お知らせ

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Tangible第14号

2023年08月03日

受講生の声

何があっても赦しあい、愛しあっていく

受講者 第5期生
麹町教会
丸山 富美子

◆誤訳の苦しみ

■「健全な精神は健全な肉体に宿る」
小学校低学年まで、病弱で入退院を繰り返していた私は、この格言に傷つけられていました。

「病人は、健全な心ではないの?」「そうなの?本当なの?」と、愛情深く育ててくれている父母に問うことすらできませんでした。問えば、父母が悲しむように思え、問えませんでした。

ある時「光」が射しました。この格言が「誤訳」であり、本当の意味を知った時でした。抱えていた苦しみと自己否定の闇はその「光」によって消えていきました。わたしは「光」によって「病も恵みである」ことと、「弱さ」や「傷」をとおして、真理の光で照らし導いてくださる方がいらっしゃることを知りました。

「誤訳」の苦しみから私は「本当の意味は何?原語はどういう意味?」と、問うことが習慣、性癖となりました。言葉の本当の意味、そして存在の本質を探求したいという思いは、真実の「光」に照らされて生きる道を知ることにつながりました。

■笑顔でつながっていく
小学校2年の時は隔離病棟の病室に入院を余儀なくされました。面会を許される状態になった時、小学校の担任でしたO先生が、本を持って病室を訪れてくださいました。その頃、カタカナを習得する時期だったのでしょう、私はカタカナを学校で学ぶ機会を逸したため、ずっと「ツ」と「シ」の書き方が自己流でした。「授業の遅れを心配しないように」と、満面の笑顔でO先生は、面会できたことを喜び、励ましてくださいました。

病気で取り残されたような気持ちの時に、訪問し励ましてくださったO先生のことは、その後、私の「病床訪問」活動の原動力となりました。

成人して、健康診断で癌の宣告を受けました。それが「誤診!」であったことが分かる日まで「もうすぐ死ぬのだ」という思いに捕らわれましたが、「私に何か残せるものがあるだろうか?」と自問自答し「『笑顔』の思い出を残したい」と思いました。「死」を目前に意識した時、人に対して「一期一会」の思いで、より優しくなれる自分がありました。

何も残せないかもしれないが「笑顔」で人とつながっていたい。そう思ったのは、O先生が感染をも恐れずに病床に足を運び、満面の「笑顔」で励ましてくださったことが、幼い私の心に刻まれていたからだと思います。その後、多くの人々との出会いの中にも、ひとりで生きていけない私に、神様が人を通して愛を伝えてくださり、生きる力を与えてくださることを実感しました。

◆赦されて生きる喜び
参加している「聖書講座」(ヨハネ小宇佐敬二神父様)では、イエス様の姿が目の前に生き生きと浮かび上がってくる体験をさせていただき、心を揺さぶられる感動をいただいています。人に伝えることは「感動こそ原点」ではないだろうか、との思いを新たにしています。

イエスの瞳に映る無条件で愛され、赦されている自分を見た「サマリアの女」のように、わたしもイエスの眼差し、その瞳の中に映った自分を知り幾度となく涙しました。

イエス様は、イエス様しかできない方法で「徹底的」にわたしたちと「対話」してくださいました。

「サマリアの女」は、イエスと出会い変えられ、井戸端に大切な水がめを置いたまま町に宣教に走り、「異邦人への福音宣教の初穂」となりました。赦されて生きている喜び、愛されていることを知る喜びを、人々に感動をもって伝え始めました。どんなに心が躍っていたことでしょう。

わたしも不完全なままであっても、罪人であっても、喜びをもって「神の国の完成」に向けて「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(マタイ10・27)の聖句のように、「伝えていきなさい」と、聖霊に促されていると感じています。

◆分かち合いの大切さ
「養成講座」では「分かち合いについて」学び、これはわたしたちの「今」に必要なことだと思いました。「聴き合う」「耳を傾ける」「傾聴する」ことが教会の中でもなかなかできていないということでした。

