お知らせ

お知らせ

Tangible第24号

2024年08月02日

教区カテキスタ養成講座 第7期の応募結果と今後について

生涯養成委員会 担当司祭 猪熊 太郎

初めてのこと…

6月の最終金曜日の夕方。私は、教区本部事務局の受付にいました。この日が、郵送による、教区カテキスタ養成講座第7期の応募締切日だったためです。

しかし、残念なことに、この日、新たな申込みは一つも届きませんでした。

今年の1月に募集を始めてから、これまでに応募をしてくださった方々は3名のみ。私たちの講座は、毎年、ほぼ10名程度の応募と参加を想定しています。

しかし、3名だけですと、講座そのものが成立しません。 というのも、カテキスタとなるべく、体験・練習の場として、とても大切な模擬授業ができないからです。その当番が組めないのです。また、たった3名のためにだけに、多くの講師の神父様方のスケジュールを1年間、おさえる訳にはいかないからです。

という訳で、補佐司教様とも相談をし、教区カテキスタ養成講座の第7期は開講しないことになりました。

教区カテキスタ養成講座がスタートしてから、これまでの6年間、毎年、多くの新たな受講生を迎えてきましたが、初めて、講座の開講を中止するに至ったのです。

諦めてはいけませんね…

ところで、そうは言っても、多くの講師の神父様方のスケジュールを事前におさえてありますので(3年前からお願いしていた、お忙しい神父様もいらっしゃいました)、このまま何もせずに開講を見合わせるのは、あまりにももったいないという声が、現役のカテキスタたちの中から、次々とあがってきました。

カテキスタたちは、第7期の講座に参加し、もう一度、自分たちの勉強の機会にしたいとのことだったので、どうやったら開講にこぎつけることができるのかを、運営委員会やカテキスタ定例会で探ってきました。

その結果、第7期として準備されていたスケジュールに関しては、あくまでも、教区内の一般信徒の皆さんや修道者を対象とした「オープン講座」に切り替え、そこに、スタッフや、カテキスタたちも、自由に参加できる形をとりたいということになりました。

このようなカテキスタたちの考え・思いを補佐司教様との面談の場で伝え、確認したところ、講座開講が本来の趣旨とは変わることでもあり、司祭評議会に諮る内容なので、そこでの決定を待つようにと言われました。

私たち生涯養成委員会は、あくまでも、評議会の決定を受けて、今後の準備をすることになったのです。

さて…、

先日、評議会が開催され、第7期のスケジュールと内容を、「オープン講座」に切り替えることが認められました。

そこで、今、私たちは大慌てで、準備をしているところです。

皆さまの教会には、これから、「オープン講座」のポスターとチラシが届きます。そこにありますQRコードを読み込んでいただくと、講座のスケジュール・内容が確認できます。

特にコロナ以降になりますが、生涯養成委員会には、自分たちの信仰を学び直したいという声が多く寄せられていました。そのための、「学び直し」のための講座はないのかとの問い合わせがありました。残念ながら、今まで、既に信徒となり、信仰生活を送っていらっしゃる皆さんを対象とした、学び直しの講座は、ひとつもありませんでした。

それが、今回、カテキスタ養成の講座は開講中止となりましたが、形を変えて、広く信徒の皆さんのため、修道者の皆さんのための「オープン講座」として、生まれ変わることになったのです。

これもまた、神の計らいなのでしょう…。

私たちが先人たちから引き継いできた信仰の内容を、もう一度、学び直す良い機会となります。

多くの皆さんのご参加をお待ちしています!

