お知らせ

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東京教区ニュース第414号

2024年07月05日

アンドレア司教 大島へ!

アンドレア・レンボ補佐司教は、5月25日から26日にかけて、月に1度のミサが行われる第4日曜日に合わせて大島教会を司牧訪問した。アンドレア司教が大島を訪れるのは今回が初めて。

アンドレア司教は25日の日中と26日の朝、1986年の三原山大噴火の溶岩流跡、2013年の台風26号による土砂災害被害者慰霊碑や、事故で亡くなったボーイスカウト慰霊碑等を訪問。慰霊碑の前では犠牲者の方々のために追悼の祈りを捧げた。

ボーイスカウト慰霊碑に祈りを捧げる

26日のミサには、大島在移住信徒とご家族に加え、帰省中の大島出身信徒の方も参加。大島教会のミサとしては大人数の10人ほどが参加するミサとなった。ミサの説教でアンドレア司教は「司教になってから、『神様はなぜわたしのことを司教として選んだのだろう』と感じることがある。これは誘惑だと思う。しかし、各教会を訪問する時、そのために神様が私を選んでくださったのだと思う。今日も司教になったからこそ、ここ、大島教会で皆様と出会うことができた。心から神様に感謝します」と、出会いの喜びと神への感謝を述べた。

また、温泉地である大島にちなんで「人生には難しいことや苦しいことにも直面しなければならないけれど、神様の下に戻ってくると温泉のような神様がわたしたちの心を温めてくださる。神様はわたしたちの心の温泉です」と、神の愛について説いた。

さらに説教の終わりにはズケット(司教帽)を手に取り、「この赤い帽子は軽く見えるでしょう?でも、これを被ると教区全体の重さが感じられるようになる。だから、大司教とわたしのため、そして全ての司祭のために毎日祈ってください」と、司教と司祭のための祈りを願った。 ミサの後は全員で信徒宅へ移動し、昼食会が開かれ、信徒の方々が持ち寄った料理を味わいながら、話に花が咲いた。昼食会が終わって港へ向かうアンドレア司教は「これも信仰の交わりです。教会が集めた人の交わりは、場所がどこであっても信仰の交わりです」と感慨深げに語った。

ズケットで司教職の重さを語るアンドレア司教

ジュリアの十字架の下で

紙テープでお見送り

ケルン教区ドミニクス・シュワダーラップ補佐司教来訪

6月10日午後、東京・ケルン両教区の姉妹教会関係70周年を記念して来日中の、ケルン教区のドミニクス・シュワダーラップ補佐司教が、ケルン教区のスタッフと共に東京教区事務局を訪問してくださいました。

右から、ケルン教区国際宣教責任者ナディム・アマンさん、シュワダーラップ司教、菊地大司教、アンドレア補佐司教、東京教区ドイツ語共同体担当司祭ミルコ・クィント神父、国際宣教部門アシスタントのハイケ・ディッケンブロックさん。

能登半島の今 -何よりも祈りによる支援者に-

今年1月1日16時10分に能登半島地震が発生してから半年を迎える。発災当初はメディアの報道も多かったが、最近はその数も減ってきた。 東京教区ニュースでは、2月上旬から能登半島での支援活動を続けている元田勝哉神父(フランシスコ会 聖アントニオ修道院)にインタビューを行い、能登半島の現状と東京教区に住む我々ができることについてお話を伺った。

─いつから能登半島の支援活動を行っていますか?
元田神父 2月9日に能登入りし、5月12日まで滞在していました。現在は月に1週間ほど、毎月1日の祈りの日を中心に滞在しています。

─現地はどのような状況ですか?
元田神父 地域によって全く違います。北に行くほど被災状況が酷いです。能登には南から順に金沢、羽咋、七尾、輪島と4つのカトリック教会があるのですが、七尾と輪島は専門業者でなければ対応できない状態です。輪島教会には立ち入り禁止の赤札が貼られています。