早速、「養成講座」で配布された「分かち合いとは」をダウンロードし、所属している「在世フランシスコ会」兄弟姉妹にも配布し、集会では「分かち合いとは」をまず読み合わせて集会を続けていきます。神の助けをいただき、しっかり続けていけば「成熟した信仰」へと、また「ご聖体を分かち合う」本当の分かち合いの共同体へと繋がっていくと思っています。兄弟姉妹にも事あるごとに「教区カテキスタ養成講座」を勧めています。

シノドスの歩みの中で、母なる教会からの発信も心に深く響いてきます。心を揺さぶられることが多々あります。「分かち合い」も含めて、時のしるしに敏感でありたいと願っています。

◆アウトプットする養成
「養成講座」の「模擬授業」は、今までの養成、つまりトップダウン方式でインプットされる養成とは真逆のやり方です。これは成熟した信仰を育てるために有効な養成方法であると思いました。

カテキズムの学びは「テキスト」があることがほとんどですが、この「養成講座」では受講生が自ら担当箇所を調べ、50分の「模擬授業」をします。この「アウトプット」する養成は、本当に素晴らしいシステムです。「『養成』の責任者はまず、第一に自分自身である。(在世フランシスコ会「会憲」より)」ということを痛感します。そして、受動態ではなく能動態で、調べ、感じ、話す体験は、何よりも自分自身の血肉となり三位一体の神への信頼は深まり、イエス様との深い対話の時ともなりました。「この養成講座を10年続けていけば教会は変わる」という担当司祭の言葉にも納得しました。

調べたり、読んだりする準備の作業の中で、先に書きました私の育ちの中で体験した「誤訳」や「誤診」、それらが無いようにと慎重になりました。「信仰を伝える、福音を伝える」それは、すでに神の働きで蒔かれている「福音」の種を、「相手を受け入れ、受け取る」刈り入れでもあるからです。「誤訳」や「誤診」があれば、せっかく神様が働いて蒔いてくださった「福音の種」を刈り取ることなく見過ごしてしまうでしょう。これはひとつの「責任」でもあることを受講して強く感じました。

このアウトプットする養成方法も、在世フランシスコ会の集会に取り入れました。被養成者が養成テキストを調べて来て皆に話し、その後、それについて皆で分かち合う方法です。目覚ましい成果を見ています。さらに広がっていくことを期待しています。

◆構築
「模擬授業」を構築する準備作業は、のめり込むような楽しい作業で、気が付くと時間を忘れて資料を読み、調べ、祈り、問いかけていました。いくら時間がかかっても飽きることがありません。旧約聖書と新約聖書の繋がる箇所を見いだした時には「これだ!」と心が躍りました。しかし、それは私が見つけたのではなく、主が見いださせてくださったことだと、わかりました。「インマヌエル、主はともにいてくださる」

2回目の模擬授業「イエスの生き方」(マルコ3・1~6)を担当した時、講評でT神父様が「構成が良かった。整理したら説教に使える」と仰った時は「伝える」喜びの一部を体験することができました。「主がさせてくださったこと」でした。

◆絶えざる回心のために
「養成講座」を受講するにあたって、求道者の頃、要理を学ばせていただいたフランシスコ会のカルロ庄司篤神父様に、弱く罪深い私の「絶えざる回心」のために毎月ミサをお願いしました。多くの人の祈りが必要であることがわかっていました。

昨年の「聖母被昇天の日」から毎月ミサを献じてくださって、まもなく1年。「養成講座」中の折々に、「ミサに支えられている自分」を感じ、イエス様の助け、聖霊の導きに感謝でいっぱいです。「主が学ばせてくださった」と、思っています。

友人たちもシスターも祈ってくださいました。尊いミサと多くの人の祈り、それは「中風の人」(マルコ2・1~12)を運んできた人々の「信仰」が、イエス様を動かし病気が癒されたように、共同体のひとりとしての私の「起き上がり」を支えてくれました。「人の力をあてにするより心から神に信頼しよう」と。

