お知らせ
東京教区ニュース第430号
2026年03月03日
東京教区で働く外国人宣教師の集い

東京教区教皇庁宣教事業(MISSIO TOKYO)担当◉田所 功
2025年12月9日(火)午後4時〜7時、東京カテドラル関口会館ケルンホールにて、海外の修道会・宣教会などから日本に派遣され、東京教区で働いている外国人宣教師の集いを開催しました。今回が初めての開催でしたが、31修道会・宣教会、22カ国出身の55人(聖職者20人、奉献生活者28人、信徒宣教者7人)が参加しました。
アンドレア・レンボ司教の祈りと挨拶で開会し、第一部は駐日教皇大使フランシスコ・エスカランテ・モリーナ大司教に講演いただきました。大使は「出身、文化、言語の違いにもかかわらず、私たちは同じ信仰において一つであり、同じ父の子です」、「すべての信徒は福音宣教の主体であるという自覚を、今日のキリスト者に浸透させなければなりません」、「私たちのキリスト者としての証しを育て、言葉だけでなく、存在そのものが福音を雄弁に語る者となりましょう」、「このような集いを通して、宣教への務めへの意識をさらに深める機会にしてほしい」などと述べ、参加した宣教師たちを勇気づけました。
モリーナ大司教による講演第二部では、7つの小グループに分かれ、「日本での宣教活動で感じること」をテーマに分かち合いを行いました。まとめの中では「宣教は私たち個人の仕事ではなく、キリストの仕事である。私たちはただ、その使命に協力する共同の仲間です」、「宣教師は、その場にいること、その場で行うこと、そのすべてが宣教なのです」、「外国人司祭と日本人司祭が、より緊密に協力する必要があります」、「外国人信徒が多くなっていくので、どうしたら日本人信徒と一緒になって歩んでいけるか考えなければならないと思います」、「日本では司祭と信者の距離が大きいと感じます」、「もう少し教会の外に向かう姿を見せてもよいと思います」など、さまざまな報告がありました。
小グループでの分かち合い分かち合いの後は、皆で簡単な食事をとりながら懇親会を行いました。参加者からは「一つの心を持つ瞬間でした」、「多様性が豊かな宣教の源となることを実感しました」などの感想が寄せられています。この集いは外国人宣教師がお互いを知り、交流する場となったのではないでしょうか。今年も2回目を実施する予定です。
参加者と談笑するアンドレア司教サレジオ会来日100周年記念ミサ
会場を盛り上げたドン・ボスコ(左)とテマッティ神父の着ぐるみ2月8日午後、東京カテドラル聖マリア大聖堂でサレジオ会来日100周年記念ミサが行われた。
ミサは菊地功枢機卿が主司式を務め、サレジオ会員である山野内倫昭司教(さいたま教区司教)、アンドレア・レンボ司教のほか、サレジオ会司祭をはじめ大勢の修道司祭、教区司祭が共同司式に加わった。また、サレジオ会東アジア・オセアニア地域顧問のウィリアム・マシューズ神父、中国管区長ドミンゴス・レオン神父、韓国管区長マルチェッロ・ベク神父が来日し、ともにミサを捧げた。日本管区長濱﨑敦神父のあいさつによれば、日本管区は当初中国管区に属していたが、1937年に日本管区として独立した。韓国には当初、日本から会員が派遣され、その後、韓国管区として独立したという。
右から濱﨑神父、マシューズ神父、レオン神父、ベク神父ミサにはサレジオ会を母体とする学校の教員や生徒、聖ヨハネ・ボスコ(ドン・ボスコ)の霊性に生きる修道者たちも大勢参加し、大聖堂は満員となった。
ミサに先立ち、日本におけるサレジオ会の歩みが振り返られた。その後、サレジオ学院の生徒が、日本を最初に訪れたサレジオ会士の一人である尊者ヴィンチェンツォ・チマッティ神父と聖カルロ・アクティスに扮したコントを披露し、続いてサレジアン国際学園世田谷の生徒たちによるダンスが披露された。
ミサの説教で山野内司教は「サレジオ会が歩み続けた道を、上の世代を巻き込んで、ドン・ボスコのカリスマ精神を教育のため、社会福祉のため、司牧、福音宣教のため、また最も困っている人たちのために実践してきたことを、未来まで待たず、今からどんどん行ってください」と述べ、特にミサに参加している若者たちを熱く励ました。