─どのような活動をなさいましたか?
元田神父 大きく分けて3つあります。1つ目は名古屋教区が立ち上げたカリタスのとサポートセンター(通称:のとセン)が七尾の聖母幼稚園前で行っている「じんのび食堂」です。「じんのび」とは能登の方言で、ゆっくり、のんびりという意味です。元々は毎週日曜に食事を提供していましたが、5月からはカフェになっています。飲食物を提供することではなく、地震によって無くなってしまったコミュニケーションができる場所を作ることが目的です。

2つ目は断水している地域への水支援です。社会福祉協議会(社協)でも水支援は行っていますが、基本的には取りに来られる人が対象なので、のとセンではもっと困っている人への支援を中心に行っています。具体的には軽トラックに300リットルタンクいっぱいの生活用水と、2リットルペットボトルの飲料水を積めるだけ積んで、断水が続いている地域に運びます。最近は、生活用水に関しては復旧工事で改善してきたので、飲料水支援が中心になってきました。

3つ目はガレキと災害廃棄物の撤去です。主にボランティアの人が集めたガレキや廃棄物をトラックに積んで、集積場に運びます。集積場ではさらに廃棄物の種類ごとに分別しなければならないので、現場の段階で種類ごとに分別して積み込むと後の仕事が楽になります。

─どのような方がボランティアをしているのですか? 
元田神父 まずは「県ボラ」という石川県が募集しているものがあります。金沢から七尾まで高速バスで移動する日帰りボランティアです。事前登録制ということもあり、金沢近郊に住んでいる人でないと参加は難しいと思います。

もう1つは「運転ボラ」といって、トラックを運転するボランティアです。これは七尾市在住の人に限られているのですが、のとセンがじんのび食堂を運営しているご縁で、のとセンのボランティアは運転ボラに参加することもできます。

─復興支援活動を通じて感じたことはありますか?
元田神父 地域に元々あった格差が如実に出ていると感じました。メディアでは立派な日本家屋が倒壊している様子ばかりが報道されていましたが、決して裕福ではない地域の方が復興から取り残されています。そのような地域が注目されないのは、そこには分かりやすく劇的なドラマは無いからです。さらに、取り残されている人ほど我慢することが身についています。わたしは、「より分かりにくいところに、一番困っている人のところに行く」ことを心がけて活動を続けています。

そして、わたしを快く送り出してくれるアントニオ修道院の兄弟たちにも心から感謝しています。わたしが能登に行っている間は、他の兄弟がミサ当番等のわたしの仕事を肩代わりしてくれています。兄弟たちが支えてくれているから、わたしは能登に行くことができるのです。その意味では、修道院全体で能登を支援していると言えるかもしれませんね。

─東京教区に住む我々ができることはありますか?
元田神父 今はまだ現地に行くことは難しいので、祈りと献金が一番だと思います。そもそも、キリスト者であるならば本当の奉仕は祈りから始めなければ意味がありません。献金も同じです。献金箱にお金を入れる時は、祈りの内にはっきりとした意向をこめて献金をすべきです。そうでなければただの募金と同じです。献金とはただお金をあげることではなく祈りの表現の1つなのですから。どんなに力が無い人でも祈ることはできます。現地で支援している人を祈りで支援することはできます。皆様にはキリスト者として、祈りによる支援者になってほしいと思います。

赤札が貼られた輪島教会

生活用水支援。トラックの荷台にあるのが300リットルタンク

訃 報 使徒ヨハネ 小宇佐 敬二 神父

使徒ヨハネ 小宇佐 敬二 神父が2024年5月20日(月)午前3時00分、食道癌のため社会福祉法人聖ヨハネ会桜町病院にて帰天されました。享年76歳でした。どうぞお祈りください。

葬儀ミサ・告別式は5月23日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、菊地功大司教の司式で執り行われました。

