お知らせ
教皇メッセージ-世界平和の日 『若者に対する正義と平和の教育』
2011年12月20日
教皇ベネディクト十六世
2012年「世界平和の日」(2012年1月1日)メッセージ
(Vatican聖座公式ホームページ)
若者に対する正義と平和の教育
1 神が人類に与えた恵みである新年の初めにあたり、わたしは深い信頼と愛を込めて、心からのごあいさつを皆様に申し上げたいと思います。どうかこれからの一年が正義と平和によって具体的なしかたで特徴づけられるものとなりますように。
わたしたちはどのような態度で新年に臨めばよいのでしょうか。詩編130の中にたいへんすばらしいイメージを見いだします。詩編作者はいいます――信じる人は主を待ち望みます。「見張りが朝を待つにもまして」(詩編130・6)。信じる人は堅固な希望をもって主を待ち望みます。主が光とあわれみと救いをもたらしてくださることを知っているからです。この待望は、選ばれた民の体験から生まれました。選ばれた民は、神が自分たちにこう教えたことを知っていました。「世の真の姿に目を向け、苦難に負けてはならない」。皆様にお願いします。この信頼の態度をもって2012年に臨んでください。確かに、去りゆく2011年は、労働界・経済・社会にのしかかる危機に対して募る不満によって特徴づけられました。この危機の根は、おもに文化的なもの、また人間の生き方によるものです。あたかも闇が現代を覆い、日の光ではっきりと見ることを遮っているかのように思われます。
しかし人間の心は、このような闇の中にあっても、詩編作者が述べる夜明けを待ち望み続けます。この期待はとくに若者のうちに生き生きとした姿で見ることができます。そのためわたしの思いは若者と、若者が社会に対してなすことができ、またなさなければならない貢献へと向かいます。それゆえ今年の第45回「世界平和の日」メッセージで「若者に対する正義と平和の教育」という、教育に関するテーマを扱いたいと思います。それは、熱意と理想を抱く若者が世に新たな希望を与えることができると確信するからです。
わたしのメッセージは、両親、家族、そして教育と養成の分野に携わるすべての人、宗教、社会、政治、経済、文化生活の諸分野とメディアの指導者にも向けられています。若者の世界に注意を払うこと、若者の主張を聞き、重んじる能力は、単に便宜上のことではありません。それは、正義と平和に基づく未来を築くための、社会全体にとっての第一の務めです。
若者に、生きることの積極的な価値を重んじることを伝え、若者のうちに人生を善であるかたへの奉仕のために用いる望みを抱かせなければなりません。これはわたしたち一人ひとりが引き受ける課題です。
多くの若者が世界のさまざまな地域で最近表明した懸念は、若者が、堅固な希望をもって未来に向かいたいと望んでいることを示しています。現在、若者は不安を抱きながらさまざまなことを体験しています。それは次のものです。現実に立ち向かうための深い準備となる教育を受ける望み。家族をつくり、安定した職を見いだすことの難しさ。より人間らしく兄弟愛に満ちた社会を築くために、自分が政治・文化・経済生活に貢献するための実際的な能力です。
社会のあらゆる層で、このような不安と、そのもとにある理想にきちんと注目することが重要です。教会は希望と確信をもって若者に目を向けます。教会は若者を励まします。真理を求めなさい。共通善を守りなさい。周りの世界に心を開き、進んで「新しいこと」(イザヤ42・9、48・6)を見いだしなさい。
教育者
2 教育は、人生の中でもっとも魅力的でありながら難しい出来事です。教育する(educate)――それはラテン語のeducere(引き出す)ということばを語源とします――とは、若者が自分を超え出るように導き、若者を、成長をもたらす、充実した現実に導き入れることです。教育の過程は、大人の自由と、若者の自由という、二つの自由の出会いによって深まります。教育は、学ぶ者と教える者の双方の責任を要求します。学ぶ者は、現実を知ることができるよう心を開かなければなりません。教える者は、自分をささげる準備ができていなければなりません。そのためわたしたちは、現代において、これまでに増して、ただ規則と事実を伝えるだけでない、真の証人を必要としています。わたしたちは、広い経験をもち、人よりも遠くを見通すことのできる証人を必要としています。証人とは、その人が他の人に示す生活をまず自分で生きている人のことです。
