お知らせ
ペトロ・カスイ岐部神父の生涯 高木一雄著
2014年02月06日
『ペトロ・カスイ岐部神父の生涯』 著者:高木一雄 (キリスト教史研究家)
東京教区ニュース 228号(2005年12月)~234号(2006年7月)に連載
無断での転載を禁止します。お問合せは東京教区広報部まで。
豊後国と南蛮人
天文(てんぶん)12年 (1543) 8月25日、 一艘の明国人ジャンクが大隅種子ケ島の南岸西之村(にしのむら)に漂着した。 そこで村人たちが50隻の小舟で2日間かけて赤尾木(あおおぎ)の浜まで曳航してきた。 そこには2、 3人のポルトガル人が乗っていたが、 海賊(かいぞく)王五峰(おうごほう)汪直(わんずい) が第13代領主種子島時尭(ときたか) (16歳) に3挺の鉄砲を見せていた。 ところが、 種子島時尭は2挺を2千両で買い求め、 早速鉄匠八板金兵衛清定(てっしょうやいたきんべいきよさだ)に模造させている。 そして製法を和泉国堺(いずみのくにさかい)の商人橘屋又三郎に教えてしまった。
天文15年 (1546) ポルトガル人ジョルジュ・デ・ファリア、 メンデス・ピント、 ディオゴ・ゼイモト、 クリストバ・ボウリョなど6、 7人が直接府内城下の浜に上陸した。 すでに鉄砲の威力を知っていた城主大友義鎮おおともよししげは顧問としてディオゴ・ヴァス・デ・アラガンを5年間沖の浜に住まわせることにした。 大友家と種子島家とは深い関係があったからである。
豊後国の共同体
天文18年7月22日 (1549年8月15日) イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル神父、 コスメ・デ・トーレス神父、 ジョアン・フェルナンデス修道士は従者5人と薩摩国鹿児島城下稲荷川(いなりがわ)河口に上陸し、 市来(いちき)、 平戸、 山口、 堺、 京などを旅して再び平戸から山口へ来ていた。
天文20年 (1551) 8月、 豊後国日出城下青柳浜(ひじじょうかあおやぎはま)に一艘のポルトガル船が入った。 船長はドアルテ・デ・ガーマであった。 そこでフランシスコ・ザビエル神父が山口に滞在していることを知った城主大友義鎮は使者を山口に遣わした。 そのため急遽フランシスコ・ザビエル神父は8月15日 (9月15日) 小舟で周防国(すおうのくに)の湊(みなと)をたち8月19日 (9月19日) 府内へ来て城主大友義鎮と会っている。 だが、 マラッカからの連絡もないため一旦帰ることにして10月18日 (11月15日) 沖の浜からジョアン・フェルナンデス修道士など5人の従者と共に日本を去ってしまった。 彼は2年3ケ月に及ぶ日本滞在中、 鹿児島 (150人)、 市来 (20人)、 平戸 (180人)、 山口 (600人)、 府内 (50人) などで共同体をつくっていた。
府内のキリシタン寺
天文20年 (1551) 9月1日、 山口に残っていた日本布教長コスメ・デ・トーレス神父が一時府内へ逃れてきた。 続いて 天文21年8月19日 (1552年9月7日) ジョアン・フェルナンデス修道士に連れられたバルタザール・ガーゴ神父、 ベルキオール・ヌニエス・バレト神父、 ペトロ・デ・アルカソバ修道士、 ドアルテ・デ・シルヴァ修道士が府内に上陸した。 また、 弘治(こうじ)元年3月10日 (1556年4月1日) にも6人の宣教師が府内に上陸している。
天文22年6月12日 (1553年7月22日) 府内修道院が落成した。 すでに信者が700人にも達していたという。 それに続いて朽網(たくみ)、 臼杵(うすき)、 野津(のづ)にも教会が建てられ志賀、 高田、 玖珠(くす)、 由布にも伝道所がつくられていった。
大友一族とキリシタン
天正3年11月18日 (1575年12月20日)、 府内城主大友義鎮の次男親家(ちかいえ)がジョアン・カブラル神父から洗礼を受けた。 そして天正6年7月25日 (1578年8月28日)、 父義鎮 (宗麟) も臼杵においてジョアン・カブラル神父から洗礼を受けている。