納骨式は、7月6日(土)午前11時より、カトリック府中墓地内東京教区司祭の墓前にて、菊地大司教の司式によって、パドアのアントニオ 泉 富士男神父(2024年2月13日帰天)と使徒ヨハネ 澤田 和夫神父(2024年4月11日帰天)の納骨式と合同で行われます。

※納骨式前の追悼ミサはありません。

【略歴】

1948年3月20日      宮崎県都城市に生まれる。
1961年3月21日      日向学院(宮崎市)にて受洗。
1981年2月11日      司祭叙階(東京カテドラルにて)
1981年4月~1985年4月   立川教会助任
1985年4月~1992年3月   多摩教会主任
1992年4月~2000年3月   東京カトリック神学院養成者
2000年4月~2003年4月  徳田教会主任
2003年4月~       東京教区本部事務局「心のケア」担当
2004年6月~2012年3月   (財団法人)東京カリタスの家 常務理事
2012年4月~        (公益財団法人)東京カリタスの家 常務理事
2024年5月20日      帰天

「霊における会話」について その3 「ともに考え、決断する」ために

教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭
小西 広志神父

「霊における会話」について教区ニュースの紙面で2回にわたってお話ししてきました。1回目は、真ん中におられる主イエス・キリストのおかげで「霊における会話」を通じて人の集いである共同体が生まれるとお伝えしました。2回目は、その共同体が「ともに担う」共同体であることに注目しました。3回目の今月は「霊における会話」を用いて、「ともに考え、決断する」ことが可能となることについて少しお話ししましょう。

 ところで、毎年、初夏の頃に聖マチア(マティア)使徒の祝日(5月14日)を迎えると思い巡らすことがあります。それは、「なぜ、使徒たちはくじ引きでマチアを選んだのだろう」、「なぜ、使徒たちは聖霊降臨まで待てなかったのだろう」という疑問です。『使徒言行録』には次のようにあります。「二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった」(使1章26節)

ユダの裏切りは使徒たちにとってはスキャンダルだったのでしょう。仲間が1人欠けた彼らは、イスラエルの12部族を象徴する12人にこだわったのかもしれません。彼らは使徒を新たに選ぶにあたり「いつも一緒にいた者」(22節)という基準を設定しました。そして、その使命は「主の復活の証人」(同)になることでした。結果、バルサバと呼ばれたヨセフ、そしてマティアが候補者にあげられて、くじ引きでマティアが選ばれたのです。くじを引くことは神のみ旨を知るためになされるもので、聖書には時々登場します。しかし、マティアの選出が、くじ引きがなされた最後だったのは興味深いです。それ以降、くじ引きの記述は新約聖書には見当たりません。 

マティアの選出のすぐ後に、聖霊降臨の出来事が続きます。聖霊降臨は使徒たちに新たな決断の方法を教えたのかもしれません。それは、よく祈って、意見を交換して、ともに決断するという方法です。そのよい例がエルサレムでの使徒会議でした(使15章参照)。この会議についての聖書からの引用は、ここ10年ぐらい教会の「シノドス性」を考える際によく使われています。確かに教会はその始まりの頃から、ともに祈って、ともに考え、ともに決断する方式を採用してきたのです。

「霊における会話」では、一人ひとりが祈ったことを分かち合います。洗礼を受けてキリスト者とされた人には聖霊の恵みがあふれています。「信仰のセンス」があります。ですから、一人ひとりの祈りは尊いものです。高級な祈りや低級な祈りなどあり得ません。祈りのすべては聖霊の働きを通じてなされた神のわざです。それを「霊における会話」で兄弟姉妹に明け渡すのです。祈りに耳を傾けた結果、他の人のこころにある聖霊が響き合います。こうして、「霊における会話」は聖霊の息吹のなかでなされるのです。 

聖霊は教会を導きます。聖霊は信者の一人ひとりを導きます。「思いのままに吹く」(ヨハ3章8節)風である聖霊に共同体が身を委ねたときに、聖霊に共同体の一人ひとりが「明け渡した」ときに、新たな解決の方向性が示唆されます。これが「霊における会話」の終着点です。こうして、会話に参加していた人々はお互いに強い結びつきを感じるでしょう。「わたしたち」という意識を持てるようになるでしょう。 

