年間第24主日・諸宗教部門シンポジウム中ミサ説教

2016年9月11日、カトリック金沢教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

金沢の教会の皆様、おはようございます。わたくしどもは日本カトリック司教協議会で諸宗教部門を担当しております司教、司祭、そして協力者の一団でございます。昨日から大変お世話になっております。ありがとうございます。

ご存知のように、わたくしたちは教皇様のご意向に従いまして、「いつくしみの特別聖年」を祝っております。今年の11月20日で終了いたしますが、改めて神のいつくしみを考えて、そして人々に仕えることができますようお祈りし、そしてさらに深く学んでいきたいと思います。
「いつくしみ」という言葉は、わたくしどもキリスト教の教えであるだけでなく、恐らくすべての宗教も「いつくしみ」ということを教えていると思います。毎年、この諸宗教部門による勉強会、シンポジウムを行っておりまして、他の宗教の先生にお越しいただいて、お話しを伺っております。
去年のことを言うのは恐縮ですけれども、同勉強会が埼玉県の大宮教会で開かれました。「平和」ということについて話し合ったのでございます。どの宗教も、平和ということを大切にしております。
平和を乱すものは何であるかというと、そのときにお話しくださった仏教の方のお話でありますが、人間の心には平和を乱す三つの毒、三毒というものがあるのだそうです。
難しい漢字ですけれども「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」といいます。「貪(とん)」とはむさぼるということ、「瞋(じん)」というのは怒る、嫉む心、「癡(ち)」というのは人間の心が闇に潰されていて、物事がよくわからない状態、愚かである、無知であることだそうです。

さて、今読まれましたルカの15章の福音、この箇所はまさに「いつくしみの特別聖年」の精神を示しており、非常に大切な教えでございます。
特に、「放蕩息子」の話は、神様がいかに、どんなにいつくしみ深い方かということを教えています。まだ生きているお父さんに向かって、自分が将来もらうことになる遺産の分け前をくださいという、なんと親不孝な身勝手な願いでしょうか。そういう願いを出してお金をもらって、遠いところに行って全部使い果たしてしまう。
この息子の心の中には、仏教でいう三つの毒が大いに働いているような気がします。
仏教では「煩悩」というそうですけれども、この煩悩というのは、自分のことしか考えない、自分がしたいようにしたい、そして人の悲しみや迷惑を考えない、そういう人間の状態です。それは多かれ少なかれ、多少わたしたちが陥っている問題ではないでしょうか。
自分がどんなにかみこころに背いた状態であるか、ということを知らない。仏教では「無明」-光がない―というのでしょうか。でも、そういう人間を神様は見捨てないどころか、心から大切に思ってくれています。心配してくださっています。そういう子どもであるわたしたちのために苦しんでいます。
お父さんは、息子が帰ってくるのを見つける、まだ遠くにいたのにすぐに気がついて、喜んで息子を迎え入れました。立派な服を着せ、指輪をはめさせ、靴を履かせ、自分の息子としての待遇をして喜んで迎え入れました。
どんなに間違った状態にあっても、どんなに罪深い状態にあっても神の子であることに変わりありません。仏教ではすべての人には仏様が宿っていると教えているようであります。
わたしたちは神の子であります。たとえ罪を犯しても神の子であることがなくなるわけではない。神様が被造物としてお造りになった人間であります。
そこには神様のいつくしみ、神様のすばらしさが宿っている。それが曇ったり、歪んだりしてしまうことがあるし、完全に輝き渡るということは難しいのでありますけれども、神様にとっては愛おしい、なくてはならない大切な人間であります。
「あわれむ」という日本語は誤解されがちですね。いわゆる上から目線、上から下にいる者に恵んであげるという意味に捉えられがちであります。
神様の恵みはそういう恵みではないと思います。心から大切に思ってくださる、そして、いわば対等な向き合った関係であって、そして人間が自由に自分から神様の方に向かっていくまで待ってくださる。
また、どんなにあなたが価値のある尊い存在であるかということを悟るように心から願ってくださいます。
「いつくしみ」というのは誰かが誰かに物を与えたりする関係ではなくて、お互いに相手を大切な存在として認め合い、分かち合うという、そういう心の働きが「いつくしみ」ということではないかと思うのであります。なかなか難しいことだと思います。

わたしたちは兄弟姉妹、大切な人の中にイエス・キリストがおられるということを心から信じ、そしてイエズス様にお仕えできるように、謙遜に仕え務め通すことができますようにお祈りしましょう。