大森教会司牧訪問説教

2016年6月19日、年間第12主日

[聖書朗読箇所]

説教

今日の福音の箇所は、メシアの受難の予告の場面です。
イエスは弟子たちに訊ねました。「あなたがたはわたしを何者だというのか。」
ペトロは答えました。「あなたは神からのメシアです。」
メシアとはヘブライ語で「油を注がれた者」という意味です。旧約聖書では、通常、王や大祭司などの指導者を指していました。旧約聖書には、ダビデ、ソロモンをはじめ多数の王が登場します。
元来、イスラエルには、王は存在しませんでした。主なる神こそが王でした。その代わりに神から遣わされた者として、祭司、預言者、あるいは士師と呼ばれる人々がおりました。しかし、イスラエルの民が王を強く求めたので神はその願いを容れて、王の任命を認めた、と旧約聖書(サムエル記上)が告げているのです。
王とは地上において神のみ心を行うべき牧者のことです。正義といつくしみを実現すべき人です。特に、弱者である、未亡人、みなしご、貧者、病者、障がい者、寄留の外国人などを保護し、その権利を守るべき人でした。
しかし彼らの多くは、私利私欲にはしり、過酷な支配を行い、民を苦しめ、弱者の訴えを顧みませんでした。旧約聖書は、彼らは「主の目に悪とされることを行った」(列王記上15・26他多数)と述べています。
預言者たちはこの悪しき牧者を批判して声を挙げました。そして「よい牧者」の到来を待望し予言しました。本日の第一朗読はその例ではないでしょうか。
イエスは善い牧者として到来しました。
イエスの時代、ユダヤはローマ帝国の直轄地となっており、人々の生活は「長老、祭司、律法学者」とよばれる宗教上の指導者たちの影響下に置かれていました。イエスはこの宗教指導者と鋭く対立することになったのです。イエスを死に追い詰めたのは、実はユダヤの宗教指導者たちだったのです。
死刑の決定と執行はピラトの名により、ローマ帝国の国家権力によって行われましたが、そうなるように仕組み、追いやった人々は、律法学者、ファリサイ人々、祭司たちでした。
イエスと律法学者、ファリサイ人々との間には越えがたい隔たりがありました。律法についての理解、神についての理解に間には、越えがたい隔たりがあったのです。
それを示す典型的な出来事は、イエスが安息日に手の萎えた人を癒した、という事件です。彼らは怒り狂い、「イエスを何とかしようと話し合った」(ルカ6・11、cfマタイ12・14)、とあるのです。
また律法学者を非難して言いました。{あなたたち律法の専門家も不幸だ。人に負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。(ルカ11・47)
イエスの説いた神は、いつくしみ深い父である神でした。
本日の福音でイエスは
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)
と言っていますが、他方次のようにも言っています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・28-31)
おりしもわたしたちは今年、『いつくしみの特別聖年』を祝っています。主イエスは神のいつくしみのみ顔です。イエスに出会った人はいつくしみ深い神に出会ったのでした。律法学者・ファリサイ人はいつくしみ深い神を説くイエスを理解せず、排斥し、抹殺するに至ったのでした。
神のいつくしみを生きるということは、イエスの生き方に倣うことであり、自分の考えや自分の思いに固執しないこと、自己中心の生き方を日々改めることであると思います。
実に、本日の福音が告げているように、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う」」(ルカ9・24参照)のであります。
このようなイエスの弟子として歩むためには聖霊の助けを受けなければなりません。

今日はこらから堅信式が行われます。堅信の秘跡はわたいたちがイエスの弟子として生涯歩むための聖霊の助けを与えます。
堅信の秘跡の与える聖霊の助けは、司教の唱える祈りで示されている聖霊の七つの賜物、すなわち「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心」であります。

なお本日はよい準備を終えて教会学校の生徒さんが初聖体をお受けになります。主イエスはご聖体となってわたしたちの心に来てくださいます。わたしたちと一致し、わたしたちが主イエスのように生きるための恵みと力を与えてくださいます。
感謝と喜びのうちにご聖体をいただき、神のいつくしみを深く味わいましょう。この恵みを他の人に伝えうることができますよう、ご聖体の主イエスに祈りましょう。