昨年のシノドス(世界代表司教会議)第16回通常総会第1会期に参加された菊地大司教さまが、「霊における会話」での体験を「霊における会話をしたおかげで、会話の前の自分の考えと会話の後の自分の考えが大きく変わった経験をした」とお話くださったのは印象深かったです。「霊における会話」はわたしたちを自由にし、新たな決断、新たな歩みへといざなってくれるのです。 

くじ引きをした使徒たちは、「くじ」というしるししか思いつかなかったのでしょう。また聖書の原文をよく読むと、ユダはどうやら「くじ」によって奉仕の任務に就いていたことがうかがえます(使1章17節参照 新共同訳聖書では未訳)ので、同じようにくじ引きでマティアを選んだのかもしれません。一読すると使徒たちの思惑による選出のようですが、彼らは「この奉仕と使徒の職務を継がせるためです」(25節 フランシスコ会訳)と祈っています。祈りを通じて自分たちに課せられた二つの使命、すなわち人々に仕えること、そして、復活した主イエス・キリストの代理者としてあり続けることに気づいたのだと思います。聖霊は人間の想いをはるかに超えて、しかも、人間に行くべき道、使命を与えてくださるのです。

第68回 カトリック美術展開催

作品に見入る菊地大司教

5月17日から5月22日までの6日間、有楽町マリオン11階の朝日ギャラリーにて「第68回カトリック美術展」が開催され、5月23日にはカトリック美術協会会長を務める菊地功大司教も昨年、一昨年に続いて開場を訪れ、在廊中の作者たちから直に解説を受けながら、作品を鑑賞した。

49点の出展作品は、油彩画だけではなく、水彩画、日本画、フレスコ画、鉛筆画、ペン画、版画、刺繍、写真、木彫、ガラスモザイクなど、多彩なジャンルに渡っている。いずれの作品も、作者の信仰の表れであり、祈りそのものであると言えよう。

同展を主催するカトリック美術協会は、1930年、ヘルマン・ホイヴェルス神父(イエズス会)の指導の下、「カトリック信仰生活の造形的表現を目的とした宗教美術の団体」として創立された。カトリック美術展も1931年に第1回が開催され、1970年代には一時活動を中止していたものの、今年で68回を数える伝統ある展覧会である。

カトリック美術展は毎年同時期に開催予定。是非、芸術によって神を賛美し、信仰を表現する作品を鑑賞していただきたい。

「聖家族」作:アルベルト・カンペンティール。2020年に帰天したカンペンティール神父は多くの教会のステンドグラスを製作した

「ヨハネ福音書より2 カナの婚宴」 作:原田陽子。福音書の場面を描いた銅版画

「聖母子」 作:大野訓子 カトリック美術協会事務局長の大野氏は、毎年聖母子画を出展している

2023年決算報告

2023年決算は、東京教区ニュース第414号(紙面版)にて報告しております。各小教区に配布しておりますので、そちらをご覧ください。

東京韓人教会堅信式

菊地大司教へ感謝の花束の贈呈

6月16日正午より、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、菊地功大司教司式、高贊根(コ チャングン)神父(韓人教会主任司祭)共同司式による東京韓人教会の堅信式が行われ、満員の大聖堂の中で43人の信徒が堅信の秘跡を受けた。

菊地大司教は、関口教会と韓人教会の合同ミサや、韓人教会信徒も参加する教区のミサで司式をすることは何度もあったが、韓人教会単独のミサで司式をするのは今回が初めて。菊地大司教は韓国語を話すことができないため、ミサは大司教が日本語を、高神父と韓人教会信徒は主に韓国語を用いて捧げられた。