代わって天正12年 (1584) 一族の浦辺衆(うらべしゅう)ロマーノ岐部が府内へ来て洗礼を受けた。 そして自領に宣教師を招き妻マリアに洗礼を受けさせたが、 家臣・家族など140人も洗礼を受けている。 それから2年たった天正14年 (1586) 6月13日薩摩国島津義久は大友一族を討たんとしたため12月1日には豊臣秀吉が島津征伐を命じている。 そのため宣教師たちは府内から逃れてしまった。
天正15年3月20日 (1587年4月27日) の復活祭に府内城主大友義統(おおともよしむね)、 岐部城主岐部左近大夫一辰(さこんたゆうかずのぶ)などが豊前国中津でペトロ・ゴメス神父から洗礼を受けている。 それから間もない5月23日 (6月28日) 大友義鎮は津久見で亡くなってしまった。 58歳であった。 それに12月21日 (1588年正月19日) には日本司教座が府内に置かれたが、 すでに府内は島津義久から奪回していた。
ペトロ岐部の誕生
天正15年 (1587) 豊後国伊美郷(いみごう)の浦辺(うらべ) (大分県東国東郡国見町) でロマーノ岐部とマリアの間に男子が生まれた。 ペトロ岐部である。 そして間もない2月21日 (3月29日) 豊前国中津教会で府内コレジョのペトロ・ゴメス神父から洗礼を受けている。 すでに天正9年2月1日 (1581年3月1日) から府内にコレジョ(大神学校)があったからである。 それに天正8年11月18日 (1580年12月24日) 以来、 臼杵にはノビシアート(修練院)があり、 ペトロ・レイモン神父がいた。
天正15年6月19日 (7月24日) 豊臣秀吉は突如として博多で 「キリシタン禁教令」 を発した。 そのため府内城主大友義統(おおともよしむね)は背教者となりキリシタンを迫害してしまった。 だが2、 3年で止んでしまった。 事実、 天正17年 (1589) 病弱の岐部城主岐部左近大夫(さこんだいふ)の正室が洗礼を受けたが数日後に亡くなってしまった。 ロマーノ岐部夫妻が洗礼を授けたという。
大友家の滅亡
文禄元年(1592)3月1日、 府内城主大友義統が朝鮮へ出兵した。 そして4月20日釜山に上陸したが、 翌文禄2年 (1593) 正月7日平壌郊外の戦いでは鳳山城(ほうざんじょう)にいたものの小西行長軍を援けずに退却してしまった。 そこで5月1日(5月31日)には改易されてしまい安芸国広島城主毛利輝元に預けられ周防(すおう)国大島郡大畠(おおばたけ)に蟄居した。 そして更に文禄3年 (1594) 8月11日には常陸(ひたち)国太田城主佐竹義宣(さたけよしのぶ)に預けられてしまった。
その時ロマーノ岐部は牢人したものか帰農したものかわからないがペトロ岐部は7歳であった。 あるいは肥後国宇土城主小西行長を頼って行ったかもしれない。 天正16年 (1588) 閏5月に島津征伐(しまづせいばつ)の功績で24万石を与えられていたからである。
大友一族の再結集
慶長3年 (1598) 8月18日、 豊臣秀吉が亡くなると大友義統は赦されて息子義乗(よしのり)のいる江戸牛込の屋敷に身を寄せた。 だが間もなく京へ上り慶長4年 (1599) 閏3月には徳川家康に会っている。 ところが、 慶長5年(1600) 8月18日大友義統は失地回復を狙い旧臣を誘ったが、 その中にロマーノ岐部もいたという。 だが、 9月13日の石垣原(いしがきばる) (別府市) の戦いで敗れてしまった。 結局、 大友義統は捕まり出羽国久保田に流されてしまい、 大友一族は四散してしまった。 それに小西行長も京の三条河原で処刑されてしまった。
慶長6年 (1601) 頃、 ロマーノ岐部一家は宣教師を頼って長崎へ行った。 そこでペトロ岐部 (13歳) は弟ジョアンと共にセミナリオ(小神学校)に入った。 院長はフランシスコ・カルデロン神父であった。 だが間もない10月4日(10月29日) セミナリオは焼けてしまい島原半島の有馬に移っている。
司祭への夢
慶長11(1606) 2人は6年間の過程を終えてセミナリオを卒業した。 ペトロ岐部19歳であった。 そしてさらにイエズス会の司祭になる決心をして差し当たりカスイと号して同宿(伝道士) となって博多か秋月のレジデンシャ(司祭館)で働くことになった。 秋月にはガブリエル・デ・マトス神父とアントニオ西修道士がいた。