真の正義と平和の教育は、どのような場で行われるのでしょうか。第一の場は家庭です。両親は最初の教育者だからです。家庭は社会の原細胞です。「子どもは家庭の中で人間的・キリスト教的価値観を学びます。この価値観によって子どもは建設的で平和的に共存することができるようになるのです。子どもは家庭の中で世代間の連帯、規則を尊重すること、ゆるすこと、他者を受け入れることを学びます」(1)。家庭はわたしたちが正義と平和を習う最初の学びやです。
わたしたちの生きる世界では、家庭も、生活そのものも、たえず脅かされ、しばしば寸断させられています。家庭に対する責任を果たせないような労働条件、将来への心配、生活のリズムの慌しさ、ふさわしく生計を立てるため、単に生き延びるために頻繁に転居しなければならないこと――これらすべてのことによって、両親がともにいるという、もっとも大切なことを子どもに与えることが困難になっています。両親がともにいることによって、人生の歩みを深く共有し、長年の経験から得た経験と確信を子どもに伝えることが可能となります。こうした経験と確信はともに過ごすことによって初めて伝達可能だからです。わたしは両親の皆様を励ましたいと思います。あきらめないでください。両親が自らの模範によって子どもを力づけることができますように。それは、真の正義と平和の源である神に何よりも希望を置くためです。
わたしは学校で働くかたがたにも一言申し上げたいと思います。深い責任感をもって、一人ひとりの人の尊厳を尊重し、大切にしてくださいますように。若者がおのおの自分の召命を見いだし、神が与えてくださったたまものを成長させる助けとなるよう心がけてください。子どもが、良心と宗教的原則に沿った教育を受けることができることを、その家族に保障してください。
教育の場は皆、超越者と他者に開かれた場となりえます。教育の場は、対話し、結束し、耳を傾け合う場となりえます。このような場で、若者は自分の能力と内的な豊かさを大切にされていると感じ、兄弟姉妹を尊重することを学ぶことができます。若者が、日々、他者に対する愛とあわれみのわざを行い、より人間らしく兄弟愛に満ちた社会の建設に積極的に参加する喜びを味わうことができますように。
わたしは政治指導者の皆様にお願いします。家庭と教育機関が、自らの教育の権利と義務を行使することを具体的な形で支援してください。両親がそれぞれの務めを果たすための適切な支援を欠くことがあってはなりません。両親に次のことを確保してください。だれも教育を受ける機会を奪われることはないこと、また、各家庭が子どもにもっともふさわしいと考える教育制度を自由に選択できることです。両親が、生計を立てるためにばらばらになった家族を再び一つにするために努力できるようにしてください。両親が、政治とは万人の善のために真の意味で奉仕することだという、清廉な政治観を若者に伝えられるようにしてください。
メディアの世界にも呼びかけます。教育に対してメディアとして貢献してください。現代社会においてマスメディアは特別な役割をもっています。マスメディアは、情報を伝えるだけでなく、視聴者の精神を形成します。それゆえマスメディアは若者の教育に著しく貢献することが可能です。教育とコミュニケーションの関係はきわめて密接なことを忘れないことが重要です。教育はコミュニケーションを通して行われます。コミュニケーションは人格の養成に対して、よいしかたでも悪いしかたでも影響を及ぼすのです。
若者も、他人に対して要求するのと同じ高い基準を、勇気をもって生きなければなりません。若者には大きな責任があります。若者が、自由を、賢明に、よく用いる力を見いだすことができますように。若者も、正義と平和の教育を含めた、自らの教育に責任を負っているのです。
真理と自由の教育