韓国は日本以上に少子化が進んでいると言われているが、大聖堂には若者や子どもの姿が大勢見られ、喜びと活気に満ちあふれるミサであった。

私たちは、西洋の教会には関心を持っていても、最も近い隣人である韓国のカトリック教会のことを知らなすぎるのではないだろうか。豊かで活気ある祈りや歌声に触れることには大きな価値があるのではないだろうか。東京韓人教会のミサは毎日曜日正午からカテドラル聖マリア大聖堂で行われている。関心のある方は是非一度足を運んでいただきたい。

東京韓人教会について

東京韓人教会という共同体があることは知っていても、その成り立ちや活動内容について詳しく知っている方は少ないと思われる。そこで、韓人教会信徒の方に共同体の自己紹介を執筆していただいた。皆様が韓人教会を身近に感じる一助となれば幸いである。

韓国人初の司祭、聖アンドレア金大建

 1985年1月、フランシスカンチャペルセンター(FCC)と麴町教会で韓国人共同体のミサが捧げられ始め、8月にはFCCに統合されました。1990年4月3日には東京カテドラルの構内に移転し、4月29日に初ミサが捧げられ、今日に至ります。現在の主任司祭はルカ・高 贊根(コ チャングン)神父で、現在、信徒数は約900人、主日ミサには約400人が参列しています。

直近の入信者数を見ると、2023年に25人、2024年前期には15人が洗礼を受けました。現在の洗礼志願者は15人で、12月の洗礼式に備えて入門講座を受けています。2023年5月28日に行われた東京教区合同堅信式では50人が、2024年6月16日には菊地功大司教司式のミサで、43人が堅信を受けました。 東京韓人教会は新宿1、新宿2、新宿3、新宿4そして渋谷、豊島、台東、江東、中野、江戸川、品川、練馬、港など、計13の区域で構成されています。

主日ミサは毎週日曜日の12時、平日ミサは毎週火曜日19時と、水・木・金曜日の10時30分に行われています。毎月第1木曜日のミサの後には、聖時間を設けています。聖時間はキリストの聖心に贖罪と犠牲と慰労の心を捧げる聖体礼拝の時間で、私たちが神様にもう少し近づくことができる黙想の時間です。

東京韓人教会の主な行事である 「本堂の日」と「聖母の夜」の行事をご紹介します。「本堂の日」は、本堂の守護聖人である聖アンドレア金大建(キム デゴン)司祭の祝日である7月5日を記念し、毎年、東京カトリック神学院に多くの信徒が集まってミサを捧げ、運動会を開いて信徒同士の親睦を図る意味深い時間を持っています。

本堂の日

「聖母の夜」は、聖母聖月である5月の第4週(土)18時、ルルドの聖母像の前で聖母にバラの花を献げ、恵まれない人々のためにお米を奉納し、ロザリオの祈りを捧げ、聖母を称える行事です。カテドラルの屋根が赤い夕焼けに染まっていく頃、私たちが聖母に捧げるロザリオの祈りの音が空に響き渡り、感動がこみ上げてきます。

東京韓人教会の教会学校と青年会をご紹介します。教会学校の子ども達は約65人で、毎月第1主日の10時30分に子どもミサを捧げています。学年別に毎週教理の勉強をしており、5月の子どもの日の行事と学期別の野外行事、そして夏休みの信仰学校では1泊2日で野外行事に出かけ、友達と楽しい思い出の時間を過ごします。 青年会は約30人の青年信徒で構成され、毎月第2主日の15時30分にミサを捧げています。青年部の団体には、バンド部のユビラテ、レジオ象牙塔、典礼部の火種があります。青年会の主な行事は一日カフェ、サマーキャンプ、難民センターでのボランティア活動、そして秋には1泊2日で黙想会に出かけ、青年たちだけの親交の時間を持っています。