◆専門用語
「カトリック教会の教え」は、故ペトロ岡田武夫名誉大司教様がプレゼントしてくださった大切な一冊です。「カテキズム大好き!」で育ってきましたので、年月を重ねるうちに、専門用語や教会用語を用いることに慣れてしまったことを、大いに反省しました。

「養成講座」を受講して、教会の門を叩くみなさまが「難しくて分からない」、「せっかく一歩踏み出したのに言葉でつまずく」、「言葉で傷つく」ことがないように、専門用語や教会用語を使う時には「分かりやすく説明を加えて」というご示唆も担当司祭からいただき、「蒔かれた種を育てて刈り入れる」ための「心遣い」と「優しさ」、「暖かさ」が大いに必要だと痛感しました。

◆在世フランシスコ会のカテキスタYさん
高校はミッションスクールだったので、学校で「礼拝」が毎日あり、日曜日には学校から紹介されたプロテスタントの教会に弟と通い、洗礼を目前にしていた時に「靖国法案に反対するデモに信仰の証しとして参加しましょう」と、教会の青年会で呼びかけられました。戸惑いを感じ、よく考えた後に牧師に「デモ行進に参加するのが信仰の証しなら、私は洗礼を受けるのを止めたい」と話しに行き、洗礼を受けないことになりました。

その後、カトリックの大学を卒業し、再びプロテスタントの大学で学ぶことになりました。なんとカトリックの大学でではなく、プロテスタントの大学での恩師を通して「アシジの聖フランシスコ」と出会い、カトリック信者として生きる道が用意されていたのです。

福音に生きるように招かれ、現在は終生誓約から銀祝を過ぎ、神の国に奉仕するために私自身を奉献しています。「フランシスコを知れば知るほど、キリストが分かってくる」ことを、共に歩む兄弟姉妹の中で感じています。

生かされてきた道程にはイエス様との「足跡」が「二人三脚の時」、「イエス様に背負っていただいた一人分の時」、「ともに歩き語り合った二人分の時」と刻まれています。「養成講座」を振り返る時にも、それらの「足跡」を見つけることができました。

この「養成講座」で、励ましてくださる先輩、心配いただいた先輩、助言をくださる先輩、同期の仲間や、スタッフとの関わりがあったことは救いでした。共通体験を歩んだ者だからこその共感がありました。

かつて求道者の時から暖かく受け入れてくださり、生涯にわたって母のように接してくださった「カテキスタのジェンマさん」は、知識ではなく「信仰とお人柄と暖かさ」で神の愛を伝える人でした。私の在世フランシスコ会の終生誓約式の後、「いつかはカテキスタにも」と、名古屋のカテキスタ学院のお話、秋田の聖体奉仕会でシスターになられたカテキスタ仲間のお話などを聞かせてくださいました。

「ロザリオの祈り」を教えてくださいました。「御聖堂守り」をしていらしたので、教会に訪ねていけば、ジェンマさんの暖かなお人柄に包んでいただける時空があったので、信仰生活の大きな支えでした。在世フランシスコ会の修練長でもあったジェンマさんと出会わなければカテキスタへの招きを感じることもなかったと思います。

折に触れて「霊的花束」を捧げてくださり、いただくお手紙は、さりげない励ましとお心遣いに満ちていました。ジェンマさんは、わたしにカテキスタの道を示してくださった方でした。今は天国の応援団です。

◆講評してくださるカテキスタの入門講座見学へ
現在わたしたち受講生の模擬授業を講評してくださるカテキスタのO氏の「入門講座」を受講生仲間と見学させていただきました。「百聞は一見に如かず」でした。

わかっている人が話すとこうなるのだ!専門用語や教会用語を使わずに、このように伝えれば良いのだ!板書や配布資料も、人を迎える「ホスピタリティ」にも感嘆しました。「誤訳」や「誤診」の心配を、微塵も感じさせないお話でした。