山野内司教による説教ミサの最後には、小平サレジオ中学校の生徒たちによるハンドベル演奏が披露され、静かな音色が祈りの空間に響き渡った。
26年目の反省
教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭
小西 広志神父

3月20日で、司祭叙階26年目を迎える。去年は銀祝の年だった。召命が遅かったので、もう今年で64歳になるから、せいぜいあと10年かそこらのいのちだろう。
この年になると、これまでの出来事を時々思い出す。そろそろ思い出だけで生きるような年代になりつつある。思い出しては、なんて自分はひどいことをしてしまったのだろうと反省する。かつて、猿回しのお兄さんが、お猿さんに反省のポーズをさせて、笑いをとっていた。「反省だけなら、誰でもできる」と言われそうだが、わたしもわたしなりに反省した。
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信徒に危機感を煽っていたのでは?と反省している。司祭になったのは2000年だった。その頃の教会の雰囲気はどこに行っても危機感があった。「信徒が減っている」、「召命が減っている」、「司祭が減っている」と多くの人が思っていた。そして、司祭たちは「将来、司祭がいなくなっても、自分たちで教会を維持できるようにしてほしい」と呼びかけていた。信徒による教会運営、信徒によるカテキズム、司祭不在の際の信徒による臨時の聖体奉仕者などなど。危機感を動機づけにして、教会の中に様々な役割が生まれていった。
東京教区も同じだった。まるで10年後には小教区が統廃合されるような話を聖職者たちは語り始めたように思う。実際はそうではなかったかもしれない。でも、その印象が記憶として残っている。
あれから四半世紀、小教区の統廃合はほぼなかった。司祭も十分とまではいかないが、それなりに東京教区にはいる。
あの危機感はいったいなんだったのだろうと反省する。危機感を人のこころに植えつけ、それを動機づけに何かを始めるのは、信仰者の共同体である教会に果たしてふさわしかったのだろうか?と考える。しかも、聖職者という権威ある者らが声高に言ってよかったのだろうかと反省している。別なやり方があったかもしれない。しかし、あの頃はそれに気づかなかった。
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「やりっ放し」だったなと反省している。いろいろな試みをした。いろいろな行事もした。しかし、どれもが「やりっ放し」だったように思う。小教区でも行事が終わると、「お疲れさん」とビールを飲んでねぎらった。それはそれでよいのだけれど、あの頃の行事の記録がほとんど残っていない。さらに、あの頃からメールがコミュニケーションの手段となったから、四半世紀を経て、紙の媒体に残された記録がない。
東日本大震災の後、多くの人がボランティアとして東北の地へと向かった。みんなで力をあわせて復興のために働いた。一日ヘトヘトに働いて、苦労をねぎらってビールを一杯飲んで、喜びたいと願ったのはわたしより年長の司祭たちだった。若者たちは、疲れているにも関わらず、夜に車座になってその日一日の出来事を分かちあった。そこにはシスターたちは一緒にいたが、司祭の姿はなかった。
若者たちは、道端に落ちている写真の切れ端を拾いながら、津波に襲われた人々のことを思った。若者たちにとってそれはとても厳しい体験だった。だから、仲間と一緒にボランティアを「やりっ放し」ではなく、喜びと哀しみを分かちあおうとしていた。ともに祈りながら、辛い時を乗り越えようとした若者たちは、今のシノドスの教会の流れへとつながっているだろう。力仕事だけで満足して「やりっ放し」で終わったわたしたち司祭は、今の教会の流れについていけないでいる。
