吉祥寺教会堅信式説教

2016年6月5日、年間第10主日

[聖書朗読箇所]

説教

皆さん、本日は年間第10主日でございます。ミサの中で堅信式が行われます。折しもわたしどもは、教皇様のご意向に従って、「いつくしみの特別聖年」を祝っております。
いま読まれました福音は、「いつくしみの特別聖年」の意味を改めて黙想するために非常にふさわしい箇所であると思います。

今日の福音書は、ナインという町で起こった出来事を伝えています。ナインというところは、ナザレに程近い、ナザレの南東数キロにある町だということであります。イエスと弟子たち・群衆の一行が、ナインの町の門に近づきますと、反対側から一つのお葬儀の一行が近づいてきた。二つの行列が行き交うという場面になりました。

ちょっと話が逸れますが、わたしはカトリック美術協会の顧問司教をしておりまして、毎年5月に展覧会があります。その出品の中に、この場面、ナインの町で起こったこの出来事を描いた絵がありました。もし、私どもがこの場面に居合わせたら、強い印象を持ったに違いありません。

一人の母親がいた。そして、一人息子が亡くなりました。“やもめ”とありますので、夫がいない。子どもは息子一人だけ。いまでもそうですが、特にその時代、その場所では、母親と一人息子という家族は、たいへん弱い立場に置かれていた。その頼りになる息子に死なれてしまった母親の悲しみ、嘆きは、どんなに深いものであったことでしょうか。

“主は”の「主」は、イエス・キリストのことですけれども、ここでは「主」となっております。わたしたちは「主イエス・キリストを信じます」と言いますが、ルカの福音で、ここですでに「主」と言われております。“主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた”。

この“憐れに思い”は、有名な言葉です。人間の内臓が、人々の悲しみ、苦しみ、痛みに対して反応するという、深い同情を表すということから来ている言葉です。「内臓」「腸」という言葉から生まれた言葉です。「スプランクニゾマイ」というそうですけれども、これは、他にも例えば「善いサマリア人」の話にも、サマリア人が、道に倒れている追いはぎに襲われた半死半生の目に遭っている人の様子を見て、“憐れに思い”と言っていますが同じこの言葉、この動詞が使われています。
イエスは母親を見て、憐れに思ったのです。
このイエスの家族は、もちろん、母はマリア、そして父はヨセフ。でもこの時点で、ヨセフは、たぶんもう亡くなっていた。もしかしたら、母と息子という二人の、二人きりの家族であったのか、親類と一緒に暮らしていたのかもしれませんが、ともかく息子としてのイエスは、この母親の悲しみに深く、強く共感したのであります。

“…「若者よ、あなたに言う、起きなさい」…すると、死人は起き上がってものを言い始めた”。「起きる」ということは、復活を思い起こさせる。「起きる」ということは、死者の中から起き上がる、復活するということを連想させます。もちろん、この息子は生き返りましたが、復活したわけではないので、いつかはまた死ななければならなかったでしょう。

おそらくこの出来事は、イエスの復活によってわたしたちの中にもたらされた復活の「いのち」、永遠の「いのち」を、あらかじめ指し示す出来事、わたしどもに希望を持たせるための出来事ではなかったかと思います。

“イエスは息子をその母親にお返しになった”。母親にとって大切な一人息子、その母と息子の絆がどんなに大切であるかということをよく理解しておられたイエスは、母親と一緒に息子の命を大切に思い、そして、命が呼び戻されたことを、心から喜んだのであると思います。

今日の第一朗読も同じような話でありまして、預言者エリヤがやもめの一人息子を甦らせたという話であります。よく似ていますが、読み比べてみると、かなり違う部分もあります。旧約聖書から新約聖書への発展の様子がうかがえるような気がいたします。

さて、わたしどもは「いつくしみの特別聖年」を過ごしております。イエスは弟子フィリッポに向かって言いました。「私を見た者は、天の父を見たのである。天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい」と言われています。いま、わたしたちはこの呼びかけを自分自身のものとして受けとめましょう。
 特に、今日、堅信の秘跡を受けられる皆さん。聖霊の賜物を受け、この言葉、「いつくしみ深い者でありなさい」という言葉を深く心に刻み、そして、日々いつくしみを生きる者であるように心がけ、祈りましょう。

いつくしみ深くあるということは、人間の力では、なかなかできないことであります。神の助け、聖霊の導き、聖霊の光がなければなりません。

今日の第二朗読は、ガラテヤの手紙であります。使徒パウロが強調していることは、自分は復活したイエス・キリストから啓示を受けたのだ。イエスが生きていた時に、パウロは側にいた者ではない。
ですから彼が使徒職に就くことについて疑問や、あるいは反対もあったのかもしれない。彼は強調しなければならなかった。自分の使徒職は、復活したイエス・キリストから直接受けたものである。そして、聖霊の働きによるものである、と強調しています。
さて、わたしども教会も、生前のイエスに出会ったわけではない。イエスから聖霊を受けて、聖霊の助けによって、わたしたちはイエス・キリストの御業、いつくしみの御業を行うことができるのであります。「わたしを見た者は、父を見たのである」。その同じ言葉をわたしたちは、自分のこととして受けとめなければならない。わたしたち教会は、罪を犯す人間、過ちのある人間、欠点のある人間から成り立っております。しかしこのわたしたちのうちに聖霊が宿り、そして、聖霊の働きを通して、神のいつくしみを行う者となります。

堅信の時に授けられる聖霊の賜物、理解と判断、知識と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心。この賜物を、わたしたちは自分自身の心の中に深く受けとめ、そして日々の生活の中で、主イエス・キリストのいつくしみの業を行う者となるのであります。

そのために、今行われている堅信式はたいへん大切でありますが、さらに日々、聖霊の賜物を祈り、新たにするように心がけたいと思います。
特別聖年、「いつくしみの特別聖年」にあたり、わたしたちに出会う人が、主のいつくしみ、主の愛を感じ、受けとることができますように、心を合わせて祈りましょう。