お知らせ
東京教区ニュース第418号
2024年12月06日
目次
菊地功大司教、枢機卿任命について語る
東京教区ニュースの先月号でもお知らせしたとおり、教皇フランシスコは、ローマ時間10月6日正午(日本時間午後7時)、バチカン・サンピエトロ広場に集まった巡礼者や訪問者に向けての「お告げの祈り」において、菊地功東京大司教を含む21名を枢機卿に任命することを発表した。菊地枢機卿自身も10月はローマでシノドス総会に出席していたため、先月号では菊地枢機卿の個人ブログ「司教の日記」からの抜粋という形で第一声をお届けしたが、今号では、帰国した菊地枢機卿に直接インタビューを行い、枢機卿任命についての率直な感想や、枢機卿の役割についてお話を伺った。
執務室でインタビューに答える菊地枢機卿
Q 枢機卿任命おめでとうございます。任命発表直後の「司教の日記」に「驚きました。心の底からこれだけ驚いたのは久しぶりなほどに驚きました。そして困惑しました」と書かれていましたが、本当に事前通告は何もないのですか?噂になったり、漏れ伝わったりなども?
全く何もありませんでした。事前の相談も内示もなかったですし、これまでしばしば聞かれた、「そろそろ枢機卿の任命があるらしい」という噂も全く聞こえてきませんでした。しかも大事なシノドスの真っ最中です。ですから10月6日に、日本人会のミサが終わって聖ペトロ広場の方に戻ってきたときに、昼の祈りに参加していた人から、「東京の司教が枢機卿に任命された」と言われて、心の底から驚きました。
教皇様はシノドスの会場にしばしばおいでになっていました。任命発表の数日前に、わたしは(シノドス議長代理の)西村桃子さんとともに教皇様にごあいさつして、一緒に写真も撮っていたんです。そのときにも教皇様は、何も言われなかったのです。
Q 具体的に、枢機卿とはどのような役職で、どのようなお仕事があるのですか?コンクラーベに参加するということくらいは聞いたことがあるのですが。
しばしば枢機卿とは教皇の顧問だと言われますが、確かにそういった側面はあると思います。それは具体的に教皇様にアドバイスをするというよりも、バチカンの各省庁の委員となって、その運営に協力するという仕方で、間接的に教皇様の使徒職を支えるということがあると思います。前田万葉枢機卿様も、現在は広報省のメンバーとしてその運営に関わっておられます。
教皇選挙(コンクラーベ)に参加するのは80歳未満の枢機卿です。もちろん自分自身が80歳になる前に教皇選挙があればの話です。
Q 12月7日に枢機卿親任式、12月8日に教皇様とのミサがあるとのことですが、どのようなことが行われるのですか?
枢機卿親任式は、公開の枢機卿会の中で行われます。公開の枢機卿会では、聖人の認定なども行われますが、親任式では、教皇様のお話の後、新しい枢機卿の名前があらためて教皇様から呼び上げられ、信仰と忠誠の宣言の後、一人ひとりにビレッタ(赤い帽子)、指輪が与えられ、同時にそれぞれの枢機卿のローマにおける名義教会を記した文書が与えられます。
枢機卿会の終了後には、パウロ6世ホールなどに場所を移して、それぞれの新しい枢機卿が分かれて立ち、訪れた人のお祝いを受けます。これはどなたでも入ることができると聞いています。
翌日のミサは教皇様司式のミサで、枢機卿親任の感謝ミサになります。今回はすでに冬ですから、親任式も感謝ミサも、聖ペトロ大聖堂の中で行われると聞いています。
Q 枢機卿になるとローマ近郊に「名義教会」が与えられると聞きました。これはどのような制度なのですか?
教皇様ご自身から任命後に頂いた手紙には、「枢機卿にあげられることによって、あなたはローマの聖職者の一員となります。この意味は、教会の一致の表現であり、すべての教会とローマの教会の絆を象徴します」と記されていました。
ローマの教会の一員となるということを象徴して、ローマの教会のどこかに自分の名義教会が与えられるのだと思います。それによって、自教区のカテドラルとローマの名義教会の両方に司教紋章が掲げられることになり、両者の絆を象徴します。
名義教会を度々訪問することは勧められているようですが、ローマ教区の教会ですから、特に何か義務があるというわけではありません。
Q お召し物も変わるのですよね?十字架や指輪も変わるのですか?
枢機卿の正装は、司教の正装と色が異なっています。殉教者の血の色を象徴しているという深紅が、帯やズケット(小さな帽子)に使われます。十字架はこれまでと一緒ですが、指輪は親任式の時に教皇様から頂くものになります。
Q 紋章も変わりますね?
