お知らせ
教会学校リーダーの皆さんへ 東京教区こどものミサのお知らせ
2016年08月23日
2016.8.15
東京教区教会学校委員会
2016年度東京教区「こどものミサ」
【日時】 2016年 10月9日(日) 午後2時半~5時
【場所】 東京カテドラル関口教会「聖マリア大聖堂」&前庭
【テーマ】 「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18・21)
-神さまのいつくしみは永遠-
今年も東京教区主催の「こどものミサ」が、10月9日(日)午後2時半から、東京カテドラルにて、岡田大司教様の主司式でおこなわれます。「こどものミサ」では、毎年参加される小教区ごとに、テーマに基づいた奉納物を準備していただき、当日のミサで奉納するという形をとっています。 そこで、今年のテーマについて、テーマに関するカテケージス(教え)、奉納物など、教会学校リーダーの皆さんに、当日までに子どもたちと共に準備していただきたい事についてお知らせします。
お知らせの内容
1.テーマについて(2~6ページ)
テーマとなっている聖書の箇所についての説明です。子どもたちとより豊かな準備が出来る様に、 リーダーの皆さんもテーマとなっている聖書の箇所を深く味わってみてください。
2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)(6~10ページ)
「1.テーマについて」および「2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参考にしながら、当日までに子どもたちにカテケージス(教え)を行ってください。
3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明(10~12ページ)
製作していただく奉納物についての説明と注意点、製作時のヒントなどをまとめました。製作した奉納物は、こどものミサ当日に持参してください。 ミサ中に奉納して頂きます。
4.ミサで歌う曲・申し込みハガキの控え(12ページ)
1.テーマについて
「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18・21)
-神さまのいつくしみは永遠-
今年は「いつくしみの特別聖年」(2015.12.8~2016.11.20)です。教皇フランシスコはこの特別な年にあたり、わたしたちのまなざしを、特別に御父のいつくしみに向けるようにと促しています。そこで今年は「神のいつくしみ・赦し」に焦点をあててテーマを設定いたしました。
イエスさまは、「赦しなさい」(ルカ6・37)と教えられました。しかし、わたしたち人間にとって「赦すこと」は多くの場合努力を伴うことで、時に非常に難しいことです。それでペトロはイエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねました。するとイエスさまは、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになりました。
「無理だ」と思ったに違いないペトロに、イエスさまはたとえ話をお話しになりました。「仲間を赦さない家来」のたとえです。このたとえを通してイエスさまは、天のおん父が「憐れみ深い」お方、「赦し」というお方であることを、はっきりと表しておられます。そしてわたしたちにも、「憐れみ深い」者、「赦し」を行う者、になるようにと呼びかけられておられます。
いつくしみの特別聖年にあたり、わたしたちも「神さまのいつくしみ・赦し」を表すものとなっていきますように、福音をしっかりと受け取らせていただきたいと思います。
まず、マタイ18章21~35節を一度お読みいただきたいと思います。
◇
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
(マタイ18章21~35節参照)
◇
ここでは福音書の言葉に解説を加えながら、テーマについて説明していきたいと思います。
*
《福音書の言葉の解説》
「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』」
当時、ユダヤ教では、神は人間の同じ罪を三度までなら赦してくださると考えていました。
ペトロは、イエスさまのいつくしみ深さをよく知っていましたので、だいぶ譲歩して、「七回までですか」と尋ねたのでしょう。
「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」
ペトロの予想に反して、イエスさまは「七の七十倍」、すなわち無制限の赦しをお命じになられました。ペトロはそれを聞いて、おそらく「無理だ!」と思ったに違いありません。
そのようすを見て、イエスさまはペトロにたとえ話をなさいました。それが「仲間を赦さない家来」のたとえです。
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」
「天の国は次のようにたとえられる」という言葉の意味ですが、「神さまという方がどういうお方であるのか」また、「神さまとわたしたちのあるべき関係がどういうものであるのか」は、たとえて言えば、こういうことだよ、と言っておられるのだと思います。
