教区の歴史
⼈ -殉教者ー
ペトロ・カスイ岐部神父の生涯
豊後国と南蛮人
天文(てんぶん)12年 (1543) 8月25日、 一艘の明国人ジャンクが大隅種子ケ島の南岸西之村(にしのむら)に漂着した。 そこで村人たちが50隻の小舟で2日間かけて赤尾木(あおおぎ)の浜まで曳航してきた。 そこには2、 3人のポルトガル人が乗っていたが、 海賊(かいぞく)王五峰(おうごほう)汪直(わんずい) が第13代領主種子島時尭(ときたか) (16歳) に3挺の鉄砲を見せていた。 ところが、 種子島時尭は2挺を2千両で買い求め、 早速鉄匠八板金兵衛清定(てっしょうやいたきんべいきよさだ)に模造させている。 そして製法を和泉国堺(いずみのくにさかい)の商人橘屋又三郎に教えてしまった。
天文15年 (1546) ポルトガル人ジョルジュ・デ・ファリア、 メンデス・ピント、 ディオゴ・ゼイモト、 クリストバ・ボウリョなど6、 7人が直接府内城下の浜に上陸した。 すでに鉄砲の威力を知っていた城主大友義鎮おおともよししげは顧問としてディオゴ・ヴァス・デ・アラガンを5年間沖の浜に住まわせることにした。 大友家と種子島家とは深い関係があったからである。
原主水の生涯
千葉は千騎 原は万騎
本佐倉城主 (千葉県印旛郡酒々井町本佐倉字城之内) 千葉常胤 (ちばたねつぐ) には男子6人がいて下総国各地に城を構えさせ千葉六党と言われていた。 それから数えて7代目の千葉胤宗 (つぐむね) の弟宗胤 (むねつぐ) が下総国原ノ郷 (千葉県香取郡多古町染井字原) に住み原大隅守 宗胤(はらおおすみのかみむねつぐ) となった。 いわゆる原姓の起こりであった。
応永年間 (1394年~1427年) 第3代原四郎胤高 (はらしろうただたか) が下総国生実城 (おゆみじょう) (千葉市中央区南生実) に入り、 代々の居城とした。 その後、 三男胤房 (つぐふさ) の次男原朝胤 (はらともつぐ) が臼井城 (佐倉市臼井) に入り胤清 (つぐきよ) 、 胤栄 (つぐしげ) 、 胤義 (つぐよし) と3代続いたが北条一族の滅亡と共に滅びてしまった。 その第5代目が原主水佐胤信 (はらもんどのすけつぐのぶ) であった。
すなわち原一族は高城、 酒井、 栗飯原、 石橋、 豊島、 椎名、 印東など諸氏との婚姻関係によって宗家の千葉一族を凌ぐ万騎の大将になってしまったわけである。