紋章自体は変わりませんが、その周りにある飾りの房の色が深紅になり、さらに房がもう一段増え現在の四段から五段になります。
Q 菊地枢機卿は、今でも国際カリタスやアジア司教協議会連盟(FABC)のお仕事で海外出張が多いですが、枢機卿になられたらますます出張が増えるのでは?
それ以外にも、これまでと生活の変化はあるのでしょうか? それほど大きな変化はないと思います。国際会議も、できる限りオンライン化が進んでおり、例えば毎月のカリタスの運営会議も今ではすべてオンラインになっています。
しかし集まることも不可欠なので、これまで通り、年に何度か海外へ出かけることになろうかと思います。枢機卿になることで増えるかどうか分かりませんが、仮に頻繁に会議を開く省庁の委員に任命されれば、それに応じて海外出張も増えるのかもしれません。
ただし、儀典関係で、教皇様の名代としてどこかの行事に出席したりするよう、教皇様から指名されることはあるかもしれません。
Q 枢機卿に任命されて、新たな決意や目標はありますか?
教皇様から付託された責務を忠実に果たしていきたいと思います。また日本の教会はあまり知られていないので、日本の教会と社会の現実を、広く伝えたいと思います。日本においても、これまで以上に福音の証しに積極的に取り組みたいと思います。
Q 枢機卿任命を聞いた東京教区の皆様は、喜びとともに驚きや戸惑いも感じていると思います。最後に、信徒の皆様にメッセージをお願いいたします。
枢機卿任命はわたし個人への栄誉というよりも、日本の教会と特に東京教区への贈り物であると感じています。教皇様から与えられたこの務めをひとりで十分に果たして行くには、わたしの力では及ばないところがあります。これからも皆さまのお祈りによる支えを、心からお願いいたします。
シノドス期間中はお休みしていた『週刊大司教』も収録を再開。菊地枢機卿によれば「このたび枢機卿に任命されたことで、このプログラムのタイトルも『週刊枢機卿』に変更となるのかとのお尋ねを複数いただいています。タイトルは変わりません。今後とも『週刊大司教』として続けます。枢機卿というのは、特定の役割を果たす立場を教皇様から与えられることによって生じるので、枢機卿になったとしても、叙階の秘跡でわたしに霊印として刻み込まれた司教であるということに変わりはありません。したがって、今後も、枢機卿であっても司教であることに変わりはありません。ですから『週刊大司教』で続けたいと思います」とのこと。
菊地功大司教 枢機卿親任祝賀ミサのお知らせ
日時:2024年12月21日(土)午前11時
場所:東京カテドラル聖マリア大聖堂
主司式:菊地 功枢機卿 ※共同司式される司祭は祭服(ストラは白)をご用意ください。
※東京教区YouTubeチャンネルでミサのライブ配信を行う予定です。
お願い
○お車でのご来場はご遠慮ください。公共交通機関をご利用ください。
○午前10時より受付を開始いたします。受付を済ませた方から順に聖堂にお入りください。
○基本的に入場等に制限をかけない形で予定しておりますが、場合によっては別室での参列(スクリーンでライブ配信を視聴する形式)もあることをご承知ください。
青年の集い
カテドラル内陣でのミサ
11月9日(土)夕方から、東京カテドラル聖マリア大聖堂とケルンホールにて東京教区青少年委員会、東京教区教皇庁宣教事業(MISSIO TOKYO)共催による「教皇訪日5周年記念東京教区聖年の集い」が行われた。5年前に教皇フランシスコが来日した直後から、世界は新型コロナウイルス感染症が蔓延し、人々が集まることができない日々が数年間続いた。そのため、教皇訪日によって蒔かれた種を実らせる機会を作ることも難しい状態であったが、コロナ禍が一段落した今年、5年前に教皇と「青年との集い」が行われた東京カテドラルに再び140人ほどの多国籍の青年が集まった。
集いはケルンホールでのアンドレア・レンボ補佐司教による講話から始まった。講話の最初に、教皇来日時の東京ドームミサで福音を朗読した野口邦大神父(秋津・清瀬・小平教会主任、東京教区青少年委員会担当司祭)が、5年前と同じ「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10:25―37)を朗読した。福音朗読に続いて、アンドレア司教が自分の体験や、「レクチオ・ディヴィナ(霊的読書)」の方法を紹介しながら、「隣人として共に歩むためには具体的な行動が必要です」と、福音を解説した。 講話に続いて、10人ほどの小グループによる分かち合いが行われ、どのグループも積極的に熱気のある言葉が交わされた。
講話をするアンドレア司教(左)と福音を朗読する野口神父
