年間第13主日 (聖ペトロ使徒座への献金)ミサ説教

2016年6月26日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

今日のルカによる福音の冒頭の部分は
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9・51)
となっています。主イエスの強い決意が現されている緊迫した場面です。
イエスは自分に従う者には、直ちに家族を捨てることを求めます。「まず、父を葬りに行かせてください」と言った人には、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9・60)と言われました。
また、イエスに従う前に家族への暇乞いを求めた人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9・62)と言われました。
これに対して、今日の第一朗読、列王記はエリヤがエリシャを呼び出す場面を告げています。
ここでは、エリシャが父母にいとまごいをすること、送別会を催すことを許しています。エリヤの態度の方が常識的です。
イエスの言葉は原理主義的過ぎるという印象を持ちます。無慈悲なことばではないでしょうか。このイエスの言葉をどのように受け取ったらよいでしょうか。
そこでわたしは自分の人生で起こったある場面を思い出します。ある人がわたしに忠告しました。「考えすぎないようにしなさい。」
でも考えないわけにはいかないのです。しかし考えると、いろいろな問題や課題が心に浮かんできて決心できません。慎重な人は、「ああでもない、こうでもない」と考えて、なかなか結論に至らないものです。
この忠告の意味は、「考えないようにする」のではなく「考えすぎないようにはするな」という意味でしょう。
人生には「決断の時」があります。その時を過ぎるともはや手遅れ、新しい人生を始めるための機会を逸してしまいます。主イエスの声を聞くならその時が決断の時です。
詩編で言います。「きょう、神の声を聞くなら、・・・神に心を閉じてはいけない。」(詩篇95より)
使徒パウロはダマスコへ向かう途上で復活したイエスの声を聞き、イエスに従う道を選びました。
おそらくパウロの心の中で何かが進行していました。彼は多くのキリスト者を迫害していましたが、その体験のなかでイエスへの思いが少しずつ熟して行ったのではないでしょうか。木の実が熟して落ちるように、イエスの霊の働きがパウロの中で熟し、復活したイエスの声となって彼の心に届いたのではないでしょうか。
パウロの回心の道は、イエスの霊に生かされ導かれるという道です。パウロは第二朗読で言っています。
「霊に導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5・16)
問題は、真に主イエスの声に従うかどうか、です。隠れた自分の欲望を満たすためにイエスの名を使うようなことがあってはならないのです。
わたしたちの心には種々の声が聞こえてきます。どの声が神の呼びかけ、主イエスの声でしょうか。その識別と判断をしなければなりません。それはわたしたち各自の責任です。誰も代わりえない責任です。わたしたちは自分の判断と選択に責任を取らなければなりません。
聖霊の導きと照らしとを祈り求めましょう。