「ある王」は神さまを表しています。「家来たち」はわたしたち人間を指しています。
「家来の一人」は、「王」から1万タラントンの借金をしています。これはケタ外れに大きな金額です。このたとえ話では、登場する二つの借金の「額の違い」が話の急所になっています。そこでお金の単位について、すこし丁寧に説明します。
1タラントンは6000デナリオンです。
1デナリオンは、「平均的な一日分の労働の賃金」と言われています。
ですから、
1万タラントンは6000万デナリオン。「6000万日分の給料の額」ということになります。
6000万日は、年に換算して、16万年余。
つまり1万タラントンは、「16万年分の給料の額」です。
16万年は、・・・一人の人が仮に一生に「40年間」働くとして、その4000倍。
おかしな言い方ですが、1万タラントンを働いて返すには、人生を4000回くり返さなくてはなりません。
これは、たとえ持ち物を売り払い、自分も妻も子も奴隷に売ったとしても返せる額ではありませんね。
そこで「王」は、この家来を憐れに思って、彼を赦し、借金を「帳消し」にしたのです。
「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。」
想像を絶する額の借金を帳消しにしてもらったのに、家来はそのすぐ後に、自分に百デナリオンの借金をしている仲間を赦しませんでした。仲間が、「どうか待ってくれ、返すから」としきりに頼んだのに、赦さなかったのです。
「借金を返すまでと牢に入れた」という家来の行為の意味が分かりにくいので、説明します。
当時、最も安全な財産の管理方法は、地中に穴を掘って埋めておくことでした。「借金を返すまでと牢に入れた」とは、「財産の隠し場所を自白するまで牢獄に入れて、拷問を加える」ことを意味します。
「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」
ここに、このたとえ話の中の唯一の「教え」があります。それは「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」というものです。
「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」これこそが、このたとえ話を通して、イエスさまがおっしゃりたいことの中心です。
「王」が憐れんで、赦し、帳消しにしてやった額は「1万タラントン」
「家来」が憐れまず、赦さず、相手が自白するまで牢獄で拷問を加えるとした額が「100デナリオン」そこには金額にして、60万倍の開きがあります。
「王」は怒って不届きな「家来」を牢役人に引き渡しました。牢役人とは拷問役のことです。
「借金を返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」・・・とありますが、この家来にはどんなに拷問を加えられても、返済の当てはありませんね。すなわちそれは永遠に続く拷問の苦しみを意味します。
そしてそれは、この「家来」が自分の仲間にしたことでもあります。
さて、ここでイエスさまは何をおっしゃりたいのでしょうか?
「赦しなさい」と言われているのだと思います。仲間を「赦さない」時、その裁きが自分をも神の赦しから切り離してしまうのだよと、訴えているのだと思います。
仲間を「赦さない」時、そこには永遠に続く拷問の苦しみがあるのだと教えているのだと思います。だから「赦しなさい」と教えているのだと思います。
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
さて、「七の七十倍赦しなさい」と言われているのに、そう言われる神さまは「赦さない方」なのではないか? という素朴な疑問が生じるかもしれませんね。言葉の表面からはそういう印象を持たれるかもしれません。しかしそうではありません。間違いなく神さまは「赦しそのもの」というお方です。 しかし、「人を『赦さない』時、わたしたち人間は、『赦しそのものである神さま』に出会うことが出来ないよ」という決定的なメッセージなのです。
天の父である神さまと人間とは、「ギブ&テイク」し合うような対等な関係ではありません。また、機械的な「因果応報」のような関係でもありません。
神さまはすでに、わたしたち人間に対して、「1万タラントン」の負い目を「赦し」、帳消しにしておられる「赦しそのもの」というお方です。だから、わたしたち人間も、仲間の「100デナリオン」の負い目を「赦し」、帳消しにするようにと、教えられているのだと思います。
「100デナリオンの赦し」を行わない時、神さまの「1万タラントンの赦し」に出会えない・・・。だから「赦す」ように、と教えておられるのだと思います。
*
《福音とテーマについてのまとめ》
このたとえの「仲間を赦さない家来」の仕打ちに、見ていた仲間たちは、非常に心を痛めました。このたとえを読んでいるわたしたちも、「この家来は、自分が主君からしてもらったことを思えば、仲間を赦すべきだ」と考えると思います。
しかし、イエスさまは、このたとえの「仲間を赦さない家来」とは、実は、
「『七の七十倍赦せ』というわたしの命令を『無理だ』と思うペトロ、そしてそう思うあなたがた一人ひとりのことなのだよ」
