東京大司教区
カトリック本所教会
※新型コロナウイルス感染症防止のため、ミサや各種行事の時間が変更になっている場合があります。教会にお越しの際は、必ず事前にお問い合わせくださるようお願いいたします。
名称
カトリック本所教会
教会堂名
日本26聖人殉教者
創立年月日
1879年10月
主任司祭
パウロ 豊島 治 (とよしま おさむ)
信徒数
517人 (2019年12月31日現在)
主日のミサ
日曜日 10:00
宣教協力体
下町
教会学校
日曜学校 第2日曜日、5週に1回のジョイスDAY 11:00-12:00
中高生会 毎週日曜日 11:00
福祉活動
手の橋〔ホームレス支援市民団体〕への衣料品提供活動
使用済み切手、ペットボトルキャップ、プルトップダブの収集
住所
〒130-0011 東京都墨田区石原4-37-2 [Google地図]
電話
03-3623-6753
Fax
03-5610-1732
ホームページ
http://www.catholic-honjyo-church.org/
障がい者設備
スロープ(または、バリア・フリー)、トイレ
交通案内
【JR総武線「錦糸町駅」北口より】 1番のりば 都営バス 都02系統 大塚駅前行き 「石原三丁目停留所」下車 徒歩3分
歴史
浅草教会の助任であったフォーリ神父は、本所・浅草地区に増え続ける信徒・求道者の為に教会堂を建てようと、横川町74番地(本所教会現在地)に広い土地を購入した。 1880年4月、聖堂は完成した。11日、ミトン副司教は東京府内で4番目のこの教会を「日本二十六聖人」の保護の下に置き、聖堂 を祝別した。この時フォーリ神父は北海道へ派遣されていて留守であった。 浅草教会の主任ラングレー神父は、広い地域内に2つの大きな共同体を抱えることになった。シャルトル聖パウロ会の修道女の援助と、信徒の自主的活動が多忙な神父の働きを支えた。だが過労の為か、ラングレー神父は病を得て、北海道へ転任しなければならなかった。新潟・山形で活躍していたテュルパン神父が後を継いだ。フォーリ神父も帰京し、本所教会の敷地内にあった孤児院の院長に就任した。しかし間もなくフォーリ神父は再び北海道へ赴任した。 1885年、本所教会は浅草教会から独立した。初代の主任パレット神父を迎えて、再び活気に満ちた歩みが始まった。 さて、都心から少し離れたこの教会は、激動する明治期の時代変化の大波を、諸に被ったと言うことができるだろう。 欧化時代が過ぎ、次第に軍国主義化していく日本は、三国干渉、パルチック艦隊への石炭補給の問題で外国人への不満を募らせていた。1905年、ロシアと結ばれた講話条約に遂に民衆の不満が爆発した。本所地区に決起した暴徒は教会を襲った。一帯の信者の家と共に教会は焼き打ちされた。暴動が鎮まった後も敵意は教会に向けられ、パレット神父は非常に苦しんだ。 オズーフ司教は時勢を考え、本所教会の主任を日本人に代えた。足利出身の国定神父が着任すると、教会に平和が戻った。 1909年から3代目の主任となった本城神父は、関東大震災や関東大水害、又世界大戦などで何度も全壊した教会を建て直し信徒の育成に力を注いだ。1949年から第5代主任となった下山神父は、大戦後の教会復興に力を 尽くし、1951年、現本所教会の新聖堂を完成した。教会活動は勢いを取り戻し、今日に到っている。下山神父は1996年に帰天した。 浅草・本所地区の教会は当初、宣教師の不足により主任司祭の頻繁な交替、助任の不在など多くの困難があったが、信者・求道者は急増し、府内で一番の信者数を誇る教会に発展した。又、教会の全壊にも何度か出合ったが、常に復興の歩みを続けた。 この力強い歩みの裏には、心身を投げ打って司祭と協力し合う信徒の働きがあった。それは、今日の本所教会の姿でもあろう。 参考資料:教区ニュース83号(1991年5月発行)