その頃、 日本にいる宣教師の活躍は自由であり第3代日本教区長ルイス・デ・セルケイラ司教は伏見で徳川家康に会うなどしていた。 それに日本準管区長はフランシスコ・パシオ神父であり、 巡察師はバレンチノ・カルワリオ神父であった。 その上、 慶長13年(1608) 4月29日にはローマ教皇パウロ5世が日本の布教を各修道会に許可していた。
江戸幕府の禁教令
慶長8年(1603) 正月征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開いた。 そして慶長12年(1607) 3月には将軍職を徳川秀忠に譲り駿府に隠退した。 いわゆる江戸と駿府で二元政治を行なうようになったわけであった。 その背景には西国地方の豊臣恩顧大名(とよとみおんこだいみょう)への牽制があったからである。
慶長17年 (1612) 8月6日、 幕府はキリシタン禁制を法制化した。 それには駿府のキリシタン指導者岡本大八(おかもとだいはち)とキリシタン大名有馬晴信(ありまはるのぶ)との贈収賄事件があったとされるが真相は西国の外様大名が勝手に南蛮人や紅毛人と交易を行ない鉄砲や大砲の技術と材料を手に入れては困るからであった。 事実、 大坂方が反徳川を策略していたからでもあった。
キリシタンの追放
慶長18年(1614) 12月22日、 幕府は学僧金地院崇伝(がくそう こんちいんすうでん)の助言によりキリシタン宣教師を海外へ追放するとした。 そこで慶長19年(1614 正月3日キリシタン取り締まりの総奉行となった京都所司代板倉勝重(いたくらかつしげ)は7日以内に総ての宣教師が長崎に集まるよう命じた。 その時日本語の上手な京の修道院長ガブリエル・マトス神父は徳川家康に会見を申し入れたが長崎奉行長谷川左兵衛(はせがわさひょうえ)を通じて断ってきた。 それに正月8日(2月16日) 第3代日本教区長ルイス・デ・セルケイラ司教は追放令のショックで亡くなってしまった。 62歳であった。
続いて、 正月13日(2月21日) ガブリエル・マトス神父は大坂に集められたとき、 大坂奉行片桐旦元(かたぎりかつもと)や板倉勝重にあて徳川家康への弁明書を托している。 また長崎奉行長谷川左兵衛と親しかったディエゴ・デ・メスキータ神父も徳川家康に会うべく書簡を送ったが却下されてしまった。 彼は追放間際の10月13日(11月14日) 長崎で亡くなってしまった。 61歳であった。
長崎からマカオへ
慶長19年10月7日 (1614年11月8日) マカオへ向けて3隻の船が福田湊より出帆した。 いわゆるポルトガル人のイエズス会士や日本人神学生、 同宿など115人であった。 その中にペトロ岐部もいたわけである。 また前日の10月6日 (11月7日) にはマニラへ向けてスペイン人宣教師や日本人などが送られていった。
だが、 一説によるとペトロ岐部は単独でマニラからマカオへ渡ったともいう。 それは秋月の一人の殉教者の小指をマカオまで持っていったからである。 あるいは元和3年 (1617) 2月に第3陣としてイエズス会士5人、 ドミニコ会士2人、 それに数人の同宿がマカオへ送られているが詳しいことはわからない。
マカオの神学生教育
慶長19年10月18日 (1614年11月17日) ポルトガル人宣教師や日本人神学生などがマカオに上陸した。 そこで元和元年 (1615) 頃、 日本管区長マテウス・コーロス神父の助言もありビセンテ・リベイロ神父は日本人神学生や同宿の中から53人を選んでラテン語や神学の授業を始めた。 それはアルバ・ロペスの家など数軒の家を借りてのことであったが間もなく数人が脱退してしまった。
ところが元和4年 (1618) 頃、 司祭に不適格な者もいてカルワリオ管区長の反対により神学生教育を中止してしまった。 そこで不満をもった神学生の中には日本へ帰ったりマニラへ渡って他の修道会に入った者もいた。 だが、 その背景にはマカオのイエズス会では大量の会員が突如として来たため施設や経済面からも困窮していたからであった。