続いて、会場をカテドラル大聖堂に移してアンドレア司教司式、教区青少年委員会とMISSIO TOKYOそれぞれの担当司祭たちの共同司式によるミサが行われた。ミサは全員が内陣に集まり、聖歌は青年たちによるギターとカホンの伴奏で歌われた。説教の後には、分かち合いのグループの代表者によって、分かち合いのまとめが発表された。ミサの終わりにアンドレア司教は「カテドラルの内陣は広くて冷たいけれど、今日は暖かく感じました。皆さん、この集いだけじゃなく、小教区でも元気にしてください、うるさくなってください。若いんだから!」と、力強く青年たちを激励した。
カリスを掲げるアンドレア司教
ミャンマーの教会に想いを寄せて 2024年 ミャンマーデー
築地教でのミサ後、歓迎パーティでスピーチするバシュウェ司教
今年の東京教区ミャンマーデー(11月17日)は、昨年は紛争の激化によって来日することができなかったロイコー教区のセルソ・バシュウェ司教が来日し、二つの教会でともにミサを捧げてくださった。
午前中は、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて菊地功枢機卿司式のミサが行われ、バシュウェ司教と、同じくロイコー教区司祭のフィリップ神父が共同司式に加わった。
ミサの説教で菊地枢機卿は、ミャンマーやウクライナ、ガザで続く紛争を挙げ、争いが止まない世界の現状を「賜物であるいのちは、その始めから終わりまで例外なく尊厳が守られなくてはならないという信仰への挑戦」であるとした上で、「人類はさまざまな苦難に直面するものの、『天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない』と語ることで、愛に満ちあふれた神はご自分の民を決して見捨てることはないと、主イエスは断言されます。わたしたちは神からに捨てられることはないという事実は、わたしたちの信仰において大前提です。どのような困難な時代に合っても、神の言葉は滅びることはありません。神の言葉は常にわたしたちとともにあります。神の言葉は主イエスご自身であります」と述べ、社会の現状を悲観したり、終末論的な価値観にとらわれたりするのではなく、神はわたしたち人間を決して見捨てないという希望を持ち続けることの大切さを説いた。
左からバシュウェ司教、菊地枢機卿、フィリップ神父。枢機卿が手にしているのはロイコー教区からの贈り物
ミサの終わりには、バシュウェ司教から菊地枢機卿へロイコー教区からの贈り物が手渡された。この2つの像は、国内避難民となったロイコー教区のカトリック信者たちがジャングルの難民キャンプで住んでいる住居と同じ木材で作られているとのこと。なお、バシュウェ司教自身も、現在は軍によってご自分のカテドラルを追われ、信徒たちとともに難民キャンプで生活している。
午後には、毎月ミャンマー共同体のミサが行われている築地教会に場所を移し、バシュウェ司教司式によるビルマ語のミサが行われ、ミャンマー人信徒を中心とする多国籍の会衆で聖堂はいっぱいになった。築地教会主任司祭で、東京教区ミャンマー委員会担当司祭でもあるレオ・シューマカ神父(コロンバン会)とバシュウェ司教は、レオ神父が25年前にヤンゴンを訪れた際に出会ってからの友人同士とのこと。共同祈願は、ビルマ語の他、日本語とドイツ語でも行われ、東京教区とケルン教区、そしてミャンマーの教会の絆が示された。
ミサの後は信徒会館ホールで歓迎パーティが行われた。パーティではビルマ語の歌やダンスが披露された他、参加者からバシュウェ司教、フィリップ神父へ質問する時間も設けられ、バシュウェ司教とフィリップ神父は一人ひとりの質問に丁寧に回答していた。
築地教会でのミサで信徒を祝福するバシュウェ司教。右はミャンマー出身のラズン・ノーサン・ヴィンセント神父(ミラノ外国宣教会)
築地教会でのミサ後、パーティでスピーチするバシュウェ司教
相次ぐ小教区創立75周年
今年、東京教区では築地教会と神田教会が創立150周年を祝ったが、10月後半から11月にかけて、吉祥寺教会、赤羽教会、豊島教会が創立75周年を迎えた。150年前は、明治6年(1873年)2月にキリシタン禁制の高札が撤去された翌年、75年前は太平洋戦争終戦から9年が経ち、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結されて日本が国際社会に復帰する2年前で、戦後の混乱から復興へと移っていった時代である。どちらも、宣教会の再宣教、宣教師の来日が相次いだ時代でもあり、今回75周年を迎えた3つの教会、さらに、今年の4月21日に75周年を祝った下井草教会は、いずれも海外からの修道会、宣教会が創立に関わった小教区である。
