち合い
私たちチーム松戸は松戸教会の地下ホールをお借りして講座を開いています。
今年度からは信者向けの「フォローアップ講座」も入門講座と並行しての開催です。こちらの講座も入門講座と同じようにテーマを決めています。「フォローアップ講座」は月に1回の開催です。その日のテーマを題材にして御言葉を味わい、その後、分かち合いに入ります。2つのグループに分かれ、互いの感想を話します。その際、分かち合いのルールを守っていただくように案内いたします。
ある月の分かち合いの時のことです。互いに御言葉の解釈が判然としないまま進行しました。自分の番が来る前に何人かの発言を聞いたある方は、「私も分からない……」と心で思われていたようです。自分に回ってきた時のその方の発言は「あぁ良かった!」。「分からないのは私だけかと…」。
分かち合いではこのように、他の方の意見を聞いて「ほっと」したり、「私も同じ」と思ったり、「モヤモヤ感」など共通点を見いだして励まされたりいたします。
こうした体験は小教区内では見受けられない現実があります。互いの信仰を深めるためにも「分かち合い」の場を「フォローアップ講座」の中で多くの信者さんに体験していただきたいと思います。 入門講座とフォローアップ講座の2つの講座を開催できているのも、松戸教会の主任司祭、共同体の皆さんのお陰と心から感謝しています。
◆チームで共有できることの ありがたさと喜び
6月23日(日)の午後、私は外出先で転んでしまいました。顔面の強打と膝の骨折と診断され外出が不可能になりました。手術はしないで自宅での療養になりました。
私たちチームメンバーは5人です。1つの講座を2人で担当するとなりますと、入門講座とフォローアップ講座を両方開催する日は4人でしなければなりません。怪我をした夜には皆さんに申し訳ない気持ちで報告を発信しました。すぐに皆さんから返信が届き「温かい励ましの言葉」をいただき感動の心で痛みも顔の内出血も忘れてしまいました。
チームでの活動は講座だけではないのだと感じました。互いの健康を気遣い、励まし合い、この度のように、私がチームに加わることができなくても、講座開催の都度、情報を教えてくださいました。 共有できることのありがたさを心底深く感じ入り、その喜びが支えとなって順調に膝の骨の繊維ができてきていたようです。チーム力をものすごく感じています。チームの結束力を生かして、これからも「カテキスタの理念」を大切に歩んで参ります。
出会いの喜び、主と共に歩む幸せ
カテキスタ
第1期生 チーム松戸
葛西教会 森山 ハツヱ
カテキスタ1期生としてのスタートは、2018年カテキスタ養成講座受講からでした。3年後に更新プログラムを受講しました。派遣先教会は松戸教会で、6年目を迎えています。松戸教会は伊藤神父様、富田神父様、高瀬神父様と引き継がれてきました。神父様と信徒の皆様の温かいご配慮とご協力で、講座開催ができていることを大変感謝しています。
◆初めての松戸教会訪問とコロナ禍、 同期カテキスタの帰天
2019年、初めての松戸教会訪問は、神父様と役員会方との緊張の顔合わせでした。双方が未経験からのスタートだったことを思い出します。「教区カテキスタの役割とは何ですか」、「教会は場所を提供するだけですか」、「教会にすでにある講座との連携はできますか」などのさまざまな質問を受けました。皆様がカテキスタを迎える立場として、一緒に何ができるのかを考えてくださったことはありがたく、踏み出す勇気を頂きました。コロナ禍でなかなか当初の計画通りには実行できませんでしたが、さらなる学習の時間と交流を与えられたようでした。
しかしながら、共に講座の準備をしてきました1期生の末松正子さんが病に倒れ帰天されました。開講に間に合わなかった彼女の無念さを思うと辛いですが、彼女の前向きな明るい笑顔を思い出しながら、いつも一緒に歩んでいることを感じています。
◆入門講座とフォローアップ講座の2つの講座を担当して
現在のチーム松戸では、2つの講座を開催しています。当初の洗礼希望者の入門講座と、本年度から始まった、信者のさらなる学びの場としてのフォローアップ講座です。さまざまな年齢、国籍、環境の方々とめぐり会う体験と、主の教え・福音の喜びを皆で共有しながら、主が共におられることを感じる幸せな時です。講座は緊張ですが、次第に受講者との対面が楽しみになります。
2つの講座は学びを大切にするとともに、分かち合いも大切にしています。ひとりひとりが聖霊のお導きを感じられるよう、平和で心地よい分かち合いを願いながら、進めています。特にフォローアップ講座は、人を大切に思う傾聴が信仰の絆を深めていくと思います。
少しでも心が満たされ、よき分かち合いとなるように、回を重ねながら試行錯誤しています。 入門講座での受講者の話の中に、主と出会えていることを感じる時の嬉しさや、フォローアップ講座での共同体で集う姿に、教会の大切さとありのままの宣教を思います。
