教区の歴史

教区の歴史

真生会館新規会館記念ミサ説教

2016年10月11日

2016年10月11日、真生会館

[聖書朗読箇所]

説教

新しい立派な真生会館が、竣工になりました。心からお祝い申し上げます。おめでとうございます。 今日、このお祝いのミサで読まれる聖書の箇所、旧約聖書の知恵の書、そして、ヨハネの福音を読んで、考えましたことを今から、一言二言申し上げます。 わたくしたちは、教皇様の意向に従って、「いつくしみの特別聖年」を祝っております。 天の父がいつくしみ深い方であるから、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい、と主イエスは言われた。そして、教皇様の特別聖年を告げる大勅書にありますように、イエス・キリストが天の父のいつくしみのみ顔、そのものであります。 イエスに出会った人たちは、神のいつくしみに触れ、そして、いつくしみを受け、自分自身がいつくしみを人々にあらわし、伝える者に変えられたのであります。 今日のヨハネの福音は、そのようなイエスに、初めて出会ったときのことを使徒たちが回想する部分ではないかと思います。 ところで、いつくしみ深いということは、どういうことなのでしょうか。 わたしたちは、人に対して、なかなかいつくしみ深くできないという現実を思い知らされるのであります。 昨日ですけれども、カテドラルで子どもミサがありまして、福音書の朗読として、「七の七十倍赦しなさい」という箇所が取り上げられて、その箇所について、わたくしがお話をしなければならなかった。 そこに集まっている子どもたちに、どのように話したらよいのか、このところ二ヶ月ほど、ちらちらとその思いが胸をかすめ、とうとうその日が来てしまったのです。 わたしたちは、実際人にはいつくしみ深くして欲しい、と思うのですけれども、自分の方は、人に対していつくしみ深くあるということはできていない、案外できているつもりかもしれないが、相手から見れば、全然なっていないということではないかと思うのです。 特に、近い人、家族、親子、夫婦、友人、あるいは、いつも一緒に働く人、そういう人の間で、お互いにいつくしみ深くあるということは、どんなに難しいことかということを痛感して過ごしてきました。 そして、それについて、わたしの胸に浮かんでくる仏教の教えがございます。なぜ、仏教かと言いますと、司教協議会で諸宗教部門を担当しておりまして、他の宗教の方のお話を聞く機会があり、触発されて、自分でも仏教の教えを最近しみじみ味わい、更にもっと知りたいと思うようになっているからです。 わたしたちの心は本当に始末の悪いものであって、よく煩悩と言いますが、仏教では、人間の心は三つの毒、「三毒」で毒されているといいます。「三毒」というのは難しい漢字で説明されていますが、わたくしが理解した言葉で言いますと、まず、「貪(むさぼ)り」ということです。貪欲の「貪」(とん、と読)という字なのですが、この「貪(むさぼ)り」には限りが無い。 それから、「憤(いきどお)る、恨(うら)む、妬(ねた)む」ということを表す「瞋(じん)」という字。これは、めへん(目)に真理の真の旧字体(眞)を書きますが、この気持ちを絶滅することが、非常に難しい。 そして、三つ目が、「癡(ち)」という難しい字です。これは、「無知、無明(むみょう)、愚(おろ)かである」ということだそうで、「癡(ち)」という字は、普通は、やまいだれ(疒)の中に普通は知識の「知」なのですが、三毒の三つ目は「疑(うたがう)」という字を書きます。人が、貪ったり妬んだりするのも、「癡(ち)」の状態にあるからだと、すべての人間の心の問題は、「無明(むみょう)」というところに根差しているというわけなのです。 真理が分かっていない、見えない、分かっていないから、そのように心が揺れ動く。人のことが分からない、すぐそばにいる人のことが分からない、分かったつもりでいる、相手にどうしたらよいかということを勝手に判断する。・・・わからないことの内容が大したことではないのであればそれで済ますのですけれども、人生における重要なことについて、ものすごい思い違いがあると、その被害は甚大であります。 どうして分からないのだろうか。人のことは分からない。でも、自分のことも分かってもらっていない。光が差していない。仏教でいう「無明(むみょう)」。 それは、わたしたちキリスト教徒の場合はどうなるのでしょうか。わたしたちは、イエス・キリストに出会った。イエス・キリストという光を認めた。イエス・キリストから光を受けて、日々歩んでいる。どのくらい、その光を見つめ、その光に照らされているのだろうか。 わたしたちの教会というのは、イエス・キリストの復活、昇天、聖霊降臨のできごとによって、聖霊を受けて設立されました。今わたくしたちは、聖霊の時代を生きているのであります。この聖霊の働きがあるときは、非常によい。しかし、あまりよく働かない場合もある。ちょうど、復活の光をともす、灯火が明るく輝くときもありますが、暗くなり、消えそうになる場合もある。 主イエスは、地上を去るときに、「わたしは世の終わりまで、あなたがたとともにいる」とおっしゃったのでありますが、ともにいてくださるということを、わたしたちは信じている。しかし、信仰が足りないのですけれども、本当にどこにいらっしゃるのだろうと思うような暗い状態が、つい目についてしまう。暗い中で光をもっと見つめて、光をともさなければならない。そう自分でも思い、そのようにお願いし、祈っているわけであります。 この真生会館は、「道、真理、命」であるイエス・キリストにならう、従うために、設立されたと、わたしは理解しております。 イエスは言われたのです。「わたしは、道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14・6) それは、イエス・キリストという光を受け、キリストによって示された神の知恵をより深く知り、そして、それを広め、行うことが、真生会館の趣旨ではないだろうかと思います。 わたしたちが受けた教育は、「意志」ということが大切にされていました。つまりよいことを行う強い意志を求めるものです。 そうれはそうとして、もっと真理を知ることが大切だと思います。わたしたちが真実をよく見つめ、その現実に基づいて、ふさわしく判断し、行動するという知恵、その知恵を分かち合うということが、大切なのではないだろうか、と思います。 旧約聖書、新共同訳では続編になっていますが、「知恵の書」は、その点、非常にわたしたちには親しみやすいない教えです。旧約と新約を結ぶ役割を果たしているのではないかと思います。 その中で、以下のような趣旨の教えに出会います。即ち、「神は、すべての被造物を限りなくいつくしんでくださる。この地上に存在するものはすべて、神のいつくしみの作品である。もちろん、人間はその最たるものである。」(知恵11・23-26参照)  その「知恵の書」のが呼びかける趣旨内容を、深く心に刻み、お互いにそういうものとして、助け合い、知恵を分かち合っていきたい。そのために、真生会館の働きがありますように、期待しております。 今日はおめでとうございます。