3人の教区神学生
元和4年 (1618) 春頃、 ラテン語が認められていたペトロ岐部 (31歳)、 ミゲル・ミノエス (27歳)、 マンシヨ小西 (18歳) の3人はイエズス会の司祭になるべく大胆にもローマへ行く決心をした。 そこで3人は船に乗りマラッカからゴアへと向かい5月頃上陸した。 そしてミゲル・ミノエスとマンショ小西はさらにゴアから船でローマへと向かった。
ところがペトロ岐部は唯一人で陸路ローマへと向かった。 途中、 ペルシヤの砂漠を通り聖地巡礼のためエルサレムによりパレスチナへと歩いた。 そして元和6年 (1620) 頃、 船でべネティアへと向かってローマに到着した。
司祭への道
元和6年 (1620) ペトロ岐部はイエズス会総会長補佐ヌーノ・マスカレニヤ神父の尽力でローマ教区本部で簡単なテストの結果教区神学生となった。 恐らく日本を追放されていたペトロ・モレホン神父や日本管区長マテウス・コーロス神父の紹介状が届いていたのであろうか。 9月23日 (10月18日) 剃髪、 9月24日 (10月19日) 守門となり9月25日 (10月20日) には読師となっている。 そしてローマ聖座の特別許可で適性確認の審問を受けるなどしていた。
続く10月7日 (11月1日) ローマのサンタ・マリア・マジョーレ教会の香部屋でイテリウム名義司教のパウロ・デ・クルテ司教により副助祭に叙品され、 10月14日 (11月8日) ローマ・ラテラノ大聖堂の香部屋でヒヤシント名義司教のラファエル・イニチヤト司教により助祭となっている。
司祭叙階式
元和6年10月21日 (1620年11月15日) の日曜日、 ペトロ・カスイ岐部神父はローマ・ラテラノ教会でラファエロ・イニチヤト司教により教区司祭として叙階された。 33歳の時である。 続いて10月26日 (11月20日) イエズス会聖アンドレア修道院の門を叩き10月27日 (11月21日) 受け入れられ、 元和8年 (1622) 10月までの2年間、 修練の傍らグレゴリアン大学で学ぶのであった。
その間、 元和6年閏12月6日 (1621年1月28日) ローマ教皇パウロ5世の死と葬儀ミサや、 閏12月18日 (1621年2月9日) のローマ教皇グレゴリオ15世の即位式、 それに元和8年2月10日 (1622年3月12日) には聖ペトロ大聖堂でイエズス会イグナチオ・デ・ロヨラ神父とフランシスコ・ザビエル神父の列聖式に参加していたと思われる。
ローマとの別れ
元和8年4月27日 (1622年6月6日) ペトロ・カスイ岐部神父は修練期の途中であったが迫害中の日本へ帰るべく総会長ムーティオ・ヴィテレスキー神父に嘆願してローマを去りチヴィタ・ベッキアから船に乗りジェノヴァを経てスペインのバルセロナ、 サラゴサ、 マドリッドを経て8月2日 (9月7日) ポルトガルのエボラに着き、 すぐモントリベトの修練院に入った。 そして残りの修練期を終えて10月19日 (11月21日) のミサで一人前のイエズス会士になったわけである。 それからリスボンのコレジヨに入り、 約1年間インド艦隊の出帆を待つことにした。
その間、 祖国日本からの報告書に接してキリシタン迫害の事実や仙台藩での出来事も知ったという。
海路日本へ向かう
元和9年2月25日 (1623年3月25日) サン・フランシスコ・ザビエル号、 サンタ・イサベラ号などガレオン船3隻とナウ船3隻がリスボンを出帆した。 そこには改宗したエチオピアへ向かうアルフォンソ・メンデス大司教と2人の補佐司教、 それにイエズス会司祭17人がいた。 その他ペトロ・カスイ岐部神父などインドへ向かう3人のイエズス会士と新任のインド副王などもいた。
やがて船団は3月4日 (4月3日) ポルト・サント島を通過し、 3月7日 (4月6日) カナリヤ諸島を通過して5月1日 (5月29日) 赤道地帯に入り、 5月4日 (6月1日) 赤道を通過した。 そして6月28日 (7月25日) には喜望峰を回り、 8月28日 (9月22日) モザンビークに入った。 そこでは約1年間越冬して、 寛永元年2月9日 (1624年3月27日) モザンビークを出帆して、 4月12日 (5月28日) ゴアに上陸した。