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「祝福」の言葉をかけてこなかった。と反省している。司祭とは「祝福」する人だと気づいたのは、叙階されてからだいぶ後のことだ。むしろ、若いときは斜に構えて、世の中と教会を眺めて批評するのが司祭の態度だと考えていた。
先輩の神父と眼鏡を買いに出かけて、店員さんが「どんな眼鏡をお好みですか」と聞いてきて、先輩は「権威がある者とみえるような眼鏡がほしい」と真顔で答えていたのに驚いたことを覚えている。人々からバカにされたくない、人々から尊敬を集めたい、人々を指導したいという気持ちが「権威ある者」という言葉にこめられていたのだろう。
それは司祭はなんでも知っている、司祭はなんでもできるという全能感に裏打ちされる態度のように思う。しかし、実際には司祭はこの世のことはなにも知らない。司祭はなんにもできない。ただ、できるのは神さまからイエスさまを通していただいた「祝福」を人々に分けてさしあげることだ。
「大丈夫よ」、「がんばろうね」、「よかったね」。ちょっとした司祭のしぐさと言葉にあふれる「祝福」のメッセージが人を生かすのだろう。「祝福」をできる人は、どんな状況にあっても、神もほとけもあるものかと思うような場所でも、それでも神に願う人だと思う。「祝福」の言葉をかけていないとは、祈っていないことなのだろう。
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まるで思春期の子どものようだった、と反省している。司祭になりたての頃、先輩の神父たちの口癖は「ローマは日本のことを分かっていない」というものだった。修道会でも同じような口ぶりで「総本部は、日本の状況をわかってくれない」というものだった。そんな雰囲気に呑み込まれて、わたしも「日本には日本の信仰がある。ヨーロッパの人々は分かっていない」となんとなく考えるようになっていた。イタリアに留学する前に「なんで留学するの?彼の地から学ぶものはあるの?」と年長の神父から聞かれて、困ってしまったのを覚えている。
日本的なものを探して、本を読んだり、いろいろ体験したりしてみたが、結局のところ「日本的なもの」とは何であるのかははっきりと分からなかった。井上洋治師も森一弘司教も、あの頃の名だたる司祭たちは「日本的なものを」を探し求めた。残念だが、誰も見つけることができなかった。
あの頃の司祭たちは、思春期の子どもが「大人は自分のことを分かってくれない」と騒いでいるだけのようなものだったのではなかろうか。そんなふて腐れている少年に「じゃ、あんたは何者?」と聞いても答えられないのと似ている。
先日、短いビデオを見た。去年の聖年で、各国のシノドス担当者のための祝祭の時に、アジアからの質問にレオ十四世教皇さまがお答えになっているビデオだ。教皇さまは見事にアジアの教会の素晴らしさを言い当てていた。諸宗教との対話に開かれたアジアの教会は、世界と人間のなかにある神秘に触れることができる。その可能性がアジアの教会の素晴らしさだと言われた。
教皇さまはよくお分かりになっていたのだと気がついた。他人がわたしたちの姿をはっきりと教えてくれる。「誰も分かってくれない」と騒ぐのは、出会いと交わりを通して成熟することを忘れた、子どもっぽい態度なのだろう。
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反省のポーズのお猿さんはどうしたのだろう。もしかしたら天国でも反省のポーズをしているのかもしれない。わたしもこの世で反省のポーズだけでもとって生きていこう。先日、同僚の神父が「わたしたちが死ねば、新しい教会が始まると思います」と語ってくれた。新しい芽が生まれるように、畑の肥料となるために喜んで死んでいこう。
神の愛の宣教者会 山谷の家奉仕活動
2025年12月23日、菊地功枢機卿、小田武直神父(教区本部事務局次長)と東京教区広報担当者は東京・台東区のかつて山谷と呼ばれた一帯で活動する神の愛の宣教者会(通称MC)の男子修道院を訪問し、2025年最後の朝食提供の奉仕活動に参加させていただいた。この日は修道院の聖堂で皆で静かに祈りを捧げた後、約50人分のご飯と豚汁を準備し、修道院一階のホールを訪れた方々に提供した。