◆たくさんの人たちに助け支えられながら、十字架上のイエス様を伝える
受講者対応の難題に迷う時も、皆と共有し対処できることがありがたいです。私の幼き頃からの信仰体験と出会う方の信仰体験は違っても、皆様から信仰の糧を頂いています。これまでたくさんの人たちに助け支えられながら、カテキスタの道を歩めたと思います。松戸教会の神父様と共同体の方、教区指導者とスタッフの方、カテキスタの方、葛西教会の神父様方と信徒方、多くの人たちの励ましに感謝しています。身近な家族の協力もありました。私のこれまでのカテキスタとしての歩みを、微力ながらも、派遣先教会と所属教会での活動に役立てることができたらと思います。
「主は必要な人に必要な時をお与えになります」「十字架上のイエス様は私がここから動けないので、あなたたちが私の代わりに私のことを伝えてほしい」―私の心に響き、勇気を頂ける言葉です。
これからも主と共に歩む幸せを感じながら、皆さんとの出会いを大切に、喜びの中で歩んでいきたいです。
スタッフの声
スタッフというチームの中で感じたこと
スタッフ
板橋教会 横山 恭子
カテキスタ養成講座第6期の講座も終了し、2名の方がカテキスタとして新たに任命されます。6期生は少人数でしたので模擬授業が回ってくるのが早く、緊張する回数も多かったのではないでしょうか。受講生は模擬授業の担当日以外でも同様の準備をしていましたので、多分次の講座日までの2週間は本当にあっという間だったと思います。学びと準備に追われ多忙ではあったけれど、恵みの多い充実した1年が終わり、これからは新しいチームに配属され、先輩カテキスタと共に派遣された教会での奉仕が始まります。
予定していた第7期はカテキスタの養成講座ではなく、教区内の一般信徒・修道者を対象としたオープン講座として開講されることになりました。講座への申し込みの必要も応募資格もない自由参加の講座ですので、多くの方が受講されると思います。カテキスタの方も参加しますので、このオープン講座を通してカテキスタの活動を知り、深く理解していただく機会になることを期待しています。
私が初めてスタッフ定例会に参加したのは、2019年の3月でした。先輩スタッフとして、生涯養成委員会の講座設立当初から携わり、小教区でも入門講座の担当をしている経験豊かな6名の方がおられました。第1期生の応募者が29名と多かったことなどから、スタッフ募集の連絡が小教区にあり、新しいスタッフ候補として5つの小教区から7名が集まりました。何をするのでしょうか?とドキドキしながら出席した初めてのスタッフ会議、ピリッとした緊張感はありましたが、他の小教区の方との新たな大切な出会いの場となりました。
私のスタッフとしての参加は、自宅での介護や仕事のこともあり、月1回のスタッフ定例会とチームの講座当番日に出席するという少ない回数でした。他のスタッフのように回数多くお手伝いができないことを申し訳なく思い、後ろめたさも感じておりましたが、猪熊神父様やスタッフの方々がそのままの状況を受け入れくださり、「今、するべきことを最優先に考えて良いのですよ」、と仰っていただいた温かい言葉に居場所を得た思いでした。そのようにすべてをそのまま受け入れてくださる安心感のあるスタッフチームの雰囲気は、一人ひとりが自然に醸し出して作り上げているものなのだと感じています。今は、現在の状況でできること、時間的に可能な中での役割を果たしていきたいと思っています。
私たちは「神の国の実現のため」に、教会に呼び集められ、恵みをいただき、派遣されて、社会での生活の中で信仰を証していきます。それぞれの求道者の方が、神様に呼ばれ、入門講座で学び、多くの恵みを受けるまでの歩み方は、おのおのの歩幅も速度も方法にも違いがあることでしょう。求道者の歩調に合わせて、信仰の道を共に歩んでいかれるカテキスタの方と思いを共有し、分かち合いながら、スタッフチームの一人として一緒に歩んでいきたいと思います。
教える人
スタッフ
麹町教会 並木 千登世
カテキスタ養成講座のスタッフになって、まだまだ日は浅いのですが、周りの皆様がベテランの方々ばかりのため、毎回勉強させていただいています。
◆第二バチカン公会議公文書では
「カテキスタ養成講座のスタッフにならない?」とお声がけをいただき、正直、よく分かっていなかったのですが「OK!」とお答えしました。しかし、カテキスタという言葉を、ふわっと知ってはいても、あまりなじみがなかったため、私は、これがどんなものなのか、どういう意味を持つものなのか、その日必死に調べました。
それこそ、『第二バチカン公会議公文書』(ちゃんと最後まで読んだことのない分厚い本!)を本棚から引っ張り出し、カテキスタという言葉を見つけ「教理を教える人(信徒で教理を教える奉仕者)」とハッキリと理解をしました。