吉祥寺教会
10月20日(日)、アンドレア・レンボ補佐司教司式による吉祥寺教会75周年記念ミサが行われた。吉祥寺教会は、神言修道会の宣教師たちによって作られ、現在も神言会が司牧を担当していることもあり、現主任司祭のビジュ・キシャケール神父、神言会日本管区長サンティアゴ・エドガルド・ジュニア(ディンド)神父をはじめ、荒田啓示神父、濱口末明神父、トゥ・ダン・フック神父、ボスコ・マニマラ神父、トラン・ナム・フォン神父、森智宏神父、ラディティア・クルニアティ神父という9人の神言会司祭が共同司式に加わった。さらに、駐日教皇大使のエスカランテ・モリーナ大司教も教会を訪れ、ミサに加わった。
聖堂いっぱいの折り紙の鳩
聖堂を飛ぶ鳩
信徒たちが作った700羽の折り紙の鳩でいっぱいの大聖堂で行われた記念ミサの中では、22人の堅信式と、3人の初聖体式も行われた。ミサの終わりに初聖体を受けた子どもから「これからもがんばってください」という御礼のあいさつを受けたアンドレア司教は、「菊地大司教様が枢機卿になったからわたしも忙しくなるけれど、これからも皆様が枢機卿様とわたしを支えてくだされば超しあわせです!」と笑顔で答えた。
子どもに答えるアンドレア司教
ミサの後は教会の前庭でお祝いの茶話会が行われた。あいさつを述べたディンド神父は「あいさつ」の四文字にちなんで、「これからも『ありがとう』『祈り』『支え合う』『仕える』『伝える』ことを大切にする共同体になってほしい」と語った。さらに茶話会では、フィリピン人グループ、ベトナム人グループそれぞれによるダンスが披露され、国際的な共同体である吉祥寺教会の姿が象徴されていた。
ディンド神父のあいさつ
赤羽教会
赤羽教会聖堂は被昇天のマリアに捧げられており、祭壇中央には大きな聖母被昇天の壁画が描かれている
11月10日(日)、菊地功枢機卿司式による赤羽教会75周年記念ミサが行われた。コンベンツアル聖フランシスコ修道会によって創立された赤羽教会は、第二次世界大戦後、アジアに最初に作られたコンベンツアル会の教会でもある。ミサは赤羽教会主任司祭の平孝之神父、コンベンツアル会日本管区長谷崎新一郎神父をはじめ、ニコラス・スワイアテック神父、ペトロ・イシュトク神父、古川政孝神父、北向修一神父、藤沢幾義神父の7人のコンベンツアル会司祭に加え、東京教区事務局次長の小田武直神父も共同司式に加わった。
共同司式するコンベンツアル会の司祭たち
ミサの最初には、菊地枢機卿によって、75周年記念に作成された朗読台などで使われる典礼色のタペストリーの祝福が行われた。タペストリーの刺繍は信徒たちが自らの手で縫ったものとのこと。
75周年記念のタペストリー。これは年間と待降節・四旬節用のもの
ミサの説教で菊地枢機卿は「社会がまだ新しい体制を目指しながら変革を遂げている中で教会を創立するということには様々な困難が伴ったことだと思います。そういった困難に果敢に挑戦され、特に自分たちの修道会の霊性を具体的に生きながら福音を証ししてきた宣教師の皆さんの模範にわたしたちもならいたい」と述べ、その上で「75年前の宣教師たちと同じ熱意で今の時代に生きていくために、私たちは何をしたらいいのか。あの熱意を忘れてしまって、今新しいものを作っていこうということではなくて、あの原点に立ち返って、それを21世紀の今を生きていくために私たちは何をしていったらいいのか、誰と関わっていったらいいのか、どのような道があるのか、そういったことをこれから本当に探っていきたいと思います」と、信徒たちを励ました。
ミサの後には、教会のホールで祝賀会が行われ、信徒たちが何日もかけて準備した料理を食べながら、赤羽教会の75年の歩みを振り返る動画を観賞したり、平神父のギター伴奏で「アーメンハレルヤ」を歌ったりと、楽しい一時を過ごした。
豊島教会
光が降り注ぐ豊島教会の聖堂
11月16日(土)、菊地功枢機卿司式による豊島教会75周年記念ミサが行われた。吉祥寺教会は神言修道会、赤羽教会はコンベンツアル聖フランシスコ修道会という修道会によってそれぞれ創立されたが、豊島教会はアイルランドで設立された外国宣教会である聖コロンバン会によって創立された小教区である。この日のミサには、現主任司祭である田中昇神父(東京教区)、英語ミサを担当している協力司祭のジョン・ジョゼフ・プテンカラム神父(イエズス会)の他、コロンバン会からレオ・シューマカ神父、フィリップ・ボニファチオ神父、グエン・スアン・ティエン神父、カレン・シームス神父が、そして豊島教会で司牧や実習の経験がある東京教区司祭の、深水正勝神父、田中隆弘神父、渡邉泰男神父、熊坂直樹神父が共同司式司祭としてミサに参加した。