タイの日本人町に滞在
寛永4年 (1627) 正月にゴアを出帆しマラッカに着いた。 それも途中4隻のオランダ船から攻撃されて船から逃れ歩いてマラッカに着いたという。 そして一時マラリヤに罹り休養したが、 3月16日 (5月1日) にはマラッカを出帆することができた。 そして6月頃タイのアユタヤに着いたが、 約2年間身分を隠して日本人町に水夫として住むことができた。 そこには日本でのキリシタン弾圧を逃れてきた40人の日本人キリシタンがいたという。
寛永6年5月12日 (1629年7月2日) 運よくフィリピンへ向かう1隻のスペイン船がアユタヤに来た。 そこでマニラへと向かい、 7月にはマニラに上陸してイエズス会のコレジヨに入った。 ところがそこには同じく日本へ潜入する機会を窺っていたアントニオ・カルディム神父と9歳年長のミゲル松田神父がいた。 二人とも日本への便船がなかったからである。
ちょうどマニラ郊外ディラオの日本人町には、 15年前に日本を追放された日本人修道女伊賀マリアとマリア朴 (パク) がいた。 彼女たちとは旧知の間柄であったが、 その日本人町はフランシスコ会士の布教地であった。
祖国日本に上陸
寛永7年正月19日 (1630年3月2日) ペトロ・カスイ岐部神父とミゲル松田神父は、 修道会の援助で古船を買い、 キリシタンの水夫を雇ってルバング島へと向かった。 そこでは主任司祭マルチン・デ・ウレタ神父のお世話になったが、 ボロ船で5月頃日本へ向かった。 ところが途中薩摩国鹿児島に近い吐喝喇(とから)列島では台風に遭い座礁したため島民から船を買い、 目の前の坊ノ津ぼうのつ上陸した。 ペトロ・カスイ岐部神父43歳のときである。 実に16年ぶりの祖国であった。
続いて長崎に行きクリストヴァン・フェレイラ神父に会った。 だが長崎市中では町奉行竹中采女重義(たけなかうのめしげよし)や代官末次平右衛門(すえつぐへいうえもん)により、 キリシタン狩りの真っ最中であった。 そして8月には宿主から追い出されたミゲル松田神父が山中で亡くなり、 9月24日 (10月29日) には、 イエズス会日本管区長マテウス・コーロス神父が大村領波佐見村(はさみむら)で亡くなってしまった。 63歳であった。
仙台領水沢で布教
寛永8年 (1631) ペトロ・カスイ岐部神父は西国地方や京・大坂から逃れた信者がいる奥州仙台領へ行くことにした。 そのことは上方で布教中のディオゴ結城了雪(ゆうきりょうせつ)神父から聞いたからであった。 その頃仙台領にはイエズス会マルチノ式見神父 (57歳) ジョアン・バプチスタ・ポルロ神父 (58歳)、 それにフランシスコ会フランシスコ・バラハス神父などが活躍していた。
寛永10年 (1633) 10月、 仙台領北上川の河口石巻より舟で水沢城下へ来て三宅藤右衛門(みやけとううえもん)宅に隠れた。 46歳であった。 そこは寛永6年 (1629) 6月8日以来、 伊達宗利(だてむねとし)1万6千石の城下であり、 かつて近くの見分村(みわけむら)など4ヶ村はキリシタン後藤寿庵(ごとうじゅあん)の知行地 (1千200石) であり、 慶長16年 (1611) 頃からほとんどの領民がキリシタンであった。 ところが元和9年 (1623) 12月18日と12月19日の2日間仙台藩宗門奉行石母田大膳(いしもだだいぜん)と茂庭周防(もにわすおう)が村々を焼き打ちしてしまった。 そこでキリシタン100余人は隣の久保田領や南部領へ逃げてしまった。
島原の農民一揆
寛永14年 (1637) 10月23日、 西国地方の天草領・島原領の男女農民や子供など2万7千人が空城となっている島原城に立てこもってしまった。 そこで10月27日島原藩では隣の佐賀藩に応援を求めた際、 キリシタンの扇動としてしまった。 そこで幕府は12万6千人の兵を動員して約5ヶ月間にわたり島原城を包囲して翌年の2月28日に鎮圧した。 ところが幕府は援けを求めたオランダ軍艦の大砲の威力に驚き南蛮人・紅毛人ともやがては日本を占領するだろうとしてしまった。