3 聖アウグスティヌスはあるときこう問いかけました。「実際、真理にまさって魂が強く欲求するものがあろうか(Quid enim fortius desiderat anima quam veritatem?)」(2)。社会の人間的側面は、教育がこのかけがえのない問いかけを生き生きと保てるかどうかに大きくかかっています。実際、教育は、道徳的・霊的次元を含めた、人格の全面的な陶冶にかかわります。そこでは、人間の究極目的と、人間が属する社会の善が考慮されます。それゆえ、真理を教育するうえで、何よりもまず必要なのは、人間の人格とは何か、人間本性とは何かを知ることです。詩編作者は、周りの世界を仰ぎ見ながらいいます。「あなたの天を、あなたの指のわざをわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたがみ心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(詩編8・4-5)。人間とは何か。これこそが、問うべき根本的な問いです。人間は、心の中に、無限なるものへの渇き、真理への渇きを抱いています。この真理は、部分的な真理ではなく、人生の意味を明らかにできるような真理です。人間は神の像と似姿として造られたからです。そのため人は、人生がかけがえのないたまものであることを感謝をもって認めることにより、自分の深い尊厳と、個々人の人格が不可侵であることを見いだします。ですから、教育の第一段階は、人間の中に創造者の像を見いだすのを学ぶことです。そこから、すべての人を深く尊重することを学び、この最高の尊厳にふさわしく人生を送るよう他の人を助けることです。忘れてならないことがあります。それは「真の人間的な発展はすべての次元で人間全体に関係しているということ」(3)です。このすべての次元には、超越的な次元も含まれます。また、人格は、経済的な善であれ社会的な善であれ、個人の善であれ共同体の善であれ、個別的な善を得るために犠牲とされえないということです。
人間は神との関係において初めて、人間の自由の意味を理解できるようになります。教育の使命は、人々に真の自由を教えることです。人間の自由とは、強制がないことでも、自由意思が支配することでもありません。それは自己を絶対化することでもありません。人間は、自分は絶対であり、何ものにもだれにも頼らず、望みどおりのことができると考えるなら、自分の存在の真理に背き、自らの自由を失ってしまいます。むしろ、人間は関係的な存在です。人間は、他者、とくに神との関係のうちに生きています。神と無関係に真の自由を得ることはできません。
自由は貴い価値ですが、それはもろいものです。誤解され、濫用されることもありえます。「現代の教育事業にとってとくにゆゆしき障害となるのは、わたしたちの社会と文化に相対主義が広く見られることです。相対主義は、いかなるものも決定的だとみなさないために、『自己』とその好みだけを究極の基準とします。そして、この『自己』という基準は、うわべは自由のように見えながら、各人を閉じ込める牢獄となります。なぜなら、それは自己を他者と分離して、各人をそれぞれの『自己』のうちに閉ざしてしまうからです。それゆえ、こうした相対主義的な世界の中では、真の意味での教育は不可能となります。真理の光がない状態においては、すべての人は、遅かれ早かれ、自分の人生と人生から生まれるさまざまな関係の意味や、他者とともに共通の何かを建設しようと努力することの価値を疑わずにいられなくなるからです」(4)。
それゆえ、人間は、自らの自由を行使するために、相対主義的な見方を乗り越え、自分自身についての真理、善悪についての真理を知らなければなりません。人間は自分の良心の奥底に法を見いだします。この法は人間が自らに課したものではなく、人間が従わなければならないものです。この法の声は、善を愛して行い、悪を避け、自分のしたよいこと、悪いことに責任をとるよう呼びかけます(5)。それゆえ、自由を行使することは、自然道徳法と深く結びついています。自然道徳法は本来普遍的で、すべての人格の尊厳を表し、人間の基本的な権利と義務の基盤をなします。したがって、要するに、自然道徳法こそが公正で平和な共存の基盤となります。