「母なる教会の教え」の知識も必要ですが、何よりも伝える側が「腑に落ちて」いないと伝わらないことは明白でした。

「父なる神の愛」、「何があってもゆるし合い、何があっても愛し合う」心が浸透し、こだましますように。

わたしたちを、お使いになるのは神様ご自身です。「どうぞ主のみ心のままに」と、祈ります。

「父よ、あなたにゆだねます。父よ、わたしをゆだねます」

「更新プログラム」参加者の声

今までの自分を振り返りながら

カテキスタ 第2期生
チーム清瀬
赤堤教会 椿 望

◆「更新プログラム」とは?
私は2020年9月にカテキスタに任命され、2021年4月から入門講座の奉仕の任に就き、3年目を迎えております。

カテキスタとしての奉仕期間は3年間で、私の任期は2024年3月までです。更新を望む場合は、奉仕期間終了の1年前である2023年4月から半年間、「更新プログラム」を受講しなければなりません。

「更新プログラム」は月2回、土曜日の午後、開講されます。毎回2~3時間行われ、前半の1~2時間は講義、後半の1時間は分かち合いとなっています。

◆講義での学び~教会史、聖書解説、教会の現況
前半の講義では、明治期以降の日本の教会史、聖書解説、教会の現況に関する情報提供などが行われます。

教会史では、カトリック教会内部の出来事のみならず、背景となるその時代の世相・世情についての解説も行われ、教会と社会の繋がりを学ぶことができます。

聖書の解説では、召命、派遣他カテキスタとしての奉仕につながる箇所について解説が行われます。

教会の現況では、カトリック教会の組織体制などについて、海外の情勢も交えながら、数字を含む最新情報の提供が行われます。

常に新しい情報を仕入れ、知識のブラッシュアップを図ることは非常に重要なことです。公的資格の中にも、一定期間内に必要な研修を受けないと資格維持ができない、というものがあります。「更新プログラム」も同じと考えてよいでしょう。

◆ 即興での分かち合い
後半の分かち合いは、主にその日講義で取扱った内容を基にテーマが与えられ、そのテーマについて、3~4人の小グループに分かれて行います。

分かち合いでは、与えられたテーマについて、今自分が感じていることを、互いに、心をこめて聴き合います。参加者は肯定も否定もせず、解決も試みません。

テーマは、事前に示されませんので、分かち合いはすべて即興で行います。
事前にテーマを示した方が予め自分の考えをまとめ、より一層密度の濃い分かち合いが展開できる、と考える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、今ここで、ありのままの自分が感じていることを話すには、私はその場でテーマを示した方が効果的ではないかと思います。

また、即興で行うことで、思わぬ副次的効果が得られるのではないでしょうか。私は、予想もしない課題に対し、短時間に自分の考えをまとめる力を醸成できる、と考えます。

毎回小グループのメンバーは入れ替わり、「更新プログラム」を支えてくださるスタッフの方も加わります。日頃お話しする機会の少ないスタッフの方から、体験に基づく様々なお話をうかがうことは、カテキスタにとって貴重な糧となります。

◆ OFF-JTとしての「更新プログラム」
毎月開催されている「定例会」などのミーティングは、直面する課題を取り扱いながら、各自の技量アップに繋げていますのでOJT(On the Job Trainingの略 / 現場の実践を通じての研修)のような性格を有します。

これに対し、「更新プログラム」は、通常の奉仕を離れ、現在派遣されているチームとは異なるメンバーで受講しますので、OFF-JT(Off the Job Trainingの略 / 現場を離れての研修)のような性格を有します。

◆カテキスタとして更なる進化を目指して
私は「更新プログラム」を受講しながら、今までの自分はカテキスタとして満足のいく奉仕ができただろうか、ということを常に問いかけています。