菊地枢機卿と山谷の家修道院長
皆でご飯をよそうなお、日本におけるMCの歴史と、現在の奉仕活動について、神の愛の宣教者第三会員で、山谷地区での奉仕活動にも関わっている宇野謹子さんにご説明いただいた。
「山谷」にMCのブラザーがいる歴史
1950年、コルカタの聖テレサ(マザー・テレサ)が創立した神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity、通称MC)は、「十字架上のイエスの渇きを癒す」ために、貞潔・清貧・従順とともに、「貧しい人々の中で最も貧しい人たちに対する献身的な無償の奉仕」の第四の誓願を立てた修道者が、国籍・人種・身分・宗教を問わず、世界各地でさまざまな活動を行っています。日本には東京に男子・女子修道院、愛知県・大分県に女子修道院があり、多国籍の修道者が祈りの生活、奉仕活動、使徒職を行っています。
MCの男子活動修道会は1963年にインドで設立され、1978年3月10日に東京で山谷の家修道院を開設、2004年に現在の場所である台東区日本堤に修道院を移転しました。この地域は以前、山谷地区と呼ばれ、日本の復興期を支えた日雇い労働者の簡易宿泊所(通称ドヤ)が多くありました。以前に比べ数は減ったものの、現在も修道院周辺には簡易宿泊所やドミトリーなどが立ち並んでいます。たくましく元気だった男性たちは、高齢となり仕事ができなくなっても、家族と疎遠であったり身寄りがなかったりすることから生活困窮者となり、9割の人が生活保護などの公的支援を受けて生活しています。
山谷の家修道院には、韓国人の院長をはじめ、インド人2人、マダガスカル人1人の計4人の修道士(ブラザー)が派遣されており、ボランティアとともにドヤや路上で暮らす人々に奉仕を行っています。主な活動は、食事や衣服の提供、シャワー室の提供です。山谷に住む人の多くが年配の男性であることから、愛情と親しみを込めて「おじさん」と呼び、数十年にわたり交流している人も大勢います。ボランティアの中には、修道院開設当時から参加している人や、日本で生活している外国籍の人、海外のMCハウスでボランティア経験のある人など、さまざまな年代・国籍・信仰の人がいます。
MCブラザーたちは、木曜日、日曜・祝日、第一金曜日を除く日は朝から活動を開始します。
月・火・水・金曜日は、修道院1階ホールで朝食や弁当を提供しています。材料のほとんどは寄付によるものです。
寸胴いっぱいの豚汁配食後、ブラザーやボランティアは自転車で上野公園や墨田川、浅草の橋のたもとなどに赴き、路上生活をする人々に弁当を配っています。土曜日は約250食のカレー弁当を作り、近くの白髭橋へ配りに行きます。活動後は参加者で食事をともにし、近況報告や分かち合いなどを行って絆を深めています。火曜日と土曜日には修道院内でミサが行われます。
ボランティア活動に関心があり、何か手伝いたいという思いがあれば、どなたでも参加していただけます。参加にあたり、事前連絡は不要です。当日修道院(台東区日本堤2-2- 14)に来ていただいて、ボランティアと伝えてくだされば結構です。動きやすい服装とエプロンをお持ちいただければよいですが、お貸しすることも可能です。朝8時から開始ですが、遅れても大丈夫です。通常鍵を閉めているのでインターホンを押してください。気構えずに参加していただければ嬉しいです。
活動は一人ではできません。多くの人に支えられ、感謝とともに行っています。
活動の中で、おじさんたちやボランティア同士など、さまざまな人との出会いがあります。それは大きな恵みであり、私たちを集めてくださるのは神であることを実感しています。
活動は祈りとともに行っています。活動の中で寄り添うことにより、それぞれが抱える苦しみや悲しみに触れることもあります。それを祈りの中で神から癒やしや光をいただくこともあります。
