教区の歴史

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世田谷南宣教協力体合同堅信式ミサ説教

2016年10月23日

2016年10月23日、年間第30主日、田園調布教会

[聖書朗読箇所]

説教

本日、年間第30主日、ここ田園調布の教会において世田谷南宣教協力体の合同の堅信式が行なわれております。

堅信の秘跡は、洗礼を受けた神の子たちを、更に聖霊降臨の恵みに与らせ、主イエス・キリストのお望み、「全世界に行ってわたしの弟子を造りなさい」というお望みに応えて、キリストの弟子、使徒とする秘跡であります。

今日は「世界宣教の日」であります。わたしたちは、司祭だけでなく、全ての信者、信徒が福音宣教をするようにと、招かれているのであります。

さて、いま読まれましたルカの福音は、ファリサイ派の人と徴税人の祈り比較して教えています。祈りというのは何であるかということを考えてみますと、つまりは、神様に向かう心でありますが、神様に聞き、そして神様に心を向けることが祈りであると思います。

先週の主日の福音は、貧しいやもめの話しでありました。非常に困った事態があったのでしょうか、やもめはくじけずに、何度も不正な裁判官といわれる人に訴えました。それで、人を人とも思わないという裁判官に、何度もしつこく訴えたため、裁判官は、ついに根負けして、うるさくてしようがないから取り上げてあげようということになったという話でありました。まして、わたしたちの神は、限りなく正義の神であり、そして慈悲深い神であります。わたしたちの願いを聞き届けられないはずがないということを、わたしたちは信じています。ですから、わたしたちは神様に自分の願いを献げることができるし、献げなければならない。

やもめの願いが何だったのか分かりませんが、それではわたしたちの心からの願いは何でしょうか。ここにいらっしゃる皆さんは、それぞれどんな願いを神様にお献げになるのでしょうか。この徴税人の願い、それは、罪人のわたしを憐れんでください、ということでありました。人はどれぐらい自分の罪を認めているでしょうか。徴税人はこの社会の当時の人々から忌み嫌われて、後ろ指を指されるような存在でありますので、自分は人から嫌われる仕事をしている、或いは不正を働いたかもしれない、どう考えてもどうしようもない人間だ、神様どうか許してください、そういう祈りであったかもしれません。

わたしたちは、自分がそういうものであるとは思わないかもしれないが、しかしよく振り返ってみれば、自分の心を覗き、そして日々の言動を顧みれば、主イエス・キリストがわたしたちに望んでいるような自分ではないということは明確であります。どうか、このようなわたしでありますが、どうぞおゆるし下さい、神が望んでいることは、いつも神に立ち返り、神にゆるしを願うことであると思います。それに比べて、このファリサイ派の人というのは、形式では感謝しますということにしているのですけれども、内面は、徴税人を見下す心、そして自分の功績を数え上げ、自慢する心を表す祈りであります。

しかし、ひるがえってよく考えてみると、人にもよるでしょうけれど、自分の至らなさを、ゆるしを願いますが、自分のしてきたことを数え上げ自慢する、という部分がわたしたちの心にもあるかもしれない。

いつくしみの特別聖年が終了するところでありますが、これから、心からの悔い改めを行い、ゆるしの秘跡を受けて、「免償」を受けるよう、お勧めいたします。この機会に、自分と周りの人との関係について今一度反省しましょう。人は互いに負い目を負い合うものであります。

「わたしたちは人をゆるします。わたしたちの罪もおゆるしください」と神様に祈っております。そして、神様がいつくしみ深い方であること、神様が、そのいつくしみを主イエス・キリストによって現して下さったことをいつも心に思い、そして、イエス・キリストのいつくしみと愛を人々に表し、実行し、伝えて行くことがわたしたちキリスト教徒の務めであります。

今日、堅信を受ける皆さんが、いつくしみ深い神様、主イエス・キリストによって実現した神様の恵みを表し、そして、伝えて頂きたいと思います。