このような活気に満ちた青年たちの活動と主日学校の子ども達の明るい笑い声は東京韓人教会の心強い未来を見ているようです。

CTIC カトリック東京国際センター通信 第279号

千葉県フィリピン人の集い

カトリック教会の多い国から日本にやって来た信徒が、自分の言語で聖書の学びや礼拝に参加できることや、同国人とのつながりができやすいということで、母国由来のカトリック以外の教派やカルト的な団体の方へ移ってしまうということは以前から言われています。特に、カトリック教会の数が少なく、教会へ行くだけで片道1時間以上かかるのが珍しくない千葉県においては、手近なところにカトリックでない別の集まりがあればそちらに行くということがしばしば見られるようです。実はこれはコロナ以前から言われていたことでもありますが、コロナ禍でのミサの中止や参加の制限がさらに影響したようです。もちろん、どのような信仰の団体に参加するかは個人の選択の自由ですが、その選択の理由が「日本ではカトリック教会が自分たちを愛してくれない」と感じた結果だとすれば、担当部署として、その人たちにも母なる教会にも、申し訳なさを感じずにはいられません。

こうした背景もあり、まずはCTICが最もつながっているフィリピンの方たちからということで、千葉県におけるフィリピン人信徒の方々の声に耳を傾け、現状をより把握し、CTICとして何ができるかを考える機会として、「サマ(共に)サンバ(祈る)サ チバ(千葉で)」と銘打って千葉県におけるフィリピン人信者の集いを、西千葉教会をお借りして6月1日に行いました。当日は70人余りが参加しアンドレア・レンボ補佐司教様司式のミサに始まり、昼食をはさんでそれぞれの地域ごとの現状や感じている必要な助けの分かち合いを活発に行いました。

途中、成田教会の若者たちのグループがダンスのパフォーマンスで会場を盛り上げてくれました。フィリピン人の集まりにおける若者といえば、日本で生まれ育ち、日本語を第一言語とする第二、第三世代の子たちを思い浮かべますが、今や、来日して長くて数年の技能実習生や留学生の方々のほうが多くなっており、そのような所にも状況の変化を痛感しました。

参加者から出てきた声としては、自分たちが所属する小教区に、よりコミットするためにも、英語など自分たちが理解できる言葉での説教やゆるしの秘跡、勉強会といった霊的支えを受ける機会が、それぞれの場で増えてほしいというものが目立ちました。もちろん参加者も希望が簡単に実現するわけではないことは理解したうえで、少なくともそれを表明する機会を持てたことを喜んでくださったように思います。

今後、挙げられた内容を吟味し、CTICとして具体的に何ができるかを、各教会の神父様や教区と相談していきたいと思います。最後に場所を提供してくださった西千葉教会の皆様に感謝いたします。

CTIC所長 高木健次

カリタスの家だより 連載 第164回

小宇佐神父さまの残したもの

ボランティア開発養成室
酒井育子

2024年5月20日、小宇佐敬二神父さまが帰天なさいました。長い長い闘病生活でしたが、誰も神父さまが弱音を吐かれるのを聞いたことがありません。電動車椅子を自在に操り、お住いのペトロの家からカトリックセンター目指して「爆走する勇姿」が今も目に浮かびます。世紀の変わり目の数年後から東京カリタスの家の常務理事を務め、食道がんが見つかり、複数回の手術、抗がん剤や放射線による苦しい治療の中でも、毎週の家族福祉相談室の会議、聖書勉強会、カリタスの家ミサ、ボランティアの集い、OG会での懇談を欠かさず、個別の相談にも喜んで応じてくださいました。辛口のユーモアと深い知識に満ちた霊的助言は、いつも私たちの自由な活動を後押しするものでした。ホスピスに入院されてからはベッドから起き上がれなくとも穏やかに微笑み、声が出なくなってもお訪ねした相談者には祝福をしてくださるのでした。

東京カリタスの家は今、大きな手を失い深い悲しみに包まれています。残された私たちは、神父さまの残してくださった「み旨を実践するボランティア」を続けてまいります。今月の「カリタスの家だより」は、小宇佐神父さまの書き残されたものの中から、抜粋して皆さまと分かち合うことといたします。

