小金井教会堅信式説教

2016年10月16日

[聖書朗読箇所]

説教

みなさん、今日はミサの中で堅信式が行われます。堅信を受けるみなさんのためにご一緒にお祈りいたしましょう。また、今日の福音についてご一緒に考え、そして、分かちあいをしたいと思います。  

今日の福音で主イエスは言われました。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ということをお教えになりました。そのためにたとえを使われました。あるやもめと不正な裁判官の話であります。  
やもめという言葉、最近日常生活ではあまり日本語では使わないですけど、寡婦とか未亡人とか、どういう表現がよいかなと思いますが、やもめとなっていますね。  
やもめはイスラエルの社会ではイエスの時代も旧約聖書の時代も、更に非常に弱い立場に置かれていた人であります。男性中心の社会の中で夫が亡くなった場合、残された妻とその子供は、いろいろな難しい状況に置かれていました。  
ですから、やもめとみなしご、あるいは孤児、両親がいない子供、あるいは、父親がいない子供は、生きる上で大きな困難にぶつかっていました。  

イザヤ書を見ますと、こういう言葉が見つかりました。「善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取するものを懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。主なる神がこのように仰せになった。そうすべきなのにそうしない人がいたのであります。「支配者らは無慈悲で盗人の仲間となり、みな、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない」。そういうことが行われていたことが推定されます。  

この裁判官、不正な裁判官と呼ばれる、神を畏れない、そして、人を人とも思わないという人、そういう人が裁判官になることがちょっと考えられないのですが、そういう裁判官がいたということです。そして、このやもめはどういう困難に出会っていたのか書いてありませんが、非常に困っていた。そして、何度も何度も裁判官のところに訴えをしておりました。  
裁判官は彼女に同情したとか、あるいは、それが自分の任務であるから、自分の仕事であるからという理由で、あるいは、社会正義を実現することが自分の責務である、と考えたからではさらさらなく、ただうるさいからというとんでもない人ですね。でも、うるさいからという理由からだけでも訴えを取り上げた、という話でございます。  

不正な裁判官でさえ訴えを取り上げる、まして、わたしたちのイエスは言われる。主である神さまが、みなさんの訴えを聞き届けないはずがない。神さまは正義の神、いつくしみ深い神、憐み深い神であります。みなさんの訴えを知らないわけがない、必ず取り上げてくれる。  

それで話は終わるのかと思いますが、「気を落とさずに絶えず祈りなさい」。祈るということは、1回祈るのは誰でもできますが、気を落とさず、そして、いつまでも祈る。  
わたしたちは毎日どれくらい祈っていますかね。祈るというのはどういうことかということになりますが、もちろん、お願いすることだけが祈りではありません。  
しかし、お願いすることは、祈りの大切な要素であります。ずっと絶えず祈り続けるということは、実に重労働、重労働ということを言っている人がいるんですが、考えてみると、1回お願いしますと言って、それから、神さまいつかなえてくれるのかなぁ・・とぶつぶついうのは誰でもやっているんですけれども、絶えずいつまでもお願いするということは、本当にわたしたちの心の重労働であると思います。  

わたしたちの心の中におこる戸惑いとか疑問は、神さまはいつどういうふうにわたしたちの願いを聞いてくれるのだろうかということです。多分、神さまはご自分の考えでわたしたちのために最もよいように取り計らってくださる。わたしたちがわたしたちにとってよいと思っても、それが必ずしも本当によいことであるかどうかはわからない。  それは神さまがご存知であると思います。そして、祈るときは、主イエス・キリストの名によって祈りなさい、と教えられています。  

イエスの名によって祈るということは、主イエスがお願いする祈りになります。そういうようなことをわたしは天の御父には取り次げないよ、と思われたら困りますので、イエスに取り次いでいただけるような祈りでないといけない。自分の勝手な望みの実現をお願いする場合に、イエスは取り次いでくれないだろうと思います。  
祈るときに、どういう理由で、どんな動機で祈るかということが大切です。他の人よりも何かよいことがあるように、あっちが失敗して、こっちが成功するようにとか、みんなそういうことを言ったら、神さまはどうしたらいいんでしょうかね。  
そういう勝手な願いではなく、神さまがほんとうに喜んで聞き届けていただける、そういう願いを捧げなければならないと思うのであります。  

そして、気を落とさずに祈るためには、自分一人で祈るのではなく、一緒に、他の方と一緒に教会共同体として祈ることができれば、さらにふさわしいと思います。  
もちろん、個人的なことはその人だけの祈りでしょうが、他の方も一緒に願っていただけるような内容であると、それは大変素晴らしいことで、やってみると、感じますが、一人だけで祈るよりは、一緒に祈ることのほうが、元気が出るし、継続できるものであります。今、一緒に祈る素晴らしい祈りのときであります。  

堅信を受けられるみなさん、聖霊の賜物をお受けになるのであります。「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心」と祈りの言葉の中で表される聖霊の七つの賜物をお受けになるのであります。  
すでにいただいたわたしたちは、その恵みをもっと生きることができますように、その恵みに応えることができますようにご一緒にお願いいたしましょう。