寛永15年 (1638) 5月19日、 幕府は全国的にキリシタンの穿鑿(せんさく)を強化し、 9月13日には嘱託金をもって訴え出させ、 9月20日には3回目のキリシタン禁制を布告してしまった。 その上、 12月1日には全国諸大名に領内でのキリシタン取り締まりを命じている。 その頃、 全国のキリシタン宣教師は仙台領に4人、 山形領に1人、 大坂に1人がいた。
仙台藩の捕縛命令
寛永15年 (1938) 2月14日、 幕府老中は仙台藩江戸諸家老に領内での宣教師の捕縛を命じた。 そこで2月21日在所の家老に伝えられたため4月3日には領内で5人組を強化し、 12月2日には訴人制度の高札を領内各所に立てさせている。 すでにキリシタンに寛大であった初代藩主伊達政宗は亡くなり息子伊達忠宗(だてただむね)の時代になっていた。
寛永15年 (1968) 4月10日、 ジョアン・バプチスタ・ポルロ神父は奉行所に出頭し、 寛永16年 (1639) 2月30日、 マルチノ式見神父も仙台市中で捕まってしまった。 そして12月19日フランシスコ会フランシスコ・バラハス神父も捕まってしまった。
ペトロ岐部神父の捕縛
寛永16年2月13日 (1639年3月17日) ペトロ・カスイ岐部神父は同宿長三郎の訴えにより水沢城下三宅藤右衛門の家に隠れているところを捕まってしまった。 実に5年間の活躍であった。 すでに家主の三宅藤右衛門は捕まり寛永元年 (1624) 2月に水沢城下福原の刑罰場で処刑されていて妻 (50歳) と息子 (20歳) が残されていた。
長三郎訴人
一仙台領水沢と申所ニ三宅藤衛門と申者夫婦共ニきりしたんニ而御座候。 年五十許ニ罷成候。 男子壱人年二十許ニ罷成候。 木部宿をいたし候。
故 宗門之儀ニ存候
二月十三日
ペトロ岐部神父の江戸送り
寛永16年 (1639) 3月頃、 ペトロ・カスイ岐部神父は江戸に送られた。 記録によると 「彼等は神父を鎖で縛ったまま江戸へ送った」 とある。 いわゆる唐丸籠ではなく江戸まで91里を歩かせたわけであった。 そして直ちに江戸町奉行 (加々爪忠澄(かがづめただすみ)・酒井忠知(さかいただとも)) に引き渡されてしまった。 そこで江戸町奉行所や寺社奉行所、 勘定奉行所管轄の伝馬町牢 (中央区日本橋小伝馬町二丁目5番地) に入れられたわけである。 牢屋奉行は第2代石出帯刀吉深(いしでたてわきよしみ)であり当時は大牢一棟だけの牢であって3人の神父は一般囚人と一緒であった。
寛永16年6月20日 (1639年7月20日) 付のオランダ商館長フランソワ・カロンの日記によると 「最近尚3人の宣教師が捕らえられ牢獄に入れられている。 2人は日本人、 1人はスペイン人である」 としている。
評定所での詮議
寛永16年 (1639) 6月頃、 ペトロ・カスイ岐部神父、 ジョアン・バプチスタ・ポルロ神父、 マルチノ式見神父の3人は伝馬町牢屋敷の裏門から出され、 後手に縛られたまま馬に乗せられ、 付き添い人足2、 30人と共に龍ノ口にある評定所 (中央区丸の内一丁目新住友ビル周辺) まで送られてきた。 その評定所とは寛永13年 (1936) 正月11日に、 新しく江戸城和田倉門の向かいにあった伝奏屋敷を二分してできたものである。 以前は伝奏屋敷で老中や学僧などによって公事の沙汰が行なわれていたが、 余り御用もなかったらしい。
その評定所も明暦三3年 (1657) 正月の大火以後、 3月3日大手町の山名主殿矩豊(やまなとのものりとよ)屋敷跡に移されている。 将軍の居所に近い龍ノ口に手負疵を負った囚人たちが連れてこられると、 穢らわしいということであった。
背教の説得