豊島教会の守護聖人、聖パトリックのステンドグラス
ミサの説教で菊地枢機卿は、75年前と現代に共通するものは「希望」であるとし、「多くの人が自分の身を守ろうとして利己的な風潮が社会全体に満ちあふれる中で、多くの人が絶望に打ちひしがれて希望を失ってしまっている。だからこそ、今希望が必要なのだと教皇様が繰り返し繰り返し述べられています。そして、食べ物がなければ食べ物を差し上げればいい。着るものがない人には、着るものを着せればいい。でも、希望はどこからか持ってきて、『はい、これが希望です。あなたの心に希望を入れてください』とは言えない。希望はその人の心からしか生み出されない。だから、希望をどうやって生み出すのかということを。わたしたちは今考えなければならない」と述べ、75年前に希望の種を蒔いた宣教師たちにならい、現代を生きるキリスト者も、社会に希望を生み出す存在になることが必要であると説いた。さらに枢機卿は次の時代についても触れ「100周年のときにわたしが生きていたら是非呼んでいただきたい。次の25年間、わたしたちは100周年を目指して目標を立てられていることだと思いますけれども、ともに歩み、希望を生み出す教会になっていけることを願っています」と、過去と現在、そして未来においても希望が大切であることを語った。
希望について熱く語る菊地枢機卿
ミサの中では9人の信徒の堅信式も行わた。現在の豊島教会は様々な国や地域出身の人々がが集まる国際色豊かな共同体だが、この日の受堅者たちも世界中の様々な地域にルーツを持つ方々であった。まさに、これからの日本のカトリック教会の希望はこの多様性の豊かさにあることを示しているかのようであった。
教会の前庭にはコロンバン会発祥の地であるアイルランド国旗が
ミニストリーの教会へ
教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭
小西 広志神父
「わたしの国の教会の司祭たちは、マネージャーみたいです」とその人は話してくれました。「たくさんのことを上手に、しかも効率よくこなしていくことしか考えていません」とヨーロッパのある国の教会での司祭たちの様子を語り続けてくれました。わたしは、その言葉の数々にうなずいて、耳を傾けていました。
「司祭とは一体何者か?」この問いかけは第2バチカン公会議から一貫して司祭たちのこころに刻まれているものです。半世紀以上も前に閉会した第2バチカン公会議は、教会に新しい風を送り込みました。それは聖霊の息吹でした。それまで気がついてこなかった自らの美しさに魅了された教会は、神が与えてくださったその美しさをさらに豊かなものにしようと努めてきました。今回の「シノダリティに関するシノドス」も同じです。教会が本来備えている「ともに歩む」というすばらしさに気づき、現代社会でそのように生きるようにと2021年から始まり先月閉会したシノドスは求めていたのです。
そんなシノダリティの教会、すなわち「ともに歩む」教会にあって、教会の奉仕者である司祭は何をしたらよいのでしょうか。そんな根本的な問いかけを突きつけられているように思うのはわたしだけでしょうか。
「ディアコニア」と「コイノニア」が古代教会が求めた信者のあり方だと神学校で習いました。「ディアコニア」とは「奉仕する」、「仕える」という意味のギリシア語です。「コイノニア」とは「交わる」という意味です。どちらも新約聖書では頻繁に登場する言葉です。この言葉は、公会議から半世紀を経て、わたしたちの教会に深く浸透していったと思います。しかも「コイノニア」を造りあげるためには、「ディアコニア」がなければいけないことにも気がつきました。そして教会は日本の社会全体に対して仕える者、すなわち「ディアコニア」となるように召されているという真実にも聖霊の恵みのなかでわたしたちは気がつきました。それは、多くの人々と兄弟姉妹となるためです。「コイノニア」を形成するためです。
この二つの言葉に基づくあり方と生き方は教会の奉仕者である司祭たちにも要求されてきました。誰よりも強く、厳しく要求されてきました。ですから、司祭たちは仕える者となるために、交わりを造るものとなるために身を削って生きてきました。もちろん完全に仕える者、完璧に交わる者とはなれません。真に「ディアコニア」と「コイノニア」を生きたのは、「まことの神であり、まことの人、まことのこころの持ち主」である主イエス・キリスト以外にはいないからです。イエスさまのように、イエスさまの生き方を模範として司祭たちは生きていきます。時には、そのような生き方があまり評価されないこともあります。また時には、「仕える者なのに」と司祭たちは発言や態度を批判されます。「交わりを造っていない」と生き方そのものを否定されることももしばしばあります。それでも「キリストが生きておられるように」という規範が、司祭たちの日々の生活の指針となるのです。ただ、そのようなあり方と生き方は厳しく、辛いものです。そこでお店のマネージャーよろしく「そつなく、上手に」こなすあり方に傾いてしまうのは致し方ないと言ったとしたら、司祭であるわたしの自己弁護になってしまうでしょうか。