活動の前の祈り私たちの地道な活動は、マザー・テレサの教えのとおり、小さな活動に大きな愛を込めて行っています。参加してくださる方々は、奉仕活動を通して、神が私たちを愛してくださるように他者を愛することを学ぶことができるでしょう。
共に歩む、東京教区教会学校リーダー会
中井 美帆
関口教会 教会学校リーダー
笑顔で語りかける森神父
1月25日、カトリック関口教会で東京教区教会学校委員会主催の教会学校リーダーの集まり「共に歩む、東京教区教会学校リーダー会」が開催された。同委員会によるこの試みは初めてのものである。
これは関口、高輪、清瀬、北町の各教会で活動するリーダー有志の「教会学校リーダーの情報共有や相談の場があったらいいのでは」という思いから生まれた企画である。
当日は東京教区のみならず、他教区およびプロテスタント、聖公会からの参加者も含め、約60人の幅広い年齢層のリーダーが集まった。
会のはじめに企画者による趣旨説明と企画への思いが伝えられ、最初のプログラム「取り組み紹介」では関口教会、清瀬教会のリーダーによる教会学校の取り組みが紹介された。普段の教会学校のクラスのアイデアや初聖体勉強会、侍者会など幅広い内容に、多くの参加者が熱心にメモを取る姿が見られた。
関口教会の活動紹介
清瀬教会の活動紹介次に、東京教区青少年委員会メンバーである森晃太郎神父(イエズス会)による講話「リーダーの教会学校」が行われた。森神父は壇上に登らず、「これは授業や講義ではなく、ホームルームのような時間だと思って話します」と話し始めた。そして、リーダーに「皆さんがリーダーとして一番大切にしていることは何ですか」と問いかけた。会場は全員が自問し、考え込む空気に包まれた。
それから「『イエスを伝えること』、これが一番根底にないと、子どもに伝えたいことが伝わらない」と、森神父が自ら経験した教会学校リーダーとしての体験、とりわけ失敗の体験をもとに語った。
「
夏休みはキャンプ、クリスマス前は聖劇の練習、それ以外はお勉強の時期など、びっしりと決まったスケジュールを真面目にこなせる『プロのリーダー』が開く教会学校で、度々、本当はイエスがそこに共にいてくれているはずなのに、イエスがその場にいないかのように感じられた」という森神父の経験談が非常に印象深かった。さらに森神父は「イエスも子どもとリーダーに混じって遊びたいはずなのに、みんなから忘れられ、イエスの居場所がないかのような気がした。それは目の前の子どもと今どのように関わることがイエスを最も伝えられるのだろうかという一番肝心な問いから始まっていないからだ」と話した。この箇所はイベント後のアンケートでも、多くの参加者から特に印象的だったとの感想が寄せられた。
例えば、昨年この時期にキャンプを行ったからといって今年もそのまま実行するのではなく、今年の教会学校にいる子どもたちをよく見つめて、「この子たちには違うプログラムの方がイエスを伝えられる」と感じたら、思い切って変えてみる。教会学校にもそのような「刷新(アジョルナメント)」と「識別」が必要だ。そしてそれは、大人であるリーダーたちの仲間としての連帯と協力なくしては成し得ない。
その後の茶話会ではテーブルに分かれ、リーダー間の交流が行われた。リーダーたちの多くが初対面にもかかわらず、熱心に情報交換や悩み相談をしており、話が尽きない様子だった。
近年は、コロナ禍や子どもの減少など教会学校にとって厳しい社会状況もあったが、一人ひとりのリーダーが高い志と子どもたちへの愛情を持って奉仕しており、さらに横のつながりをつくることで新たな発展が期待できる、意義深い集まりとなった。
次回開催を期待する声も多く、今後も東京教区教会学校委員会ではリーダーたちのための集いを検討していく予定である。

福島の地からカリタス南相馬 第49回
一般社団法人カリタス南相馬代表理事
東京教区名誉補佐司教 幸田 和生
震災と原発事故から15年

この3月11日で、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故から15年が経ちます。この間、福島県の太平洋岸では復興のための巨大な土木・建築工事が進み、全国では、まるで福島の事故が大したことがなかったかのように原発の再稼働が相次いでいます。
