教区の歴史

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世界病者の日・説教

2017年02月11日

2017年2月11日、カテドラル

[聖書朗読箇所]

説教

みなさん、今日は2月11日、ルルドの聖母の祝日となっています。  
1858年2月11日、スペインとフランスの国境に近い、フランス側のルルドという所で、少女ベルナデッタに、聖母マリアがお現れになった日であると、カトリック教会が認めております。  
ベルナデッタという少女、良い教育を受けることができなかったので、ラテン語はおろか、フランス語もきちんと話すことのできない少女であったそうです。  
そのベルナデッタに、「わたしは無原罪の御宿りである」と、現れた貴婦人が名乗ったという出来事を、カトリック教会は公式に認めて、ルルドは、世界で最も有名で大切な聖所となりました。  

さて、この2月11日を、聖ヨハネ・パウロ二世は、「世界病者の日」と定めました。  
ヨハネ・パウロ2世ご自身は、即位されたときは、まだ50代と、大変健康で元気な方であったと思いますが、その後、パーキンソン病という難病にかかられ、晩年は、大変お苦しみになりました。  
そのヨハネ・パウロ二世が、「世界病者の日」を定めたということは、大変意味深いことではないかと思います。  

いま、読まれました福音は、ヨハネの9章、生まれながらに目の見えない人の話です。  
イエスは、その人の目を開いてあげました。問題は、どうしてその人は、生まれながらに目の見えないという、難しい問題を負わされていたのかということです。わたしたちは、ほとんど誰しも、生まれつき決められている、いろいろな、「欲しくない、思わしくない条件」というものがあります。少なくとも、本人は、「このようなことは嫌だ」と思うことがある。  
今日の福音の箇所では、どうして生まれながらに目の見えないのかということが話しの中心になっています。  
当時、「その人本人が罪を犯したのか」、「生まれる前に罪を犯すということは、よくわからない」、あるいは、「両親が罪を犯して、その報いが子どもに伝わったのか」等々といった具合にいろいろな考えや議論がありました。  
しかし、イエスの答えは、いまお聞きになった通り、「神の業がこの人に現れるためである」と述べるだけです。どうして、そのようになったのか。原因や理由は言われませんでした。「神の業が現れる」。別の言い方をすれば、「神の栄光が現れるため」ということではないでしょうか。  
生まれつき目が見えないということは、「視覚障害」という言葉で言い表すことができるでしょう。しかし、障害とは別に、わたしたちには、さまざまな「疾病」という問題があります。「健康とは何か」というと、大変難しい議論になるようです。  
考えてみれば、全く問題なく、健康な人というのは、そういるものではない。同じ人でも、長い生涯の間に、何かの困難や問題を背負うことになります。  
仏教では、人生の困難を「生病老死(しょうびょうろうし)」と、4つの言葉にまとめているようですが、病気の「病(びょう)」です。  
「生きる」ということは、誰しも、「病気にかかる」、あるいは、「心身の不自由を耐え忍ばなければならない状態になる」ということを、意味しております。人間は、どうしてそのようになるのか。  

「神様がこの世界を造り、人間をお造りになったこと」について、創世記が伝えておりますが、神がお造りになった世界は良かった。極めて良かった。まさに、極めつきで良いと、創世記1章が告げている。  
それなのに、どうしてこのような、さまざまな問題があるのか。この問いは、多くの人を悩ませてきました。戦争は、殺戮、そのような社会的な問題だけではなく、ひとりひとりの人間にとっても、多くの困難をもたらします。そのような状況の中で、カトリック教会は、原罪という言葉で、いろいろな問題を説明しようとしてきました。  

12月8日は、「無原罪の聖マリアの日」、昔、「無原罪の御宿りの日」といったように思いますが、「聖母は原罪を免れていた」という教えを、深く味わう日です。そして、今日は、無原罪の聖母が、ルルドにお現れになったことを記念する日です。  

さて、人間には、「弱さ、もろさ」という問題とともに、「罪」という問題があります。「罪」と「弱さ」は別のことで、弱いこと自体が罪ではありませんが、逆に、元気で健康であっても、分かっていて、「神のみ心に背く」、あるいは、「神のみ心を行わない」ということがあります。そちらの方が、「罪」といわれます。  
わたしたちは、多少とも、罪を犯すものでありますが、更に考えてみれば、人間の「もろさ、弱さ」というものを、痛切に感じないわけにはいきません。この人間の問題は、どのような言葉で言い表したらよいのでしょうか。  

今日の第一朗読は、創世記の3章でしたが、こちらから、いろいろな教会の先人が、原罪の教えを展開しております。「神と人間の間に生じた不調和」、平和が失われた状態は、更に、「人と人との間の不調和」、そして、「人と被造物、この自然界との不調和」へと発展し、更に、ひとりひとりの人が自分自身の中に、「調和が失われている」、あるいは、「調和にひびが入っている」と感じるようになる原因となったと、カトリック教会は説明しています。  

今日、2月11日、ここに集うわたしたちは、主イエス・キリストによって、わたしたちが贖われていることを、その贖いの恵みが、わたしたちの生涯の中に働いていることを、そして、生涯の旅路の終わりに、その贖いの完成に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
わたしたちは、「罪」からの贖いだけではなく、わたしたち自身の、生まれながらに背負わされている、そのいろいろな問題からの解放、そして、完全な解放に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
それは、言い換えれば、イエス・キリストが、わたしたちの罪を背負って、十字架にかかってくださり、そして、復活された。その、イエスの復活の恵みに与ることを意味している訳です。  
わたしたちが背負っている、人間としての「弱さ、罪」、神の完全な解放への「信仰と希望」。それは、主イエス・キリストの復活の恵みに与ることができるという「信仰と希望」と結びついていると言えるのです。  

弱い私たち、そして、同じ罪を繰り返してしまうわたしたちでありますが、そのようなわたしたちを、温かく包み、癒し、贖ってくださる、主イエス・キリストへの信頼を深めて、今日のミサをお献げいたしましょう。