受講生の声

「私たち」の一人として

受講生
第6期生
麹町教会 前田 江美

早くも養成講座の課程は、3分の2ほどが終わりました。この旅路でさまざまな経験をさせていただき、信仰の学びが深められたことを感謝しております。

「私たち」というチームで働くことをいつも意識しながら、歩みを進めて参りました。人は一人ひとりユニークな存在、それぞれに人生物語があり課題を抱えながら、今を生きているでしょう。

これから神様がどのような求道者を入門講座に送ってくださるのか、誰にも分かりません。が、どのような方が来られても、チームで受け皿となり関わらせていただくのならば、何かしら居場所が見つかり、救いの言葉が届くかもしれないと希望が湧いてきます。

今は、同期生たちの中に「私たち」を見つめています。一人では無理、でも補い合うならばいろいろな可能性が開かれるでしょう。共に学び合う機会となり、励まし合いながら学ばせていただけたことも感謝でした。

また、この旅路において、私自身の信仰の歩みをふり返る機会が与えられ、洗礼に導かれたプロテスタントでの恵みをも思い起こさせられることがしばしばありました。そして、受洗の恵みが、カトリックにおいてさらに深められたことを改めて知る機会ともなりました。教会の多様性について考えさせられ、教会に対する神の深い愛を悟らされたことも感謝しております。

キリスト教や教会、また、聖書は初めてという方のために、どうしたらいのちの糧をおいしく食べていただけるのだろう……自問自答を繰り返しながら学び続けてきました。一人ひとりをよくご存知であり、また、弱い私を助けてくださる聖霊により頼み祈りながら、これからも歩み続けてゆきたいと思います。私自身にも何がこの先にあるのか分かりませんが、み心ならば、み心のままにお使いくださいと祈りながら……

折に触れて、所属教会の神父様方にお祈りいただいたことにも、心から感謝しております。そして、ご指導くださった神父様方に感謝いたします!

スタッフの声

スタッフとしての役割

スタッフ
田園調布教会 矢野 勉

◆「カテキスタ養成講座」第1期から参加者をサポート
2018年9月から開始された東京教区の「カテキスタ養成講座」は、2024年9月からの開始で第7期を迎えます。しかしながら第7期の申込者が少数なため、残念ながら実施されないことになりました。

私は第1期からこの講座のスタッフとして、第1期生から第6期生まで約50名の参加者のサポートをさせていただきました。その中には残念ながら養成講座の途中でカテキスタとしての認定を諦めざるを得ない方もいて、それぞれの方は神様が望まれている別々の道を歩んでいることと思います。また、現在38名の方がカテキスタとして7つのチームに分かれ、新たな求道者への入門講座を担当して活躍しています。

◆新しく教会を訪れる人々の変化に関する気づき
第1期生から7年間受講者のサポートを見続けていて、最近大きな変化に気づきました。それは、新しく教会を訪れる人々の考えが変化しているのではないか、という気づきです。当初は教会の門をたたき、キリストのことを知りたい、洗礼を受ける準備をしたい、という方が多かったと思われましたが、近年(特にコロナ禍以降)は教会に何かを求めて、自分の居場所を探し続けている方が増えているような気がします。

私は所属している田園調布教会でカテキスタとして長年奉仕していますが、ここでもそのような方がたくさんいらっしゃいます。

◆「多様性の一致」に対応したカテキスタの養成
当初はこの養成講座は、洗礼を受けるための求道者への学びを、司祭などに代わって行う信徒を養成することが目標だと思っていました。しかし現代の多様性の社会で環境、生活が変化しており、人々が教会や宗教へ求めることも大きく変わりつつあります。

2019年のフランシスコ教皇の来日時に教皇が発したメッセージは「多様性の一致」でした。神はどんな人にもさまざまな形で愛を表し、救いの手を差し伸べています。ですから、カテキスタの養成もその変化に対応しなくてはなりません。

◆神様から考える時間を与えられた良い機会
2024年9月からの第7期の講座が無くなったことは、この養成講座に関わる関係者も、神様から考える時間を与えられた良い機会なのではないでしょうか。

スタッフとしての役割は、単に養成講座の運営サポートだけではなく、すでにカテキスタとして現場で活躍されている方々も含め、より良い奉仕者となるためのサポートをすることだと思います。