それゆえ、自由を正しく用いることが、正義と平和の推進の中心です。そのためには、自分と他者を尊重することが求められます。この他者には、そのあり方と生き方が自分と大きく異なる人も含まれます。このような態度が次の要素を生み出します。この要素なしには、平和と正義は無内容のことばにすぎないものとなるのです。すなわち、相互の信頼、建設的な対話を行う能力、人をゆるす力(人はたえずゆるされることを望みますが、ゆるすことは困難だからです)、互いの愛、弱者への共感、進んで犠牲を払うことです。
正義の教育
4 現代世界においては、役に立つこと、利益を得ること、所有することという基準のみに頼る傾向が広まったため、よい意向が表明されはしても、人格、人間の尊厳、人権の価値が深刻な形で脅威にさらされています。ですから、正義の概念をその超越的な基盤から分離しないことが重要です。実際、正義は単なる人間の取り決めではありません。正義は、究極的に、実定法によってではなく、人間の深い本性によって規定されるからです。人間に関する包括的な見方こそが、契約に基づく正義概念に陥ることからわたしたちを救い出し、正義を連帯と愛の地平に位置づけることを可能にするのです(6)。
わたしたちは次のことを無視することができません。合理主義的・個人主義的な経済原則に基づく現代文化のある種の思潮は、正義の概念を超越的な基盤から切り離し、正義を愛と連帯から分離しています。「地上の国は、単に権利と義務の関係によってではなく、より重要でより根本的な、無償性と慈悲と交わりによる関係を通して促進されます。愛はつねに、神の愛を人間関係において明らかにし、世界における正義へのすべてのかかわりに神学的かつ救済的な価値を与えます」(7)。
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタイ5・6)。その人たちが満たされるのは、神、自分自身、兄弟姉妹、そして被造物全体との正しい関係に飢え渇いていたからです。
平和の教育
5 「平和とは単に戦争がないということだけではなく、また敵対者間の力の均衡を図るということだけでもありません。地上で平和が得られるのは、各個人の善益の擁護、人間相互の自由な交流、個々人ならびに諸民族の尊厳の尊重、兄弟愛の熱心な実践があってのことです」(8)。平和は正義の実りであり、愛のわざです。わたしたちキリスト信者は信じています。キリストはわたしたちのまことの平和です。神はキリストのうちに、キリストの十字架によって、世をご自分と和解させ、わたしたちを互いに分離する隔ての壁を取り壊しました(エフェソ2・14-18参照)。わたしたちはキリストに結ばれて、愛のうちに和解した、ただ一つの家族となります。
しかし、わたしたちは平和を単にたまものとして与えられるだけではありません。平和はわたしたちが築くべきものでもあります。わたしたちは、真の意味で平和を作り出す者となるために、共感、連帯、協力、兄弟愛について自らを教育しなければなりません。共同体の中で積極的に活動し、以下のことがらについての意識を高めなければなりません。国内問題と国際問題。富を再分配し、成長を推進し、発展に協力し、紛争を解決するための適切な方法を探求することの重要性です。イエスが山上の説教でいわれたとおり、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)のです。
万人のための平和は、各人のための正義から生まれます。だれも、自分に固有な能力と責任に従って正義を推進するという根本的な務めを免除されません。理想を強く追い求める若者の皆様にわたしは特別にお願いします。忍耐と堅忍をもって正義と平和を追求してください。たとえ犠牲を伴い、時流に逆らうことになっても、正義と真理の味わいを深めてください。
神に目を注ぐ
6 正義と平和の道を歩むという困難な課題を前にして、わたしたちは詩編作者のことばをもって問いかけたくなるかもしれません。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」(詩編121・1)。
すべての人、とくに若者の皆様に強く申し上げたいと思います。「世界を救うのはイデオロギーではありません。生ける神に戻ることが、世界を救うのです。神は、わたしたちを造り、わたしたちの自由を守り、本当の意味で善にして真実であることを守るかただからです。・・・・ただ、神に向かうことです。神は、何が正しいかを計る秤(はかり)であり、同時にまた、絶えることのない愛だからです。また、愛から離れて、何がわたしたちを救うことができるでしょうか」(9)。愛は真実を喜びます。愛はわたしたちが真理と正義と平和のために働くことを可能にする力です。なぜなら、愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えるからです(一コリント13・1-13参照)。