と、おっしゃっているのではないかと思います。そして、「1万タラントン赦されているのだから、100デナリオン赦すのは当然ではないか?」とわたしたちに言っておられるのだと思います。
「1万タラントン赦されている」とは、どういうことでしょうか。
「1万タラントン赦されている」とは、「神さまがわたしたちと共にいてくださる」という神秘のことだと思います。わたしたちは土の塵から造られたもの(創世記2・7)で、もともと神さまに共にいていただく資格などありません。それなのに主なる神は、土の塵で形づくられた人の鼻に命の息を吹き入れてくださいました。
息とは、神さまの命そのもの。土の塵に過ぎないわたしたちの内に、主なる神が共にいてくださること、それこそが「神の赦し」、わたしたちが「1万タラントン赦されている」ということだと思います。
また、神さまがわたしたちをご自分の似姿として造り、「よし」としてくださっていること(創世記1・31)と言ってもよいかもしれません。
一方、「仲間の100デナリオンを赦す」というのは、自分に負い目のある仲間の内にも、「神さまが共におられる」という、神の赦しの神秘を「認める」ということだと思います。神さまがその人をご自分の似姿として造り、「よし」としてくださっていることを認めるということだと思います。
「神の赦し」と、「人の赦し」は違います。
神の赦しは「人間と共にいてくださること」。それに対して人間の赦しは、神の赦しの神秘、すなわち「神さまがその人と共におられること」を「認める」だけです。
それがイエスさまのたとえの、「1万タラントン」と「100デナリオン」の60万倍の額の開きとして表されているのだと思います。
たとえの中の家来は、自分の受けた負債を取り戻すまでは、絶対に相手を赦さず、牢に閉じ込めました。そこは相手の内に「神さまが共におられる」ことを決して認めない場所です。そして、相手に苦痛を与え続けようとするところです。
そこは言うならば、土の塵に過ぎない人間が、自分の滅びある「土」に立って、相手の滅びある「土」に向かう、「滅びから滅びへの堂々巡り」です。それを今日の福音は「すると主君は怒って、家来を牢役人に引き渡した。」と表しているのだと思います。
人は相手の人の内に「神さまが共におられる」神秘を認めない時、「自分と共におられる神さまの神秘」、すなわち「神の赦しの神秘」に決して出会えません。そしてその苦しみの中に生涯閉じ込められることになります。神さまが閉じ込める、というより、赦さない時、自分がそこに陥ってしまうのだと思います。
だから、
「決してそうであってはならない」ので、イエスさまは「七の七十倍赦せ」と言われます。
「わたしたちが求められている「赦し」とは、相手の中に「神の赦し」を認めること。何があっても、どんな時にも、相手の内に「神さまが共におられる」神秘を認めることだと思います。
わたしたちが、相手の内に「神さまが共におられる」神秘を認める時、わたしたちはどこにいるのでしょうか? 土の塵に過ぎないわたしたちの中に共にいてくださる「神の赦し」の中にいるのではないでしょうか。「相手の中に神のいのちを見出すお方」の中にいて、相手の中にいてくださる神さまに目を向けているのだと思います。
その時わたしたちは、土の塵に過ぎない人間の中にいてくださる「神の赦し」の中にいて、土の塵に過ぎない相手の中におられる「神の赦し」に向かう、「永遠から永遠へのいのちの交わり」に入るのだと思います。イエスさまは、すべての人をそこにお招きになりたいのです。そここそが、わたしたち人間がいるべきところだからです。
それが、イエスさまの言われる「七の七十倍赦しなさい」という教えの中心にあるものだと思います。自分を「よし」としてくださっている神さまの中にいて、相手を「よし」としてくださっている神さまに目を向け、認めることなのだと思います。
2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)
今年のテーマ「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18・21)を受けて、当日のミサの福音の箇所はマタイ18・21~35としました。事前に福音の内容に親しんでおいていただくために、リーダーの皆さんに子どもたちといっしょにやっていただきたいことがあります。簡単に以下のようにまとめてみました。
1.当日の福音 マタイ18・21~35を子どもたちに読んで聞かせる。
イエスさまが弟子たちに「仲間を赦さない家来」のたとえを話される箇所です。リーダーのみなさんが、一度子どもたちの前で声を出して、読んで聞かせてほしいと思います。
その際、次のように問いかけながら読んでいただいたらどうでしょうか。
① マタイ「18章21節」を読む
「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』」
②子どもたちに質問する
「イエスさまは、こう尋ねられて、何回赦しなさいとおっしゃったと思う?」
*「5回」「10回」「100回」・・・等々
③「22節」を読む
「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」