カテキスタは入門講座でカトリックの教えをお話ししていますが、学ぶのは受講生の方だけではありません。カテキスタもシノドスに示された「共に歩む」という精神にならい、過去の奉仕に満足することなく、常に自分を振り返り、知識のブラッシュアップに努めるとともに、講座の進め方、作成レジュメの見直しなどを行っています。

私もこの奉仕を神から与えられた恵みと受け止め、これからもカテキスタとして更なる進化を遂げたいと思います。

更新プログラムまでを振り返って

カテキスタ 第2期生
チーム松戸
小岩教会 永井 裕子

2023年4月から始まった教区カテキスタ更新プログラムは、ほぼ半分を終えました。この文章では、更新プログラムまでの自分の歩みを振り返ってみたいと思います。

◆子どもたちの信仰教育のお手伝いから
受洗して数年後、2000年代の半ばにお声がけいただき、それ以来、所属小教区では教会学校に関わってきました。関わり始めた当初は、聖書のお話や初聖体準備講座など、教理的な内容については、在俗会の方や近隣の女子修道会のシスター、また上の世代の信徒で、幼稚園の先生をなさっていたといったバックグラウンドをお持ちの方々が担当してくださっていました。

10数年後に「教区カテキスタ養成講座に参加してみない?」と同じ小教区の友人に誘われ、受講を申し込んだ大きな理由の一つには、ずっと関わってきた教会学校のプログラムのヒントになるものが得られるのではないか、という思いがありました。

◆小教区の変化~集会祭儀、修道会の引っ越し、リーダーの世代交代
所属する小岩教会では、2014年5月から、司祭不在のときの主日の集会祭儀が、年に4回程度(最初は第5金曜日に、後に第5土曜日の晩に)、開催されるようになりました。主任司祭は会衆として参加なさっていました。

わたしが集会祭儀に参加したのはわずか数回で、教区カテキスタに任命されて、いろいろな学びを重ねている今は、もっと参加しておけばよかったと反省しています。集会祭儀の開催は、新型コロナウイルスによる感染症拡大直前の2020年1月まで続きました。

教会学校の状況はどうかというと、教会学校で奉仕してくださっていた修道会が、小岩の修道院を2013年の復活祭後に閉鎖、長らく奉仕されてきた在俗会の方や、わたしより上の世代の信徒のリーダーは、2010年代の半ばに引退されました。

在籍する子どもの数は、日本全体の傾向と同様、減少を続け、さまざまな年代の子どもたちの、生き生きとした交わりの場が、小さくなりつつあると実感されました。また、若い世代のリーダーも生まれない状況でした。

そのような中、少数であっても教会学校に来てくれる子どもたちには、教会でこそ学べるプログラムを提供したいと思いつつ、教理的な部分をどうしたらよいのだろう、というモヤモヤがありました。教区カテキスタ養成講座(以下「養成講座」)への誘いを受けたのは、ちょうどそのような時期でした。

◆養成講座を経て現場へ
養成講座は「旧約聖書概論」「新約聖書概論」「新約聖書/神論」「新約聖書/キリスト論」「新約聖書/聖霊論/三位一体論/教会論」「教会史・教会論」「秘跡論」「祈り」「典礼」「終末論・マリア論・聖人論」「信仰生活/信徒使徒職」「教会生活」といった分野で構成されています。一連のプログラムを修了し、2020年9月、菊地大司教様から認定・任命を受け、松戸教会に派遣されました。

カテキスタによる洗礼希望者のための入門講座(以下「入門講座」)のプログラムは、養成講座のプログラムを基にしたものです。入門講座の基本は、同伴者イエスと共に、また受講者と共に歩むことにあります。したがって、講義のような一方的なものではなく、自分の経験を交えた証しや分かち合いを大切にすることが目指されています。

松戸教会での入門講座の開講は、コロナ感染予防対策のため、2022年4月になりました。認定・任命・派遣から、実際の入門講座開講までの1年半は、他のカテキスタと連絡を密にして、講座準備のための学び合いを続けました。各々の足りないところを補い合い、祈り合いながら、