◆教えることの大変さ、素晴らしさ
教える人を養成する講座ですから、この講座は、講義を聴くだけの講座ではなく、講座生の皆さんが模擬講義をする時間が設けられています。毎回スタッフとしてその模擬講義も拝聴しています。分野は何であれ「人に教えるということの大変さ」は、私自身、仕事で研修講師を何年もやっていた経験があり、とてもよく分かっているつもりです。
教えるための様々な準備、教える相手に合わせたテキストの構成と作成、時間配分、そして理解してもらえる話し方・伝え方・見せ方、教える内容以上に自身の知識が必要で、本当に大変なことです。
そんな大変なことを講座生の皆さんが、ご自身の仕事をしながら、どれだけの時間を使ってカテキスタになるための努力していることかと、私は毎回敬服するばかりです。 そこにどんな思いがあるのか。思いは人によってさまざまだと思います。どんな思いであっても、どんなきっかけであっても、素晴らしい行動だと思っています。
◆自分自身が受講した入門講座を
思い出しつつ スタッフとしてカテキスタを目指す皆さんの講義を拝聴するようになって、自身が入門講座に通っていた時のことを毎回思い出しています。
私は受洗前の1年間、そして受洗後の1年間、合わせて2年、毎週休まずに教会の入門講座に通っていました。1年目は学び、2年目は学んだことの復習の期間として、とても充実した時間を過ごさせていただきました。2年間書き溜めたノートを見返し思うことは、膨大な情報だった、でも講義を聴いていて毎回引き込まれ、夢中になり、キリスト教がより身近に感じられ、毎週楽しみに通っていたな、ということです。
そのためか、カテキスタを目指す皆さんが模擬講義をされる時間は「分かりやすく教えてくれるかな?」「今日はどんなお話かな?」と皆さんのご苦労を横に、ワクワクしながら楽しみに参加させていただいていました。8月で第6期生の1年間が終わり、講座生の皆さんの中でカテキスタとして認定・任命される方がいらっしゃると思います。これからキリスト教を学びたい方々のため、認定・任命されたカテキスタの活動を、スタートからずっと応援していきたいと思っています。今後もスタッフとして、カテキスタの皆さんにどんなサポートができるのかも、改めて考えていきたいと思っています。
典礼あれこれ 第16回
「感謝の典礼1」
私たちのささげもの
皆さんの教会では、パンとぶどう酒の奉納を再開したところもあると思います。以前のように、祭壇の準備の間に献金を集めることも始めているかもしれません。現在の日本では、パンとぶどう酒、そして献金が集められて、祭壇へと奉納されますが、8世紀から9世紀以前には、ミサに参列する人々が、自宅からパンやぶどう酒、そして、自分の生活と労働の中からの産物を教会に持ってきて、それをささげていたようです。筆者がフィリピンの田舎の教会を訪問した時、主日ミサの奉納で、食パンや卵なども併せて奉納されていたのを目撃しました。古来より、奉納された物の大半は、貧しい人たちのために使われ、またその一部が奉仕者の生活のため、そして、ごく一部がミサで聖別されるパンとぶどう酒になっていたようです。
実際に、さまざまな奉納物を受け取っていたので、手も汚れてしまったことでしょう。その結果、奉納の後に、手を洗う儀式が取り入れられ、実際にさまざまな奉納物を受け取らなくなってからも、この手洗いが残り、司祭が自らの清めを願う儀式へと意味づけられました。
そして、西方教会では8世紀から9世紀以降に、「種なしパン」をミサで使うようになり、それぞれの家で焼いたパンが使われなくなりました。自分の生活と労働の中からの産物をささげる奉納がだんだんと廃れていき、献金へと変わっていきます。ところが現在の『ローマ・ミサ典礼書の総則』には、ミサで使うパンとぶどう酒のほかに、貧しい人々のため、また、教会のための捧げものを、参列者が奉納することによって、参加を表すことが望ましいと書かれています。形は変わっても、自らの生活と自分自身をささげるのが本来の意味での奉納だ、ということになるでしょう。
少々乱暴な言い方かもしれませんが、キリストの唯一の奉献に結ばれて、私たちが自分の生活の実りであるパンとぶどう酒をささげ、併せて自分自身を神さまにささげ、それを神さまが聖なるものとし、私たち自身がより聖なる者となるように、パンとぶどう酒の形のもとにキリストのからだと血を与えてくださるのがミサの重要な一つの側面だと言えます。 現代の私たちにとって、目に見えるささげものは献金だけかもしれません。しかし、心を込めておささげすることを通して、私たちは自分自身をおささげしていくのでしょう。教会が事前に用意したパンとぶどう酒だけでなく、私たち自身をも含むささげものが祭壇に運ばれて、神さまによって聖なるものとされるのです。