教区の歴史

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世界病者の日ミサ説教

2016年02月11日

2016年2月11日  東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

今日の世界病者の日のミサの福音として選んだ箇所はヨハネの福音の9章、生まれつき目の見えない人がイエスに、目を開けていただいた次第を物語る箇所です。
当時、病気や障害は罪の結果である、という考えがありました。今日の箇所をさらに読み進めると、ファリサイ派の人が目を開けてもらった人を罵って言っています。
「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」(ヨハネ9・34)
弟子たちは、イエスに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ9・2)
イエスは次のように答えました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9・3)
イエスは罪と障がいの因果関係を明確に否定しました。生来目が見えない人の障がいは、本人の罪のためでも先祖の罪のためではない、と断言したのです。イエスは原因追及という視点からではなく、目的という視点で答えています。

「神の業がこの人に現れるためである。」

いまわたしたちは「いつくしみの特別聖年」を祝っております。
教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」を布告する大勅書「イエス・キリスト、父にいつくしみのみ顔」のなかで、神が抱く「はらわたがちぎれるほどの」と表現される神の愛を語っています。この愛は人となった神イエス・キリストの生涯にはっきりと現されました。
イエスは御自分に従う群衆が、疲れて力尽き、迷い、牧者のいない羊のような状態にあるのを目の当たりにして心のから、彼らに深いあわれみを覚えました。(マタイ9・36参照)
ナインというところで、で一人息子を亡くした母親の葬儀の列に出会ったイエスは、涙にくれる母親の深い悲しみに心から共感し、死んだ息子を蘇らせたのでした。(ルカ7・15参照)
また悪霊に憑りつかれたゲラサの人をあわれみ、男を悪霊の絆から解放して自由にし、自分の家に復帰させました。(マルコ5・18参照)
イエス・キリストによって現れた神の愛はわたしたちの苦しみ、悲しみ、痛み、辛さへの深い関心、同情と共感、そして苦しみから解放する強い意志を示しています。

今年の新年の教皇平和メッセージ冒頭は次のような言葉でした。今年のメッセージの冒頭のことばは非常に印象的です。
「神は、無関心ではありません。神は、人類を大切にしてくださいます。」無関心ではないだけでなくさらにわたしたちへ「はらわたがちぎれるほどの」愛を抱いてくださっているのです。

「神の業がこの人に現れるためである。」
神の業はどのようにして現れるのでしょうか。わたしたち全員、神の協力者として招かれています。神のいつくしみを受け、神のいつくしみを伝え行うべきもの、それはここにいるわたしたちです。

第一朗読を振り返りましょう。
「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」(イザヤ40・30-31)
いつも主のいつくしみに信頼して望みをもって歩みものでありたいです。

第二朗読は、ヤコブの手紙です。病者の塗油の秘跡はこの教えに基づいています。病者のために祈り、また病者の油の塗油をすることは大きな慰めと癒しをもたらします。正しい人の祈りは、大きな力をもち、効果をもたらします。
今日はルルドの聖母の日です。聖母の取次を願いながら、病気、患い、苦しみ痛みを担われた方々のために、神のいつくしみと癒しの恵みを祈り求めましょう。