松戸教会での入門講座は現在2期目に入っています。

◆小教区での奉仕と教区カテキスタ
教区カテキスタは所属の小教区ではカテキスタとして奉仕することはありません。とはいえ、どのカテキスタも自分の所属する小教区では、それ以外のさまざまな奉仕を行なっている方々ばかりだと思います。

わたしの場合、所属小教区の教会学校は、2022年1月に約2年ぶりに対面で再開することができました。物理的に集まれない間は、オリエンス宗教研究所の『こじか』を各ご家庭に郵送していました。

対面での活動再開にあたっては、他のリーダーと相談し、継続的に旧約聖書を教材として取り上げることにしました。養成講座や他のカテキスタとの学び合いを通じて、救いの歴史を子どもたちに感じ取ってもらいたいと意識するようになったためです。

旧約聖書を題材とするプログラムを開始して間もなく、わたしよりずっと若い世代の信徒がリーダーとして毎回参加してくれるようになり、2023年度はさらにこのリーダーの友人もリーダーとして関わってくれるようになりました。

更新プログラムでは、上に述べたような小教区の変化も思い起こしながら、他のカテキスタ、スタッフ、講師(担当司祭、教区職員)の方々と、毎回分かち合いを行っています。分かち合いは、他の小教区の方々との出会いと交わりの場となっています。

「神を信頼して生きる」こと

カテキスタ 第2期生
チーム関口
板橋教会 長澤 重隆

◆「歴史に学ぶ日本の教会の姿」の学びを通じ、自分の歴史を見つめ直す
更新プログラムでは、「歴史に学ぶ日本の教会の姿」を学ぶ機会を通じて、自分の歴史を見つめ直す恵みをいただきました。そしてこの学びは、現在3年目を迎えた入門講座で、カテキスタとして接する幾人もの受講者への視線をも学び直す機会となりました。

まず、私の信仰生活が、わたしの小さな人生だけではなく、日本、世界の歴史のうちにおかれていることを、わずかですが俯瞰して学ぶことができたことでした(感謝です)。

◆聖書、福音中心の信仰生活に気づかせてもらった大学時代
私は北海道の山間部にある炭鉱町に生まれ育ちました。当時のこの町は石炭産業の最盛期で、今は廃墟になっていますが、数万人規模の関連産業で活気にあふれていました。高校生活の頃にはすでに斜陽産業となり、人口も減り衰退していきました。子ども心に残るテレビ番組には、鉄腕アトムや、大草原の小さな家、ララミー牧場などのドラマがあり、米国の豊かさを何の疑問もなく身に染みて感じていました。

世界初のアポロによる月面着陸に心躍らせ、同時にケネディ大統領暗殺映像(世界初の衛星放送による)を目の当たりにして、大きなショックを受けたのを覚えています。高校時代には、大学紛争やベトナム戦争の悲惨さが少しずつ分かるようになり、どうしてなのかを探りながら歴史の深さを知るようになりました。東京の大学へ進学した頃、時代は大企業を中心とした高度成長期が終わり、オイルショックがあり、一転して就職難に見まわれ、何とか小さな会社に潜り込み過ごしてきました。

さて、大学の頃に、田舎の教会の先輩が叙階され、現在の教会に助任司祭として赴任してきました。同郷で面識もあり、教会に入り浸って福音を学びました。そしてこの司祭はいつも、「福音の中心はイエス・キリストであり、キリストを通して信仰を育むことが大切なんだよ、今が大切だよ」と教えてくれました。

また、当時の主任司祭は聖書勉強会を開催し、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解」(エフェソ3・18)するよう導いてくださり、聖書、福音が中心の信仰生活を気づかせてくれました。第2バチカン公会議の導きも、いち早く小教区に伝え、導入し、特に典礼への反映は熱心に推進してくれました。日本語の使用はもちろんのこと、典礼聖歌によるミサを熱心に導入されました。