一方、原発事故避難によって傷ついた人間の姿は簡単には見えません。原発事故による放射能汚染のため避難指示が出された区域に住んでいた人の数は15万人近くに上り、また放射能への不安を感じて区域外へ避難した人も大勢いました。長い避難生活の中で、自死や病状悪化によって命を落とされた方(災害関連死)は、福島県では2千人以上確認されています。公式発表の避難者数は減りましたが、避難指示が出ていた地域の人口は激減してしまいました。
東京教区によって現在のカリタス南相馬の建物が建てられてから、今年で10年になります。現在は一般社団法人カリタス南相馬として、この地の人々に寄り添う活動を続けています。
毎年3月には、数多くの震災記念行事が行われます。カトリック原町教会では3月15日(日)午後1時から「いのちの光3・15フクシマ」の現地報告とミサが行われます。これは福島第一原発事故でもっとも大規模に放射性物質が拡散したこの日を思い起こし、原発事故のことを忘れないため、原町教会の前担当司祭である狩浦正義神父(名古屋教区)の呼びかけで始まった集いです。今年の現地報告は、南相馬市小高区の旧避難指示区域にある曹洞宗同慶寺の田中徳雲住職にお願いしました。2019年のフランシスコ教皇訪日の際、東京で行われた教皇と被災者との集いでスピーチされた方です。
なお、カリタス南相馬が企画するこの地域の現地学習は「見さ来ぅ南相馬」として行ってきましたが、今年から「Come and See 福島」と名称を変更し、継続していきます。今年は6月24日(水)~26日(金)と11月21日(土)~23日(月)の2回を予定しています。詳しくは、カリタス南相馬にお問い合わせください。
首都圏に住む皆さまが、福島を忘れないでいてくださることを心から願っています。
お問い合わせ先
一般社団法人カリタス南相馬
0244-26-7718
カリタス東京通信 第30回
自立援助ホームをご存知でしょうか?
青少年福祉センター 荒船 旦子
皆さまは、児童養護施設についてはサレジオ学園の田村寛園長が、東京教区ニュース第406号(2023年10月号)の記事にされ、ご存じのことと思います。自立援助ホームは、児童養護施設を退所した子どもたちのために、1958年に始まりました。その頃は、中学を卒業したら施設を退所し、ほとんどの子どもは住み込み就労をしていました。しかしながら、簡単に仕事先に溶け込むことは難しく、しばらくすると失業してしまう子どももいました。その頃の子どもたちは戦災孤児が多かったため、帰る家もなく、路頭に迷う事態も見られました。そのような頃、児童養護施設サレジオ学園に勤務していた長谷場夏雄氏が、子どもたちの「僕たちの家を作って」という要請に応えて、神父になるのを諦めて始めたのが、自立援助ホームの始まりです。
初めは四畳半一間で子どもたちと寝食を共にしつつ、廃品回収や洋服の仕立てなどを行い、純益を子どもと職員で分けて生活をしていました。偶然、カトリック信者の麻生和子さんが、その自立援助ホームに公衆電話を借りに立ち寄り、この事業を知って、カトリックの団体である「あけの星会」が援助を始めました。1964年には男子寮、1974年には支援を受けて女子寮が始まりました。長谷場氏自身も広報に努めたこともあり、1961年には財団法人として認可され、少しずつ支援者も増えていきました。また、その事業に賛同を覚えた大嶋恭二氏が研究テーマとしてこの事業を取り上げ、各所に実績を知らせていくうちに行政の目に留まり、1974年に東京都より補助金の給付が始まりました。現在では、児童福祉法の児童自立援助事業として認められています。
対象者は、義務教育を終了し、自立援助ホームでの支援・生活利用を希望する20歳未満の若者です。就労支援ですので、ホームから仕事に通いながら、社会常識も身に付けられるように、職員が寝食を共にして支援をしていきます。近年は、高校卒業後、仕事をしながら上級学校に通う若者も増えています。本来は20歳までですが、学校を卒業するまで在籍することができます。
