四旬節第3主日の説教

2016年2月27日(土)夜6時のミサで 築地教会

[聖書朗読箇所]

説教

四旬節も第3主日を迎え、今日の福音(ルカによる福音)では、「悔い改め」と「回心」を求める話が告げられています。
イエスはしばしば、自分をお遣わしになった天の父について話されました。イエスが伝えた神は、モーセに現れた神であります。今日の第一朗読は、『出エジプト記』の3章で、モーセに、イスラエルの神、先祖の神、アブラハム・イサク・ヤコブの神が現れたという話を伝えています。そして、この神の名前が不思議な名前で、「わたしはある」となっています。
ふつう日本語で「わたしはある」とは言わないです。「わたしはある」というこの表現は、他の言語ではどうなのか。
例えば英語では「I am that I am」です。日本語では「いる」と「ある」の区別がついています。
人間はふつう「いる」であり、「ある」は物などです。ですが、そこは神様ですから、われわれ日本人の考えは通用しないと思います。
そもそも名前は非常に大切なものです。「お名前をうかがう」のは重大なことです。名前を告げることは、「わたしをあなたに渡します」というぐらいの意味が昔はあったようです。名前をお聞きすることは、相当の思いを込めて聞くことであって、軽々しく名前を聞いたり、名前を呼んだりするものではありません。神の十戒に「軽々しく神の名前を唱えてはいけない」とあります。
われわれ人間の間でも相手をどう呼ぶかについては、その場に応じて使い分けています。距離や間柄が呼び掛けに反映するのです。馴れ馴れしい失礼な言い方は、ふつうはしません。
ですから「わたしはある」という返事は、もしかしたら神様の名前を聞くのは非常に失礼なこととであり、人間がなすべきことではないという意味が込められているのだ、いう説があります。つまり、「名前は教えませんよ、わたしは神様だから」という説です。
しかし神様は、「わたしはいつもあなたがたと一緒にいて、いつもあなたがたを助け、導く神」であります。イエスが天に昇られる時に弟子たちになんと言われたかを思い出してみましょう。「わたしは世の終わりまで、あなた方とともにいる」と言われましたね。「ともにある」ではなく「ともにいる」でした。
ところがイスラエルの人々は、モーセに導かれてエジプトを脱出した後、神様に不平、文句を言い、彼らのリーダー、つまり神から任命され派遣されたモーセやアロンにさんざん文句を並べました。モーセは「もうこんな人たちの面倒は見られません」と神様に伝えたという聖書の場面が思い出されます。
神さまは「存在の充満」という方です。力のある方であり、わたしたち人間のことをすべてご存じであり、必要な助けをすべて下さる。そしてわたしたちの苦しみや痛みを知っておられる。そしてわたしたちを乳と蜜の流れる地へ導かれる。
いまわたしたちは神の国の完成へ向かって歩んでいるのだ。こういう信仰を、わたしたちはもう一度確かめる時が来ているのではないでしょうか。
その神様はイスラエルの民にどうなさったのか。例えばイスラエルの人々がバビロンに連れて行かれるということがありました。「あなたがたの神はどこにいるのか」と言われて涙に暮れる。なぐさめにエルサレムの歌を歌ってみろと言われた。どうして異国の地にあって神の歌を歌うことができるだろうか。そういう歌が詩編に残っています。神はどこにいるのかと言われて、だんだん信仰が揺れ動く。そういう気持ちがわたしたちの中にも起こることがあるかもしれません。
間もなく東日本大震災から5周年を迎えます。3月11日、ちょうど5周年の日に東京のカテドラルでも、追悼だけでなく、復興を願うミサをささげることになっておりますが、あの時、神様はどこで何をしていたのか。どうしてこういうことが起ったのか。あの人たちは何か悪いことをしたので罰を受けたのでしょうか、という考えを起した人もいるかもしれません。
今日の福音で似たような話しが出ているので、東日本大震災のことを思い出します。ピラトがガリラヤ人の血をいけにえに混ぜたという話が載っておりますし、シロアムの塔が倒れて18人が死んだということもあったそうですね。その人たちは何か悪いことをしたので罰を受けたのかというと、そうではないのだと、イエスは言われた。
東日本大震災が起こった時から約半年経って、日本の司教たちはこの出来事についてのメッセージを出しました。司教全員の名前で発表しました。その内容は二つのことに要約されます。
一つは原子力発電所の事故。これはわたしたちが引き起こした部分が大きい。こんなに危険なものは即廃止、撤廃するべきだ。
もう一つは、然しわたしたちはこの原子力発電の恩恵をこうむって、北の方でつくられた電力を東京で消費するというそういう生活をしてきたわけで、快適な便利な生活に慣れてしまって、その陰の方で苦労している人々のこと思うことが少なかった、いや、なかった。これからはより簡素な生活、そして苦しんでいる人、困っている人に寄り添うキリスト者の生活を致しますという決心を、そのメッセージの中で述べました。
今日の福音でイエスはわたしたちに悔い改めと回心を求めております。今のわたしたちにとって、回心する、悔い改めるというのは具体的にどうすることなのだろうか。毎日のようにそういうことを考えております。皆さんにとって東日本大震災5周年を迎える今の時点で、自分の生活をどう改めることが回心し、悔い改めることのなるのか。
そしてさらに、「いつくしみの特別聖年」を過ごすわたしたちは、本当に一人一人のいのちの尊さをどのように踏まえ、本当にかけがえのない大切な存在として尊敬しているだろうか。わたしたちは、自分によくしてくれる人にはよくすることができますが、自分に迷惑をかけ、面倒をかける人には、イエスの教えるように、その人を大切にする、ということはできていない。そういう自分を思うのであります。
モーセに現れた神は、わたしはどこにでもいつでも、あなたがたと共にいて、あなたがたを助け、力を与えます。その力強い教えをしっかり受け止めて、四旬節を過ごしていきたいと思います。