キリストのように生きる。人の上に立つのが当たり前のこの世にあって「ディアコニア」、仕える者として生きる。一人ひとりの幸せが最優先な社会にあって「コイノニア」、交わりを造るために心血を注ぐ。このような生き方はすべてのキリスト者に求められている生き方だと思います。教会の奉仕者である司祭だけに限った話ではないのです。なぜなら、イエスさまご自身が仕える者であり、交わりを生きる者だったからです。教会が「ディアコニア」の教会、「コイノニア」の教会になろうとした時に、シノダリティの教会の第一歩が始まるのです。それは、教会にとっての新しいミニストリーでもあります。
ミニストリーは「ミニ」、小さいという単語と響きが似ています。教会は世界に対して君臨するのではなく、「小さきもの」として身をかがめ寄り添うのです。教会に集うすべてのキリスト信者は「小さきもの」としてこの世に仕えることで、交わりを造りあげていくのです。あるいは、すでにある交わりの輪に加えてもらえるのです。司祭も同様でしょう。司祭の「小ささ」は、「ディアコニア」と「コイノニア」のためにあるのです。この「小ささ」の模範は告げられる神の言葉そのものであり、配られるご聖体そのものなのです。
3年間におよんだシノドスは終わりを告げました。この世の関心は教会の変革です。女性助祭のこと、性的マイノリティーのことなどが取り沙汰されて話題になるでしょう。しかし、洗礼によって神の民とさせていただいたキリスト信者がミニストリーを神から託されているという事実に関心を向ける人は少ないでしょう。司祭も信徒も、誰もがミニストリーを生きるようにと呼ばれているのです。こうして、神の国の福音は多くの人々に伝わっていきます。これが宣教なのだと思います。
CTIC カトリック東京国際センター通信 第283号
GFGCチャリティーコンサート
東京教区内のフィリピン人信徒の連合体であるGFGC(Gathering of Filipino Groups and Communities)によるチャリティーコンサートが10月19日に目黒教会で行われました。コンサートでは、各教会からの14のコーラスグループが、ロザリオの月である10月にちなんで、様々なマリア様の歌を披露しました。会場となった聖堂は満員で、大きな喝采につつまれました。出演教会の葛西教会と五井教会の主任神父様も来場してくださり、それぞれの教会のメンバーの励みになりました。
コンサートに際して寄せられた献金は180万円以上となりました。開催のための経費60万円を引いた残りは、フィリピン人信徒も多く所属している清瀬教会と八王子教会の建物の建設・修繕のために各50万円ずつ、台風で大きな被害を受けたフィリピンのビコール地方の被災者たちへの連帯のしるしとして20万円を寄付することができました。 (エルリン・レゴンドン CTICスタッフ)
◆ ● ◆
私の所属する潮見教会のメンバーは10年以上続くGFGCコンサートに、ずっとさまざまな形で協力してきましたが、今回は初めて自分たちがステージに立つ側となり、Abe Ginoong Maria(アヴェ・マリアの祈り)を歌いました。この話を頂いた時、教会のフィリピン人メンバーは全員「私たちが出演するなんて無理!」と言いました。月に1回、主日のミサの中で英語とタガログ語の歌を皆で歌ってはいますが、潮見教会に特定のコーラスグループや日ごろから練習を重ねている聖歌隊が存在していないからです。それでも話し合いを重ねる中で、教会のため、チャリティーの目的のためには、「自分たちにはできない」という殻を打ち破って、外に出て行かなければならないのではないかと考えるようになりました。それは大きなチャレンジでした。
専門的な指導者のいない私たちは、ユーチューブで歌を何度も聞いて歌に慣れることから始めました。私たちが苦労していると、教会でオルガン奉仕をしている日本人の女性が、「お手伝いしましょうか」と手を差し伸べてくれました。彼女は楽譜を作り、忙しい時間を割いて私たちの練習に付き合ってくれました。そして、当日も伴奏を行ってくれたのです。