入居時には、子どもたちがここに入りたいという意思の確認をして、契約を交わします。今まで諸々の事情で主体的に生きてこられなかった子どもたちに、自分で決定をするという主体性を持たせると同時に、それに伴う義務と責任にも気付いてもらえるようにします。
職員は、子どもたちが社会に出て自立していけるように相談に乗りつつ、家庭で教えてもらえるような普段の挨拶や、掃除・洗濯をはじめとした、一人で生活をしていくために必要な事項を共に行っていきます。今まで自分の存在価値を見出せなかった多くの子どもたちに、自分自身を見つめ、将来を見据えて生活をしていかれるようにと支援をしています。
また、退所後も、彼らの求めに応じて物心両面での支援も行っています。彼らにとって実家のような存在になれたらと思いつつ、職員は日々勤しんでいます。
カリタスの家だより 連載 第180回
ボランティア三つの覚書
ボランティア 竹中 豊
一.《求めない―
すると
キョロキョロしていた自分が
可笑しくなる
(中略)…
求めない―
すると
体ばかりか心も
ゆったりしてくる》(詩人・英米文学者 加島祥造〈1923~2015〉)
早合点しないでほしい。これは無為の賛美、煩悩を捨てよ、ということではない。求めないでもいいことは求めなさんな、ってことだ。欲望・野心・見栄は、No thank you。良心の命ずるところに従って生きよ、という、これは粋な警句に違いない。
だから、損得勘定の打算とボランティア活動とは、100パーセント相性が悪い。少し難しい表現でいえば、この《無償性》こそ、ボランティア活動の神髄の一つだ。続けて、この作者は語る。
《求めない―
すると
心がひろくなる》
二.ならば、ボランティア活動のやりがいって何だろう。もちろん、それは人によって異なるだろうが、共通するのは、苦しむ人たちに寄り添い、《お手伝い》できる、ということに尽きるだろう。
加えて、《妙味》もある。それは新しい発見―、言い換えれば《出会いの文化》という点だ。あくまでささやかな私の経験だが、ボランティア活動を通して、いつもそれを感じていた。具体例でいえば、身体的ハンディを負った人の移動支援、独居高齢者の話し相手、入院患者の介護支援などなど。その内容は多様で、私にとって非日常的な生の姿に触れる貴重な《出会い》の機会だった。
とはいえ、人間は神様の創った不完全な生き物だと信じている私にとって、良識をもって行動の舵を取るのは、いつも難しかった。それでも、何を見て、何に触れるか……それによって、人は、物の見方・考え方、あえて言えば運命まで変わるものだと、しみじみ実感している。そういえば、前教皇フランシスコは生前、こんな言葉を残していたっけ。
《人生はただ過ぎゆく時間だけでなく、出会いの時間なのです》
三.話は飛ぶが、学生とともに私が体験したユニークな国際ボランティア活動について、ほんのちょっと触れてみよう。現役時代、縁あって私はカトリック系の女子短大で教鞭をとっていた。短大のルーツはカナダのフランス語圏、ケベック州。そこは歴史的にはカトリックに育まれた土地だ。学内にはケベック出身のシスター(ケベック・カリタス修道女会)が居り、そのことが、ケベック州でボランティアを実施する大きな契機となった。この修道女会の活動は、もともと貧しい人びとへの慈善事業、更生福祉ホームでの奉仕活動などに注がれていた。
その趣旨を継承して同修道女会は、奉仕活動の一環として、貧困者への無料の食事サービスを実施していた。私たちは、この活動に、初めて日本人ボランティアとして参加したのだった。場所は、もちろんケベック。期間は夏休みの約3週間。宿泊先はホテルやホームステイではなく、ケベック・カリタス修道女会修道院だ。これは、日本では体験できない貴重な体験だった。さらに、ほかのボランティア内容には、衣服作業所での修繕、リサイクル用品の区分け、耳の不自由な人たちとの共同作業などもあった。