その運営にあたり指導司祭の猪熊神父様をはじめ、すべての関係者に日ごろのご努力に感謝を申し上げ、今後の運営にさらなるご尽力とご指導をお願い申し上げます。

奉仕をしながら信仰を深められる機会を与えていただき感謝

スタッフ
麹町教会 堀 充恵

◆足踏み
カテキスタ養成講座のスタッフとして参加することになってからはや7カ月が経ちました。私は受洗してから9年間、コロナの規制期間以外は毎週のごミサ、年間行事、教会維持費の納入、献金、講座や黙想会に参加、ご寄付、シスターとの月1回のお勉強など、欠かさずしてきました。朝晩のお祈りも短いけれど唱えています。まだまだではありますが、もし「善い信徒」と「悪い信徒」とに分けられるとしたら、前者の方にギリギリ引っかかることができるんじゃないかなと思っていました。

けれども、心の底に共同体へのご奉仕ができていない自覚があり、信仰の実践をしていないことが後ろめたさとしてありました。しかしながら、日々の仕事との両立に自信がなく、どちらも中途半端になり迷惑をかけてしまうことが心配で、継続的な奉仕に飛び込むことができずにいました。ならば、せめて頂いたお恵みは日常生活で周りの方々に還元しようと心がけて努めて過ごしてきましたが、勇気と実行力のない自分にモヤモヤしながらも、相変わらず自分の都合の良い「受けるだけ」の生活を送っていました。

◆踏み出した一歩
そんな時、「カテキスタ養成講座のスタッフをしませんか」とお声がけくださったのが同じ麹町教会に所属される小林さんでした。かねてより、言動から感じる深い信仰心に尊敬を、そしていつも涼やかな眼差しに信頼感を寄せていました。お誘いを受けた瞬間、目の前がパーっと明るくなるような気がして、私でできることならばやってみたいという気持ちが素直に湧き上がってきました。カテキスタは小教区の枠を超えて、新しく教会を訪れた人々のために司祭と共に耳を傾け奉仕し「入門講座」を担当する人たちです。遠い話と思っていたことが急に身近なことになって、果たして役に立てるのだろうかという不安もとてもありました。ただ、日頃から自分の周りの人たちに心に触れる言葉で信仰を伝える難しさを感じていたので、カテキスタにはとてもなれないけれど、講座のスタッフとして関わらせていただくことで、少しでも学ぶことができるのではないかという期待も正直ありました。

初めての月1回のスタッフ定例会で猪熊神父様から「講座を聴いて知識・情報を頂くだけではなく、スタッフとして受講生の方々のためにより良い環境を整えることに努めてください」というお話があり、おっしゃる通りだと身が引き締まりました。

講座の当日のスタッフの仕事に、受付や教室設備の準備の他に、受講者の模擬講座へのコメントがあります。これには「信徒として知識も経験も未熟な私がするなんて、なんとおこがましいことでしょう」とおじけづきました(初めに知っていたら断っていたでしょう。)しかも初日、一番にマイクが容赦なく回ってきて、あたふたとなんとかコメントを振り絞ったので、冬の寒さも忘れ脂汗が出るほどでした。受講生の方はキリスト者の召命を生きる道を目指す熱心な方々です。与えられたテーマを自分の言葉で50分間話すため準備を重ね、前日から緊張して眠れずに来る受講者の方へコメントをすることは、難儀なことです。

毎回緊張して今でも慣れない私を批判や文句を言わずに受け入れてくださっている神父様やスタッフの皆様の寛大さと優しさに心より感謝しております。そんなスタッフの諸先輩方は所属教会でも大変ご活躍の方ばかりです。スタッフ同士の会話の中で、他の教会の様子を聞くことができ、それまで自分の所属教会のことしか知らず、当たり前と思っていたことが、他の教会では違っていることに気づかされたり、工夫している取り組みなども新鮮で、興味深く聞かせていただける貴重な場となっています。