◆公会議の息吹にふれ、福音の学び直しと地域ボランティア活動参加へ
公会議に関する情報は、当初日本ではほとんど伝えられなかったと記憶しています。カトリック新聞等の記事では見かけることはあっても、その内容は理解できなかったと思います。

私が公会議の息吹に触れることができたのは、例えば、コルカタの聖テレサ(マザー・テレサ)の来日と講演や、聖ヨハネ・パウロ2世の来日ミサや広島宣言を体験したときでした。日本中が注目したことと言うよりも、聖霊の働きを感じたのでした。また、公会議閉会後20年も過ぎた頃に、「NICEナイス(福音宣教推進全国会議)」に参加できたことでした。

大きな戦争を体験してきた教会は、伝統に固執するのではなく、現代社会にあって果敢に福音を伝える教会に光を示そうとしていたのです。『教会憲章』の冒頭、「諸民族の光はキリストであり、そのため聖霊において参集したこの聖なる公会議は、すべての被造物に福音を告げ(マルコ16・15参照)、教会の面(おもて)に輝くキリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む。教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具であり」とあり、トリエント公会議から続く伝統的な教会のイメージ、例えば教義神学に基づく公教要理、ヒエラルキーの教会などから脱却し、現代化、福音化、典礼刷新、開かれた教会等の言葉にあるように、新しいイメージが呼びかけられました。

また『現代世界憲章』の冒頭「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」とあるように、教会は常に現代社会の困難に結ばれていること、連帯していることを示してくれました。すべての信者たちは、この世—自分たちの現実の生活の中で神の国の実現するため、世の光、地の塩として派遣されていると宣言されました。

わたしはこの時から、習慣的に参加していたミサには奉仕者として参加(行動的参加)するよう意識し、自分たちへの福音化、つまりもう一度福音を学び直すことを始めようと決めました。また、地域社会で生きる方々へのボランティア活動に公的に参加していきました。

◆過去半世紀の社会の急激な変化とわたしたち
その後約50年間、現代社会を取り巻く環境や出来事、政治、経済、環境、あるいは労働問題、外国移住者などは想定外のスピードで変化し、多くの弊害、災害が起こり、わたしたちは翻弄されています。

日本ではバブル経済が起こりGDPは世界第2位となったとうぬぼれた途端に、はじけてしまい、失われた30年に突入してしまいました。世界ではベルリンの壁やソビエト連邦が崩壊し、同時にボスニアやイラクなどの地域紛争・戦争が起こり、その後もシリア紛争やウクライナ侵攻と絶えることはありません。

また、紛争・戦争によって生じた世界的な難民保護は、すべての人々の喫緊の課題です。グローバル資本主義は世界を席巻し、貧富の格差を増大し続けて、環境破壊と気候変動は止むことがありません。

特に世界中が翻弄され、あらゆることがらが停滞せざる得なくなってしまったコロナによる被害は甚大であり、多くの困窮者を発生させました。

◆イエスの教えを一人一人の「人生の歩み、生きてきた歴史」から受け止める
今、自分史を振り返るだけでも、更新プログラムによる歴史観は大きな着眼となりました。現代社会の困難や苦しみは、「神の子ならば降りてみよ」という叫びにも似たような響きを感じます。そしてそのような社会に生きて、今、イエスの教えを、神の導きを求めている受講者一人一人の「人生の歩み、生きてきた歴史」からも受け止めることも大切ではないかと感じています。そしてこれらの体験は、今、カテキスタとして従事している姿勢に求められているのではないか、大切なことではないか、と思うのです。

フランシスコ教皇は、今の世界が排除の文化であり、その中でこそ愛を伝えることが福音のあり方であると教えています。カテキスタによる入門講座でも、いわゆる「講座=教え」ではなく、聖霊の体験、愛の体験、イエスとの出会いの体験が分かち合えればと願っています。