こうして15人のフィリピン人と2人の日本人からなる「潮見教会共同体」は、教会の青年が潮見教会の建物をデザインしてくれたおそろいのTシャツを着て、皆さんの前で「Abe Ginoong Maria」を披露することができました。私たちの順番になった時にはとても緊張しましたが、皆が歌っている声を聞いた時には、感動を押さえることができないほどでした。小さなことかもしれませんが、私たち共同体に、大きな達成感と実りをもたらしてくれました。このような機会がこれからも、私たちの小教区共同体にとっても大きな実りをもたらしてくれることを希望しています。 (奥山マリア・ルイサ CTICスタッフ)
カリタスの家だより 連載 第168回
二つの部屋
時々東京カリタスの家の活動について混乱された方からのお問い合わせをいただくことがあります。これまでの説明不足をお詫びして、カリタスの家の中でも完全にボランティアによって成り立つ二つの部屋について説明させていただきます。
半世紀以上前になりますが、東京カリタスの家のそもそもの始まりは「家族福祉相談室」でした。悩む方の相談相手となり寄り添う中で、その方の人生がより良い方向を向くお手伝いをするのが目的でした。東京カリタスの家創設の1969年は、カトリックの歴史を塗り替える第二バチカン公会議の熱気が冷めやらぬ頃でした。公会議のテーマの一つである「信徒同士の対話」や「他宗教との対話」という理想がこの創設を後押ししていたかもしれません。カリタスの家創設の中心となった人々が、教会の枠に閉じこもることなく、ボランティアも相談者もあらゆる人々に開かれるものを目指したのは、こうした時代の空気と無縁ではなかったでしょう。
1972年には「家族福祉相談室」の中に「ボランティアビューロー」が設けられました。広くボランティアを募ってカリタスの家に登録してもらい、必要な学びの場を作り出し、相談者の悩みを傾聴する人を育てるセクションです。ボランティアビューローも家族福祉相談室の運営を担当するスタッフボランティアが担いました。各界から講師を招き、ボランティアに興味のある人々に学んでもらう「ボランティア養成講座」を毎年開きました。精神医学、臨床心理学、社会学、社会福祉、児童心理をはじめ、自助サークル、フェミニズム、高齢化社会の問題まで網羅するこの講座から多くのボランティアが生まれ、中にはスタッフボランティアとしてカリタスの家の運営に関わる人材も育ちました。カトリック信者ばかりでなく、プロテスタント、仏教、無信仰の人とバラエティに富んだボランティアがカリタスの家に集まりました。
見返りを期待しない利他の行い、強制されない自由な意思、他者との協働や連帯というキリスト教精神のもとに集うボランティアは増え続けました。2012年に公益財団法人となったこともあり、中心で働くスタッフボランティアの負担も増してきました。電話での相談受付に始まり、相談に見える方との面談、新しく登録するボランティアに向けたオリエンテーション、支援の方法と担当ボランティアを決める毎週の受理会議、ボランティア養成講座の運営、ボランティアの交流と学習の会の開催、小教区を訪ねてカリタスの家への協力を願う教会キャラバン、バザーやオールカリタスの親睦会などなど、熱意だけでは担いきれない活動量となりました。
10数年前、当時の常務理事であった小宇佐敬二神父は、家族福祉相談室の負担を軽くして本来の相談活動に集中できるよう、ボランティアビューローを独立させて専任のスタッフボランティアを配することにしました。こうして現在の「ボランティア開発養成室」が生まれたのです。以後、ボランティア養成講座を始め、ボランティアの呼びかけと養成、学習、親睦に関する活動はこの新しい部屋が担うことになりました。当初は一人のスタッフボランティアで始めたボランティア開発養成室の活動も、現在では五人のスタッフで運営され、着々と成果を上げています。
今日では、東京カリタスの家ボランティア部門の二つの部屋である「家族福祉相談室」と「ボランティア開発養成室」はコミュニケーションも密に連携し、それぞれの活動を繰り広げています。従って、ご相談は家族福祉相談室が、ボランティアに関してはボランティア開発養成室が担当いたします。とは言え、カリタスの家の電話受付の窓口は一つです。熱心に電話を取ってくれるボランティアがどちらの部屋への電話にも対応いたしますので、よろしくお願い申し上げます。
ボランティア開発養成室 酒井 育子
福島の地からカリタス南相馬 第37回
カトリック原町教会信徒 小林 和江
カリタスいこいカフェ 一人を思う心の大切さを再び結び直せたらと