◆奉仕が感謝の祈りへ
この原稿を書いている今、季節は移り変わり、小暑の候、初夏の葉が雨に濡れ輝く日も多くなりました。いよいよ2カ月後には第6期生の認定・任命式が関口教会で開催されます。召命は神様にしか分かりませんが、全員共に歩んだ大切な仲間です。私にとり、毎回暗中模索の日々でしたが、頂いたものは期待した以上のものでした。勇気を持って直感に従って選んだこの道は、今までの日常生活を窮屈にするものではなく、むしろ毎日の生活を生き生きとさせてくれる充実したものでした。

このように日々の慌しい生活の中でも、間違いに気づいたり、失敗しながらも、ありのままの自分を捧げることが祈りにつながるのであれば、神様が受け取ってくださるかは分かりませんが、私らしい祈り方になるのではないかと思いました。これから奉仕の現場へ出て行かれるカテキスタの方には、とても足元にも及びませんが、私の今までの信仰生活にとってはわずかでしたが確実な一歩でした。

奉仕をしながら信仰を深められる機会を与えてくださったことに心より感謝しています。これからも主と共に歩みを止めず喜びを持って、本講座のみならず他の講座も支えていくことができることを願い祈ってまいりたいと思います。

典礼あれこれ 第15回

「ことばの典礼4」共同体と共同祈願

皆さんは、ミサに参列する時、自分自身のお願い事や個人的な祈りを携えておられるでしょうか? または、日常生活の喜びや悲しみ、困難や苦しみを持ち寄っておられるでしょうか?主日ミサに集まる一人一人の生まれ育ちは違い、また日常生活での困難も異なることでしょう。さまざまな境遇の方々が一つに集まり、神さまに賛美と感謝をささげるミサです。このミサは、生きている人、亡くなった人、世界中すべての人のためにささげられています。そんな中、より具体的な祈りをささげていくのが共同祈願と言えるでしょう。

『聖書と典礼』には、共同祈願の次に「信者の祈り」と書かれています。古代の教会では、この祈りの前に洗礼を受けていない人たち(求道者)が集会から退席させられていました。その後、信者たちだけで世界のために祈ったことから、「信者の祈り」と呼ばれていたようです。

この共同祈願(信者の祈り)で、会衆は自らの祭司職を果たして、すべての人のために祈ります。言い方を換えると、洗礼によってキリストに結ばれた神の民が、執り成しをしてくださるキリストの働きにあずかり、個々の共同体の必要性を超えて、全世界の救いのために祈って、洗礼による祭司職を果たし、福音宣教に尽くすものが共同祈願なのです。

共同祈願は祭壇ではなく、司祭席から司祭が祈りの導入を行い、朗読台あるいは他のふさわしい場所から、助祭あるいは先唱者、もしくは朗読者か信徒の一人によって祈りの意向が告げられます。このような意向は、偏りなく、よく考えられたもので、自由に、簡潔なことばによって作られます。『聖書と典礼』の例文をそのまま使われる共同体も多いかと思いますが、できれば、共同体全体の願いを表明することができるよう、毎週作られることが望ましいと言えます。

さて、『ローマ・ミサ典礼書の総則』によれば、この共同祈願は、通常、次の四つの意向でささげられると記されています。

a)教会の必要のため。
b)国政にたずさわる人々と全世界の救いのため。
c)困難に悩む人々のため。
d)現地の共同体のため。

そして、堅信、結婚、葬儀などの特別な祭儀においては、その機会を考慮して祈りの意向の順序を決めることができます。このような時にささげられる個人的な内容の祈りは、教会全体の祈りとしてささげられていきます。

前述しましたが、特にこの4番目の共同祈願の意向は、各共同体の現状を鑑みながら、毎週、意向の式文が作成されることが望ましいのは、言うまでもありません。共同体全体がささげるミサなのですから、この大切な機会を放棄せずに、一人一人がしっかりと洗礼による祭司職を果たす場としていきたいものです。