親愛なる若者の皆様。皆様は社会にとっての尊いたまものです。困難に遭っても落胆しないでください。それがしばしば問題を解決するためのもっとも簡単な道であるかのように見えても、間違った解決法に身をゆだねないでください。かかわり合うこと、苦労や犠牲に立ち向かうこと、忠実と堅忍、謙遜と献身を要求する道を選ぶことを恐れないでください。自分の若さと、幸福、真理、美、真の愛への深い望みを信じてください。豊かで熱意に満ちた人生のこのときを、強く生きてください。
自分自身が大人に対する模範であり、刺激であることを自覚してください。皆様が不正と腐敗に打ち勝とうと努めるほど、よりよい未来を望んで築こうとしていることになり、実際にそうなるのです。自分の可能性を意識してください。自己中心的に生きるのでなく、すべての人に明るい未来をもたらすために働いてください。皆様は決して独りきりではありません。教会は皆様に信頼し、皆様を受け入れ、皆様を力づけ、教会のもてるもっとも貴いたまものを与えようと望んでいます。すなわち、神に目を上げる可能性、イエス・キリストと出会う可能性です。イエス・キリストご自身が、正義と平和です。
平和のことを心に留める世界中の皆様。平和はすでに与えられたたまものではありません。むしろ、わたしたち一人ひとりが目指すべき目的です。大きな希望をもって未来に目を向けようではありませんか。互いの歩みを励まし合おうではありませんか。現代世界をより人間らしく兄弟愛に満ちたものとするために、ともに働こうではありませんか。現在と未来の若者たちに対して共通の責任を感じようではありませんか。とくに、若者が平和の人、平和の建設者となるよう育てる務めを通して。わたしはこのような思いを込めて、考察を示し、すべての人に呼びかけます。「若者に対する正義と平和の教育」のために、わたしたちの霊的・道徳的・物質的力を一つにしようではありませんか。
2011年12月8日、バチカンにて、
教皇ベネディクト十六世
注
1.教皇ベネディクト十六世「ラツィオ州とローマ県・市の行政当局者へのあいさつ(2011年1月14日)」(L’Osservatore Romano, 15 gennaio 2011, p. 7)。
2.聖アウグスティヌス『ヨハネ福音書注解』(In Johannis Evangelium tractatus 26, 5〔金子晴勇訳、『アウグスティヌス著作集24 ヨハネによる福音書講解説教(2)』教文館、1993年、46頁〕)。
3.教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛(2009年6月29日)』11(Caritas in Veritate: AAS 101 [2009], 648)。教皇パウロ六世回勅『ポプロールム・プログレッシオ(1967年3月26日)』14(Populorum Progressio: AAS 59 [1967], 264)参照。
4.教皇ベネディクト十六世「ローマ教区大会開会挨拶(2005年6月6日)」(AAS 97 [2005], 816)。
5.第二バチカン公会議『現代世界憲章』16(Gaudium et Spes)参照。
6.教皇ベネディクト十六世「ドイツ連邦議会における演説(2011年9月22日)」(L’Osservatore Romano, 24 settembre 2011, pp. 6-7)参照。
7.同回勅『真理に根ざした愛』6(AAS 101 [2009], 644-645)。
8.『カトリック教会のカテキズム』2304。
9.教皇ベネディクト十六世「WYD(ワールドユースデー)ケルン大会の前晩の祈りの講話(2005年8月20日)」(AAS 97 [2005], 885-88)。
略号
AAS Acta Apostolicae Sedis
(カトリック中央協議会事務局訳)