「今」
小宇佐 敬二神父

父が七十近くなった頃、急に「小宇佐家の家系」についての話題が多くなり、「こだわり」と言ってもいいような執着心を見せ始めました。(中略)家紋のこと、先祖の名前、系図のことなど帰省するたびに話題になり、(中略)少し強い口調で言ってしまいました。「二十代先、三十代先くらいまではわかっても、どうせその先はわからなくなる。でもアダムとエワ、最初のホモ・サピエンス、そして原初のアメーバまでこのいのちが繋がっていることは確かだよ」。父は何か解き放たれたような表情を見せ「アハハ」とひと笑いして、それから一切この話題を口にしなくなりました。

「何処から来て何処へ行くのか」この由来と目的が「哲学の根本課題」と言われます。過去と未来を総合して初めて「今」が見えてくるからです。(中略)

由来を語るとき、血脈によるルーツを辿るのはわかりやすい視点になるのでしょう。(中略)聖書もこれを大切にします。旧約はユダヤ人のファミリーヒストリーの集大成とも言えます。ルカは「セト、アダム、そして神に至る」と、救いの歴史を神にまで遡ります。このような歴史を大切にしながら、「新しい神の民」はもう一つの「新しいヒストリー」を描いていこうとします。それは「血脈を超えた繋がり」です。家族を超え、部族を超え、民族を超え、人種を超え、さらに男女の性差を超え、あらゆる「隔ての壁」を超えて「十字架による和解」によって結ばれる「新しい人」の絆です。(中略)

過去と未来の境界線上にある「今」は常に歴史的転換点であり、それは「未来を選び取る時」です。(中略) 東京カリタスの家にとっての「今」は、その理念の上に蓄積された先人たちの活動の積み重ねを受け止めながら、それを未来につなげていくことです。その受け継いだエネルギーは、とてつもない目標である「神の愛の実践」です。助力を必要とする人に寄り添い、同じ思いを持つ仲間との絆に結ばれ、カリタスの絆の輪は縦に横にしっかりとつなげていくのです。

東京カリタスの家ニュース 2017年 145号より抜粋

*全文をお読みになりたい方は東京カリタスの家受付 (03-3943-1726)にご連絡ください。カリタスの家ニュースのバックナンバーを喜んでお分けします。

福島の地からカリタス南相馬 第33回

旭川医科大学 法医学講座
清水 惠子

祈りを込めて カリタス南相馬派遣のボランティアとして、国の重要無形民俗文化財、相馬野馬追の相馬小高神社お神輿行列に参加させていただきました。カリタス派遣の男性は、お神輿、太鼓や神旗等の担ぎ手、女性はご信心係。ご信心係とは、白装束に烏帽子という出で立ちで、お神輿行列の横を並歩し、「ご信心、ご信心の方」と謡います。すると沿道から、信心係の持つ竹籠の中に、小銭(稀に紙幣)が入ります。これは、神様へのご信心ですから、人間は“ありがとう”を言ってはなりません。お辞儀をして受け取り、行列内の賽銭箱へとお運びします。

昨年、初めて参加した際、相馬小高神社のご神体について、神主様にお伺いいたしました。「私、カトリックの幼児洗礼なものですから、神道の神様をよく知らず……こちらのご神体は、どなた様でいらっしゃいましょうか?」神主様はお答えになりました。「天之御中主大神(あめのなかぬしのおおかみ)といわれ、男でも女でもない、万物の根源的なお方です」そして続けて、「ご安心ください。神道は宗教ではございませんから、お祭りのお手伝いをしても、皆さまの信じる神様を裏切ることにはなりません。宗教の定義とは、教祖、教典、教義を持つことですが、神道は当てはまりません」確かに、私はとても安心しました。告解しなくても済みそう……そもそも、告解しなければならないようなボランティアを、カリタスが募集するはずがないのですが!!