原町教会、カリタス南相馬、さゆり幼稚園は同じ敷地内にあり、大震災以降、お互いに助け合ってきました。そのさゆり幼稚園が来春、子ども園となって移転することになり、ただただ寂しさが募りました。私は35年間さゆり幼稚園の教諭としてお世話になり、そして信徒としてこの13年間は教会を守ることに使命感を感じてきました。幼稚園が移転すると聞き、35年間、近隣の方々にはいつでも温かく見守り、助けていただいたことを思い出しました。また、時々お隣から「カリタス南相馬とは何をするところなの?」と聞かれてもいました。確かに震災後の支援は教会のごく近くの方々には直接届いていなかったと思います。
そんな時、自分は80歳を過ぎて「何ができるのか」を考えました。原町教会の高野郁子会長に相談したところ、私の思いをしっかり受けとめてくださり、「カリタスいこいカフェ」を始めることになりました。会長はカリキュラム作成にも携わってくださり、近隣の方をお誘いするため一緒に一軒一軒まわってくださいました。カリタス南相馬代表理事の幸田和生司教様や所長の根本摩利さんも「カリタスでやっていきましょう」と温かく受け入れてくださいました。
そして「カリタスいこいカフェ」は5月から始まったのです。最初は、皆さん来てくださるのかとても心配でした。参加してくださる方々は、90代3人、70代1人、60代1人の5人です。運営スタッフは6人です。活動は、季節の歌や昔の歌(童謡)を根本さんのピアノ伴奏でお茶を飲みながら口ずさんだり、墨絵への顔彩での色付け、うちわ作り、パステルアートなどの手仕事をしたりするのが主です。なるべく長く続くことを期待しながら、参加している方の好きな物つくりなどを準備中です。
参加者はカリタス南相馬が行っていることを理解してくださるようになりました。皆さん高齢者なので、〇月〇日とお伝えしても忘れていたり、当日身体の調子が悪くなったりのいこいカフェですが、皆さん楽しみにして待っていてくださいます。
カリタス東京通信 第19回
横須賀軍港と神奈川の基地巡り
カトリック東京正義と平和の会 本橋 英子
9月23日(月)・24日(火)、残暑厳しい中での参加者23名はマイクロバスでの移動に大いに助けられた。初日は深浦ボートパークで平和船団に乗船し、湾内に停泊中の艦隊や、ゆっくり進む巨大な「いずも」護衛艦などを間近に見ることができた。敷地の隣は米軍基地という三笠教会に移動、昼食をとる。その後、横須賀市内の見晴らしのよい公園で、湾岸に係留する軍事色の艦隊群を眺めた光景は壮観だった。渡された資料によれば、米軍の横須賀母港は軍事的には「前進配備」と呼ばれる形態で、原子力空母の海外母港は横須賀だけだという。その理由として、①「潜在的脅威に近い」②太平洋を渡る時間が不要③日本政府の経済支援(米軍駐留費の74・5%は日本政府が支出。基地で働く人沖縄8557人、神奈川9084人)④横須賀の艦船修理能力の高さによる。ということだ。
17歳の頃から横須賀港の観察をしていたという案内の講師木元さんは、今も毎日交代で艦隊の移動を監視し記録している。
翌日はランドマークタワー展望台に寄り、横浜市にある米軍の港湾施設ノースドックを見学し、厚木基地へ。そこは青々とした芝生の広がる広大な公園のような場所。網状のフェンスで囲われた基地外側から、米軍機の離着陸の様子を見た。最後に相模原駅近くにあるビル屋上から広大な敷地を擁する米軍の相模原補給廠を見渡した。日本人は60人位の人が働き、その働く建物にしか出入りできないという。実は、この場所も木元さんの監視の対象だ。木元さんらの調査資料の提供は、多くの市民活動の地道な作業の賜物で、静かな抵抗の力に頭が下がり勇気も湧いてくる。
日米共同の軍事訓練強化や米軍への思いやり軍備費も苦々しく思うが、このような、いつでも戦争ができる態勢は、米国に都合の良い占領下にあるといってもいいような日本の姿である。日本が世界の紛争や戦争にそれとなく巻き込まれ加担していく過程も透けてくる。
日本のカトリック教会は戦前・戦中の戦争への協力を痛切に反省し、戦後50年を機に1995年に『平和への決意』を発表している。
日本国憲法の前文には、イエス・キリストの教えに通じる福音的な要素がある。イエスの福音は「戦争をしない(汝人を殺すなかれ)。隣人を愛する。敵を敵としてではなく、同じ人間として大切に思う」は、聖書全体に貫かれている。日本は憲法9条により戦後78年間、曲がりなりにも戦争をしていない。世界に誇れる平和憲法が、今、雲行きがあやしくなっている。わたしたちキリスト者は、日本国憲法の理念、理想をしっかり守り、そして多くの人に伝えていかなければならない。
編集後記
今年もクリスマスがやって来る
いつもと同じクリスマスだろうか
特別なクリスマスだろうか
幸せいっぱいのクリスマスだろうか
寂しさに耐えるクリスマスだろうか
誰の心にも幼子イエスはお生まれになる
今ある光を絶やさないために
闇には光を灯すために(Y)