先日ある教会のミサに参加しました。司式司祭が「主は皆さんとともに」と明るく元気な声で、そして両手を“大きく広げて”呼びかけました。そこには、愛である主が迎えて呼んでくださっている、帰ってきた息子を、両手を広げて迎える“あの父”の姿を想い起こすような光景でした。そして、「今、わたしたちは神さまを信頼して生きている」と、ともに体験したいと願うのです。

第6期 養成講座受講申込 応募結果報告

生涯養成委員会担当司祭 
猪熊 太郎

今年の梅雨は、雨が少なく、また、真夏のような天気が続いたりしていました。梅雨らしくない日々が多かったように思います。
そして、夏になりました。皆様、如何、お過ごしでしょうか?

さて、今年度「教区カテキスタ養成講座」第6期の受講申込者ですが、総勢7名の方々が申込みをして下さり、私たちも受付をすることができました(吉祥寺2名・麹町1名・洗足2名・町田2名 / 50音順)。

御存知のように、この7名の方々は、この9月から、1年間をかけて、教区カテキスタとして奉仕の現場に出る準備をすることになります。

応募要項にあります通り、この講座で養成を受け、大司教様より「教区カテキスタ」として認定・任命された方々は、あくまでも、「教区」の「カテキスタ」となり、奉仕職を果たすことになります。

自分自身が所属している小教区において、カテキスタになるわけではありませんし、奉仕はできません。大司教様によって認定され、派遣地の任命を受けて、教区内の講座開講教会にて奉仕をすることになります。

わたしたちは、この方々を物心両面から支えていくことになります。

私たちの試みは、いまだ、新しい試みです。

まだまだ紆余曲折が予想されます。

しかし、コロナ禍は過ぎ去りました。今回、新しく集った仲間たちと共に、確実に、一歩前に向けて、足を進めていきたいと思っています。

どうぞ私たちのためにもお祈り下さい。

まずは御報告まで。

典礼あれこれ 第7回

「アーメンという言葉」

みなさんは、ミサの中で唱えられる「アーメン」という言葉をどのように唱えておられますか?

「アーメン」とは、「そうなりますように」とか「その通りです」といった意味で、ミサの祈りの中で繰り返し唱える言葉です。筆者は、この言葉は、「認め印を押す」ような意味があると思っています。司祭の司式奉仕によって唱えられる祈りの言葉に対して、「アーメン」「そうなりますように」という気持ちを込めて唱える言葉だと思います。「認め印を押す」ためには、その祈りの文章をしっかり聞く必要があります。「祈りの最後だから、アーメンと言っておけばよい」のではなく、しっかり祈りの言葉を心に刻みながら、心を込めて「アーメン」と応唱したいものです。

奉献文の最後の栄唱に続くアーメンは、「グレートアーメン」とも呼ばれます。この「アーメン」は、奉献文を締めくくる「アーメン」です。典礼注記(ルブリカ)にも、「会衆ははっきりと唱える」と書かれています。少々、極端な話ですが、もし、会衆による「アーメン」の同意がなければ、司式者はもう一度、奉献文を捧げ直さなければなりません。「アーメン」と唱えないということは、司式者が捧げている奉献文を認めない、という意思表示になるからです。これはとても大切な「アーメン」の言葉です。

聖体拝領の時の「アーメン」も大切です。「キリストの御からだ」の言葉に続いて「アーメン」と答えます。これは、今からいただくパンは、パン屋さんに売っているアンパンではなく、まことのキリストの御からだであります、という意味の「アーメン」です。それと同時に、ご聖体をいただくこの私も、キリストのからだである教会を築いていく一員です、という意味の「アーメン」にもなります。

「アーメン」という言葉自体は、小さなものかもしれません。しかしながら、そこには大きな、そして、大切な意味が含まれています。聞こえないような小さな声ではなく、はっきりと「アーメン」と答えていきたいと思います。そのためには、何に対して「アーメン」と唱えているかを改めて意識していきたいと思います。