2011年3月9日、灰の水曜日。その日の未明、関東大震災の年の秋に生まれた母が帰天いたしました。3月11日は、カトリック札幌北11条教会でのお通夜。午後2時46分、母の遺体を教会に運ぶ直前、実家の風鈴が鳴ります。「お母さん、戻ってきたのかな?」とつぶやくと、エンジニアの弟が「地震でしょ。シャンデリアが揺れているでしょ」。当時はスマホもなく、大地震を知ったのは、お通夜後、教会集会室のテレビでした。慌ててモバイルPCをネットに繋ぎ、日本法医学会公式メーリングリストを開いたところ、警察庁および被災3県警から被災地への検案医派遣要請が流れていました。母の遺骨を家庭祭壇に安置して、3月15日から1回1週間程度、6月末まで計3回、被災地派遣を命じられました。母親を病院で看取り、実家が残り、葬儀を出すことは、決して当たり前ではありませんでした。母の命日のごミサを依頼する度、大震災被災者のためのごミサも、依頼していきたいと心から思います。

カリタス東京通信 第16回

平和—正義が創り出すもの—

小山夏比古 (カトリック東京正義と平和の会・町田教会信徒)

今年もまた平和旬間が巡って来ます。広島への原爆投下から敗戦までの10日間、日本人は何を考え、どう行動したのでしょうか?あれから79年目の夏です。

私たち日本人が平和について考える時、その拠り所とするのは日本国憲法であり、キリスト者としては「平和を実現する人は幸いである」(マタイ5・9)というイエスの言葉です。

日本国憲法の前文はこう謳っています。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。」この前文で確認された「平和的生存権」が、まさに第9条の「戦争放棄」へとつながるのです。憲法の三本柱である、主権在民、基本的人権、平和主義のうち、先の二つはフランス人権宣言がその源流ですが、平和主義は日本の先の戦争に対する反省から生まれたものです。

また、第12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と規定しています。すなわち、「平和のうちに生存する権利」もまた「不断の努力」によって保持しなければならないのです。

第二次世界大戦後の歴代教皇は平和について多くのメッセージを残しています。第二バチカン公会議の「現代世界憲章」には、「平和は単に戦争がないことでもなければ、敵対する力の均衡を保持することでもなく、独裁的な支配から生じるものでもない。平和を『正義が作り出すもの』(イザヤ32・17)と定義することは正しく、適切である。(中略)平和は永久的に獲得されたものではなく、たえず建設されるべきものである。」と書かれています。また、教皇フラシスコは広島で、聖ヨハネ23世の言葉を引用し、「平和は、それが真理を基盤としていないなら、正義に従って築かれないなら、愛によって息づき完成されないなら、自由において形成されないのなら、単なる『発せられることば』に過ぎなくなる、わたしはそう確信しています」と語りかけました。そして私たちはミサの度に「平和のあいさつ」を交わすのです。

さて、日本政府は2015年「集団的自衛権」の行使を容認、その後ロシアによるウクライナ侵攻、「台湾有事」や「北朝鮮の脅威」を口実に、世界情勢が一触即発であるかのように国民を煽り、戦争放棄を決めた憲法を無視し、「敵基地攻撃能力」を持つ兵器を整備し、南西諸島に自衛隊基地の建設やミサイル配備など軍備を増強、戦争準備を進めています。

これらすべてのことに思いを巡らすとき、今この国で起きていることに対して、私たちキリストを信じる者が如何に考えどう行動すべきなのか、おのずと明らかなのではないでしょうか?

編集後記

人は誰でも、仲違いしたり、傷つけ合ったりする
だからこそ、仲直りもできるし、赦し合うこともできる

罪は罪のまま終わらない
罪からさえも恵みは生まれる

世の始め、闇の中から光は生まれた
十字架による死から復活の栄光が生まれた

その神秘は今も続いているのかもしれない
愛の光を信じ抜くことさえできるなら(Y)