評定所では4日間にわたり老中松平信綱(まつだいらのぶつな)、 堀田正盛(ほったまさもり )、 内藤忠重(ないとうただしげ)、阿部忠秋(あべただあき)、 青山幸成(あおやまゆきなり)、 阿部重次(あべしげじ) や寺社奉行 安藤重長(あんどうしげなが )、 松平勝隆(まつだいらかつたか)、堀直之(ほりただゆき)、 町奉行 加々爪忠澄(かがつめただすみ)、神尾元勝(かみおもとかつ)、 酒井忠知(さかいただとも )、 朝倉在重(あさくらありしげ)、勘定奉行 松平正綱(まつだいらまさつな )、 伊丹康勝(いたみやすかつ)、 大目付 秋山正重(あきやままさしげ)、 井上政重(いのうえまさしげ ) などが交代で詮議を行なった。
それに評定所では原則として 「訴人と引き合わす」 ことであり、 長崎奉行所御用人となった転びバテレンのクリストヴァン・フェレイラ神父が3人に背教するよう説得した。 彼は寛永10年 (1633) 9月16日に拷問の末、 転んでしまい寛永13年 (1636) 10月4日イエズス会から除名されていた。 そのときペトロ岐部神父はフェレイラに向かって 「世界の躓き」 「イエズス会の恥」 と嘲ったという。
当時、 『崎陽雑記(きようざっき)』 によると長崎奉行所には日本人1人と外国人2人の御用人がいたとある。 すなわち元和 5年 (1619) に転んだ了順 (ミゲル後藤神父)、 寛永3年 (1626) に転んだ了伯 (ディエゴ・コスタ神父)、 寛永10年 (1633) に転んだ仲庵(ちゅうあん )(フェレイラ神父) の3人であった。 だが正保3年 (1646) 10月の 『オランダ商館日記』 によるとディエゴ・コスタ神父はすでに亡くなっていたらしい。
将軍の尋問
評定所での詮議に続いて同じ龍ノ口にある大老酒井讃岐守忠勝(さかいさぬきのかみただかつ)屋敷 (千代田区丸の内一丁目三井信託銀行周辺) で第三代将軍徳川家光による尋問が行なわれた。 列席したのは柳生宗矩(やぎゅうむねのり)、 沢庵和尚(たくあんおしょう ) (品川東海寺)、 寄合衆朽木稙綱(くつきたねつな)であり、 3人の神父は将軍から直接の尋問を受けている。 そこはかつて旧会津藩主蒲生忠知(がもうただとも )の屋敷跡であった。
その後、 3人の神父の詮議は側用人中根壱岐守正盛(なかねいきのかみまさもり)、 若年寄朽木稙綱などの意見により大目付井上政重に一任されることになった。 それも彼は寛永15年 (1638) 3月13日に島原の農民一揆の戦況を将軍徳川家光に報告した際、 日本国中からキリシタンを撲滅させると進言していたからであった。
伝馬町牢内拷問蔵
やがて3人の神父は牢内で10回にわたり牢屋奉行石出帯刀と牢屋同心が立ち会いのもと御留守居役(おるすやく)大久保玄蕃頭忠成(おおくぼげんばのかみただなり ) (62歳) によって拷問されている。 主なる方法は木馬責めであったらしいが、 その頃の伝馬町牢は江戸市中最大の牢であり慶長11年 (1606) 以来常盤橋より移され、 2,677坪の敷地に牢屋と拷問蔵だけがあった。
だが宗門改役与力(しゅうもんあらためやくよりき)河原甚五衛門(かわはらじんごえもん)の覚書である 『査妖余録(さようよろく )』 によると 「キベキベイトロ召捕参候評定場江四度出申候ヘトモ御穿鑿キワマリ不申」 とあり、 ペトロ・カスイ岐部神父は転ばなかった。 ところがマルチノ式見神父とジョアン・バプチスタ・ポルロ神父は失神してしまったため、 転んだとされてしまった。 その後しばらくは小日向の山屋敷に収容されていたが間もなく殺されている。
ペトロ・カスイ岐部神父の穴吊り
寛永16年 (1639) 6月、 ペトロ・カスイ岐部神父と同宿2人は転ばないために穴吊しの刑を受けることになった。 それを 『宗門穿鑿式』 によると 「宗門ツルシ候時分ハ二三日モ前廉ニ町奉行所江申遣ツルシ場出来次第ニツルシ候モノ伝馬町籠屋ヨリ出遣候」 とあり、 その場所は 「大事之ツルシモノヲバ筑後守時分ニハ筑後守野村彦太夫ニ借置候野屋敷之内ニテツルシ候由」 とある。 すなわち代官野村彦太夫為重 (330石) の支配地新鳥越村であり 「浅草□□居申近所ニテ候」 とある。
いわゆる現在の待乳山公園 (台東区浅草七丁目) の近くであり、 今戸橋と山谷橋との間の南木戸の際であって、 少し高い場所にある明地 (長さ10間・幅2間) であった。 そしてその都度2、 3日前から吊し場を備えた野屋敷を造るのであった。
