復活節第6主日説教

2016年5月1日、五井教会

 [聖書朗読箇所]

説教

「いつくしみの特別聖年のための祈り」の中に次のような祈りがあります。

「教会がこの世において、復活し栄光に満ちておられる主のみ顔となりますように。」

わたしたち神の民である教会は、主イエス・キリストの復活を告げ知らせるという使命を受けています。わたしたち弱い人間の集まりですが、わたしたちを通して復活の栄光が輝き出ますように祈ります。

「これら仕える者に出会うものすべての人が、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができますように。」

「仕える者」とはわたしたち教会のひとり一人を指します。人々がわたしたちを見て、自分が神から愛されている、必要とされている、赦されている、と感じてもらえるようでなければなりません。そのためにはまずわたしたち自身が、神から愛され、必要とされ、赦されている、者として日々歩んでいなければならないのです。

そのことに関して最近、しきりに心に浮かんでくる聖書の言葉があります。それは「知恵の書」11章23-26節です。 

「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。」 

神はご自分の作品である人間を愛しています。そこにかけがえのない価値を認めています。人がどんなに罪深く、あるいは弱く惨めであっても、それゆえに神が人を嫌い見捨てることはありません。神はご自身の似姿人間を否定することはできないのです。それはご自身を否定することにつながるからです。 

 

さて今日の福音ですが、次のように言われています。

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14・26-27)

真理の霊である聖霊が弟子たちに与えられるとき、弟子たちはイエスの言葉の意味を悟ります。すなわち、神は愛に神、ゆるしといつくしみの神である、と悟ります。

主イエスの与える「平和」は、罪の赦し、救いの喜びであります。愛され赦されているという信仰による喜びです。

今日はこれから洗礼式が行われます。洗礼は、信じる者に、神の霊を注ぎ、その人を新しく生まれ変わらせる神の恵みを授けます。

受洗者は白いヴェールを受けますが、それはキリストを着て、新しい人になる、ということを意味しています。

ろうそくを受けますが、それは、復活の光を掲げる人になる、ということを意味しています。

洗礼は神の子としての新しい旅に出発であります、行き着く先は聖なるエルサレム、神の国の完成した世界、神の支配の完成した都であります。その都の様子を今日の第二朗読、黙示録が示しています。

これから洗礼を受ける方の、神の都への旅路を、主イエスと聖母マリアがまもり導いてくださいますように。