④子どもたちに質問する
「ペトロさんは、これを聞いて、どう思ったかな?」
*「びっくりした」「たいへんだ」「無理だと思った」
⑤リーダーが一旦まとめる
「きっと、ペトロさんは『無理だ!』と思ったのではないかな」
「ペトロさんが『無理だ~』という顔をしていたので、イエスさまは次のたとえ話をなさいました。続きを聞いてください」
⑥続きの「23節~35節」を読む
2.言葉の説明をする。(必要に応じて、内容や、話す順序を、調整なさってください)
「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った」
→「ペトロ」は、12人の弟子のリーダーです。弟子とは、先生から教えを受ける人のことですね。
「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、」
→「罪」は子どもには難しい概念ですね。「兄弟が自分に対して『許せない』と思うようなことをしたら」と言い換えてみてはどうでしょうか。
「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」
→当時は3回までは赦すようにと、一般的に考えられていたようです。ペトロはイエスさまがお優しい方であるのを知っていましたから、だいぶ譲って「七回までですか」と尋ねました。
「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」
→七の七十倍は、四百九十ですが、回数のことでなく「何回でも赦しなさい」という意味です。
「天の国は次のようにたとえられる」
→「神さまのおこころ」は、たとえて言うと、こういうことですよ、という意味です。
「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした」
→「家来」とは、王さまにお仕えする人、部下、命令に従う人です。「決済」は貸したお金を返させること。
「一万タラントン借金している家来・・・家来の主君は憐れに思って・・・帳消しにしてやった」
→一万タラントンの金額、については、3~4頁を参照ください。
◆主君(王さま)は家来を「赦してやりました」。
「百デナリオンの借金をしている仲間を・・・家来は赦さず・・・牢に入れた」
→百デナリオンの金額、牢に入れた、ことの意味は、4頁を参照ください。
◆家来は仲間を「赦しませんでした」。
「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」
→今日のたとえ話の中の唯一の「教え」です。
3.こどもたちに質問する。
たとえ話の中の家来は、王さまに1万タラントン赦してもらいました。これは一生働いたとしても、人生を4000回もくり返さなければ返せない金額でしたね。
ところが、赦してもらったすぐ後、100デナリオン貸している仲間に会った時、この家来は仲間を赦しませんでした。首を絞めて、返すまでと牢屋に入れてしまいました。
「皆さん、この家来のことをどう思う?」(補助質問)
→ひどい
→悪い
→仲間を赦してやればよかった
多くのこどもたちは、この家来に対しては、「よくない」という感情を持つと思います。リーダーも、「本当にそうだねえ」と軽く同意してくださったらよいと思います。
そして更に問いかけていただきたいと思います。(これが主質問です)
「この家来は、王さまにたくさん赦していただいたのに、なぜ仲間を赦さなかったのだろうか」(主質問)
→赦していただいたのを、忘れてしまった
→それとこれとは別
→わからない
すぐ、上のような答えをするかもしれませんし、全くわからない・・かもしれません。
いつものことですが、無理に答えを出そうとしなくてよいと思います。
まず、どんな意見も「そうかもしれないね」と、答えてくれたことを大切していただいたらいいと思います。
おそらく、意見の中心は、
「忘れてしまった?」というものではないかと思います。
一度リーダーの皆さんが、
「この家来が、王さまにたくさん赦していただいたのに、仲間を赦さなかったのは、赦していただいたことを忘れてしまったからかもしれないね」
と、まとめていただければと思います。
そして、
「『赦された』ことを忘れて、『仲間を牢に入れて苦しめたら』、『自分も牢に入れられて苦しむことになってしまった』のだね。」
と、まとめていただければと思います。
4.リーダーが子どもたちに、教える・伝える・一緒に考える
最後に、子どもたちに次のようなことを話していただければ幸いです。
「ペトロさんはイエスさまから『七の七十倍までも赦しなさい』と言われて、『無理だ』と思いました。それでイエスさまは、このたとえ話をなさいました」
「1万タラントン、赦されたのだから、100デナリオンを赦しなさい、というお話でしたね。」
「このたとえ話の意味は、わたしたちは神さまから1万タラントン赦されているのだから、お友だちの100デナリオンを赦しなさい、ということだと思います」
「『神さまから1万タラントン赦されている』とは、どういうことでしょうね?」(追加の補助質問)
*ここで子どもたちは、いろいろな答えを言ってくれるかもしれません。
・世界を作ってくださったこと? ・人間を愛していること?・人間を作ってくださったこと?