この活動を通して、印象に残ったことがいくつかある。一つは、カナダのフランス語圏という異文化社会の中で、言葉は通じなくても心は通じるということ。二つは、現地のボランティアの中に、頑丈な体格の人がいて、聞いたら元警察官だという。「へえ」、それを知ってびっくりしたのを覚えている。でも彼は、いつもニコニコしながら作業していたなあ。そして最後は、このボランティアのコーディネーターをしていたカナダ人シスターが語った言葉だ。《ワタシ、この仕事が楽しくて楽しくて仕方ないの!》という。ああ、人間の真の楽しみを知っている人が、ここにいたのだという、それはうれしい驚きでもあった。
CTIC カトリック東京国際センター通信 第295号
入管訪問活動を振り返って
手に持っている花瓶は被収容者が収容施設の中で作ったもの。帰国にあたって面会を続けたシスターにプレゼントされた
2011年から15年にわたってCTICスタッフとして活動されたシスター木口朋子さん(ベリス・メルセス宣教修道女会)が、この3月で退職されますので、シスター木口に今までの活動を振り返ってお話を伺いました。
高木 長い間ありがとうございました。シスターは主に出入国在留管理庁(入管)訪問を担当されてきましたが、どのような活動内容でしょうか。
木口 全国にいくつかある在留資格を持たない外国の方を収容する法務省の施設のうち、CTICでは品川と牛久の施設を訪問し被収容者と面会したり、必要な物を差し入れたりします。また、施設の処遇改善のために、この分野で活動するさまざまな人と一緒に、当局との交渉の場に同席したこともありました。
高木 入管訪問で心がけられたことはありますか。
木口 カトリック教会の活動であるCTICとして入管を訪問することの意義を確認するようにしました。被収容者の方からリクエストされる物の差し入れも、もちろん可能な範囲でしますが、面会を中心と考えるようにしました。そして面会では、人間の尊厳を大切にするというキリスト教の根本価値を常に頭に置きながら、一人ひとりと関わるようにしました。入管という希望の閉ざされた環境で、よりポジティブに生きることができるように、また自分の将来についてどう決断していくのかを考えるための同伴者として傾聴するようにしました。
高木 信仰者として、他の人に同伴する一つの形として、入管での面会もあるということでしょうか。
木口 もちろんそれだけではなく、お話の内容によっては、支援者のネットワークで弁護士や医師におつなぎすることもありました。
高木 ネットワークという点では、地道な活動を通して、シスターが多くの支援者の方々とつながり、信頼されているという印象を受けました。
木口 信頼されているかは分かりませんが、いろいろな支援者の方々、個人、グループ、教会関係、弁護士、医師、こういった方々と収容施設の待合室で知り合いになり、自然に情報交換を行うことができるようになった面はあります。
高木 入管訪問で特にご苦労されたことは何かありますか。
木口 特にといってよいか、正義感の強いボランティアの方々が、収容施設のさまざまな非人道的な現実に憤慨し、今すぐの改善を私たちのほうに迫ってくることがあり、その対応に苦労したことが記憶に残っています。
高木 最後に、今の教会について感じておられることをお話しいただけますか。
木口 教会が外国人問題や、他の政治的・社会的問題に関心を持ち、キリスト者としてどのような立場に立ち、どう行動していくかを考えるのは、とても大事なことだと思います。ただ、そのためには、マスコミで大声で述べていることだけを鵜呑みにするのではなく、できるだけ事実を知ることが重要だと感じます。大きな声に同調してしまうと、本当の支援からそれてしまう危険性があると思います。
高木 シスターのご指摘を大切に、CTICが活動を続けられたらと思います。CTICは離れても、これからも東京教区の仲間としてよろしくお願いします。ありがとうございました。
木口朋子(ベリス・メルセス宣教修道女会・CTICスタッフ)
聞き手:高木健次(東京教区司祭・CTIC担当)
編集後記
寒さの中で梅は咲く
寒さの中で春を告げる
闇に灯す光のように
痛みを癒やす手のように
寒空を彩る梅の花は
わたしたちに愛を語る(Y)