吊し殺され候
寛永16年 (1639) 7月頃、 ペトロ・カスイ岐部神父は殉教した。 52歳のときである。 憧れのイエズス会にあること19年であった。 『契利斯督記(きりすとき)』 によると 「キベキベイトロハコロビ不申候 ツルシコロサレ候」 とある。 その方法は 『宗門穿鑿式(しゅうもんせんさくしき)』 によると 「ツルシモノ参候得バ□□ニ申付ツルサセ候事」 とあり、 「町奉行所与力同心ハカマイ申サズ候」 とある。 いわゆる牢屋奉行の配下の者たちが行なっていたようである。 それもキリシタンの処刑は今まで斬首か火焙りであったが、 吊し殺しの刑の発案者は長崎奉行今村伝四郎正長(いまむらでんしろうまさなが)と曽我又左衛門古祐(そがまたざえもんたかすけ)であった。
また、 正しい場所は江戸の旧刑罰場は浅草元旅籠町の鳥越橋と甚内橋の間の明地であったが、 元和8年 (1622) 以来、 浅草新鳥越村の南木戸の周辺に移されている。 その跡地には文政10年 (1827) 頃、 三河島村の待乳山から浅草寺の末寺が移ってきている。
謎の死因
寛永16年10月7日 (1639年11月2日) 付、 オランダ商館長フランソワ・カロンの日記によると 「彼は行なわれたすべての拷問の後、 彼の裸の腹の上に小さな乾いた薪でゆっくり火がつけられた。 そこで彼が未だ死ぬ前に彼の腸は殆ど身体から飛び出した」 とある。 それを伝えたのは寛永16年 (1639) 7月19日長崎を出立し、 10月7日平戸に帰ったオランダ通詞貞方利右衛門(さだかたとしうえもん)であった。
また、 寛永15年 (1638) 4月27日マカオに上陸し、 寛永19年 (1642) 5月までマカオに滞在していたアントニオ・ルビノ神父が、 友人で長崎に入港したポルトガル船長ヴァスコ・パルヤ・デ・アルメイダから聞いた話として10月 7日付でローマの総会長あて報告している。 それによると 「ペトロ・カスイ神父はこのとき絶大な苦しみを受け焼けた鉄を全身に当てられることによってキリストの偉大な騎士として死んだ。 しかも彼は生きながら焼かれたと言われている」 とある。
土壇場での様し斬り(ためしぎり)
『宗門穿鑿式』 によると 「ツルシモノ相果候屍ハ様シ捨申候」 とある。 すなわち日本では古くから刀剣の価値を証明するために二体、 三体と屍を重ねて切れ味を試す制度があった。 それには侍、 僧侶、 女、 子供、 病人の屍には行なわないのが原則であった。 それも様し斬りの都度二尺の土盛をして土壇場を造り、 その後始末は浅草、 品川、 深川、 代々木などに住む□□たちが行なっていたようである。
また、 御様し御用は谷中初音町の御切手同心組屋敷(おきりてどうしんくみやしき)に住む山田朝右衛門(やまだあさうえもん)が代々襲名して弟子を使い行なっていた。 その場所は代官野村彦太夫支配地の浅草田原町の胴切長屋 (台東区雷門一丁目田原公園の地) の周辺で行なっていたようである。
埋葬された寺
『宗門穿鑿式』 によると 「只今迄ハ吉利支丹ハ死骸火葬スルコト無之候」 とある。 いわゆる荼毘にしないで 「屍ハ□□共ニ申付□□□□□ニ埋サセ申伝事」 とある。 すなわち定められた寺々の墓地に埋葬されていたわけであった。
おそらく天正18年 (1590) に浜町河岸に創建され廃寺となった古寺を慶長9年 (1604) 第二代弾左衛門(だんざえもん)が浅草鳥越村に中興開基させたが、 その林泉山本立寺(りんせんざんほんりうじ)ではなかったろうか。 正保2年 (1645) 5月第三代弾左衛門が新寺町 (台東区元浅草四丁目9番地) へ移したが、 幕末期には新鳥越村へと移されている。
あるいは元和8年 (1622) 浅草刑罰場が元旅籠町から新鳥越村へ移されたとき、 その処刑人を埋葬するため玄斎和尚(げんさいおしょう)が山谷橋際に西方寺 (台東区浅草六丁目36番地) を開基した。 その玄斎和尚も万治3年 (1660) に亡くなっているので、 キリシタン宣教師はどう扱っていたかはわからない。