・悪いことしたのを赦してくれたこと?・・・様々な答が予想されますが、ここで、「リーダーはこう思う」という形で伝えてくださったらよいと思います。
《たとえばですが》
「『神さまから1万タラントン赦されている』というのは、わたしたちのことを、神さまが『いいよ』って言って、一緒にいてくださることなのではないかな」
「リーダーも、悪いことをしたり、思ったりすることはたくさんあるのだけれど、でも神さまは『いいよ』って言って、いつも一緒にいてくださいます。それが『神さまから1万タラントン赦されている』ということではないかなと思います」
「だから、そのことを忘れないで、お友だちが自分に“ちょっと許せないようなこと”を、したとしても、お友だちにも、神さまが一緒にいてくださるから『いいよ』って言ってあげるんだよと、イエスさまは教えておられるのではないかな」
「『いいよ』って言ってあげないと、お友だちを『牢屋』に入れることになるでしょう?そうしたら、自分も『牢屋』に入らなくてはならなかったでしょう?」
「神さまは、どんな時でも『いいよ』と言って、一緒にいてくださるから、そのことを忘れないで、お友だちの中にも一緒にいてくださるのだから、『いいよ』って言えるようにしたらよいのではないかな?」
「みなさん、今まで人に『いいよ』って言ってあげられたことがあるかな?また、人から『いいよ』って言ってもらったことがあるかな?」
「反対に、人に『いいよ』って言ってあげられなかったことがあるかな?また、人から『いいよ』と言ってもらえなかったことがあるかな?」
「これから、人に『いいよ』と言ってあげたいこと、人に『いいよ』と言おうと思うことがあるかな?」(以上、発展課題)
*「赦す」ということを、「いいよ」ということに置き換えて説明していますが、学年が上の子どもたちには「赦す」という言葉で伝えた方がよいかもしれません。「赦し」の本質は、わたしたちがどんなに悪くても、神さまが決してわたしたちから離れないということです。ただ、人を「赦さない」時、その神さまとまったく出会えなくなってしまうので、赦しなさいと言われています。
5.イエスさま(神さま)に手紙を書く
今日の福音を受けて、子どもたちに手紙に書かせていただきたいと思います。
◆「イエスさまに(神さまに)、お手紙を書こう」
・子どもたちに伝えやすいように「赦すこと」は神さまが一緒にいてくださるから、人に「いいよと言ってあげること」と、シンプルにとらえました。
・イエスさまに(神さまに)お手紙を書いてみましょう。
これから自分が「いいよ」と言ってあげようと思うこと。
これから自分はこんな時は「赦そう」と思うこと。
いままで「いいよ」って言えなかったけれど、次は言ってあげようと思うこと。
イエスさま(神さま)に書いてみましょう。どんなことがあるかな?
・それ以外の内容でも、イエスさま(神さま)に聞きたいこと、話したいことがあったら、自由に書いてください。
・イエスさま(神さま)は、皆さんが真剣に書いたことには、真剣に答えてくださいます。
だから、真剣に、誰にも内緒で、書いてみましょう。
・名前は書かなくていいです。
*この手紙が、奉納物「いいよくん(ちゃん)」(後で詳述します)と一緒に奉納されます。奉納物の作り方に応じて、手紙を書かせる紙(その他)の形状を工夫なさってください。
*できればリーダーも一緒に書いていただくと、子どもたちもより一生懸命に取り組めると思います。
3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明
今回の奉納は、小教区(聖堂共同体)ごとに、「いいよくん(ちゃん)」(後で詳述します)を奉納していただきます。一人の子どもが運べるような物にお作りください。(当日持って来てください)
製作していただく奉納物については、当日のスムーズな進行のため、ある程度の制約をこちらで決めさせていただきました。ご協力のほどよろしくお願いします。
「いいよくん(ちゃん)」
今回は、「七の七十倍までも赦しなさい」と言われた」イエスさまへの答えを、形に表したいと考えました。こどもたちにも伝えやすいように、「赦すこと」は、相手に神さまがいっしょにいてくださることを認めて「いいよ」と言ってあげること、とシンプルにとらえました。
カテケジスの5で書いた「イエスさま(神さま)への手紙」は、「これからは、いいよって言ってあげよう」という内容の手紙ですが、今回はみんなの「いいよ!」から生まれた「いいよくん(ちゃん)」を
作って、その中に「イエスさま(神さま)への手紙」を入れる、あるいは持たせるなどして、奉納していただきたいと考えました。
◇個数:小教区毎に1個(一体)
◇機能:「いいよくん(ちゃん)」は、カテドラルの祭壇の前の階段に置きます。倒れてしまうと、見えなくなってしまうので、自立するもの、にしてください。
◇大きさ:高さは、30センチはあるものにしてください。(その程度の大きさがないと、皆から見えないため)「いいよくん(ちゃん)」の台座の幅は、38センチ以下(祭壇の前の階段に置くため:38センチは階段の踏み台の幅です)でお作りください。
(ただし子ども一人で持って奉納できる大きさ・重さ以下(厳守))
◇材質:可燃物でお願いします。
特に、当日持ち帰りを希望されない教会の奉納物は、教会学校委員会で適切に後処理を行
いますので、金属、粘土などではないもので作って頂きますようお願いします。
作り方について
・特にありませんが、前述したように、全体の高さが、30センチはあるものにお作りください。
・こどもたちの「いいよ」という心を表すような姿に作っていただければ、ありがたいです。
・自立する形にお作りください。
・手紙の内容については、「2.ミサまでに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参照してください)
奉納物〈いいよくん(ちゃん)〉の奉納
◇「奉納物〈いいよくん(ちゃん)〉」はミサの中で奉納します。
・ 各教会1名の代表者(厳守)が、中央通路を通り、祭壇まで進みます。そして大司教様に手渡します。その後、係が奉納物を並べていきます。(※例年奉納の行列が長くなってしまうので、代表者は必ず1名でお願いします。)
・「奉納物」を持ち帰りたい教会は、ミサ当日に会場の受付で申し出て下さい。
4.ミサで歌う曲・申し込みハガキの控え
入祭 「愛されている子供らしく」
アレルヤ 「アレルヤ豊かな愛を」
奉納 「回心の祈り」「あなたに愛されて」
感謝 「感謝の賛歌」上村さん
平和 「キリストの平和」
拝領 「神さまがわかるでしょ」「フレンズ」「神さまのぬくもりのしるし」
閉祭 「アーメンハレルヤ」
申し込みハガキの内容
1.「こどものミサ」参加の有無
10月9日(日)の「こどものミサ」への参加の有無をお知らせください。
教会名 教会
参加する 参加しない (○をつけてください)
*おおよそ 人 (リーダー 人、子ども 人)
*代表者名
*連絡先 ℡: e-mail:
2.子ども侍者団・参加の有無
前項で「参加する」に○をつけた教会の方へ。ミサの中で子ども侍者団を形成す
る予定ですが,同侍者団への参加の有無をお知らせください。
参加する 参加しない (○をつけてください)
*各教会から1~2名でお願いします。
*自教会で使用している侍者服を着用ください。
*当日は午後2時00分迄に集合ください。
3.リーダー準備会への出席の可否
9月25日(日)夕方こどものミサに参加する教会のリーダーのための準備会が
あります。当日についての説明と,当日の朗読,共同祈願などの担当を決めます。
出席する 出席しない
*各教会から代表で1名ご参加ください。出席者名( )
日時:9月25日(日)午後4時~6時
場所:東京カテドラル・関口会館2階,教区スペース。
*準備会に出られなくても,当日の係(会場設営,案内,etc)のお手伝いをして下さる方は
ご連絡ください。Keizo.ina@nifty.com 稲川圭三神父 迄
お手数ですが 9/18 (月)までにご返送下さい。
———————————————————————
以上、説明が大変長くなりましたが、
よろしくお願いいたします。ご質問等ございましたら、下記のお問い合わせ先までご連絡ください。
問い合わせ先:
東京教区 教会学校委員会 担当司祭
稲川圭三神父(カトリック麻布教会 主任司祭)
電話: 03-3408-1500 fax: 03-3408-2575
e-mail: keizo.ina@nifty.com