教区の歴史

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平和旬間2014 多摩地区・立川教会「平和を願うミサ」説教

2014年08月10日

2014年8月10日 立川教会にて

[聖書朗読箇所]

説教 

ことしの平和旬間は「東アジアの兄弟姉妹とともに」を副題に掲げています。

1986年、東京カテドラルでアジア司教協議会連盟の司教たちがミサをささげました。その際、白柳誠一大司教は説教で次のように述べました。

「わたしたちは、この戦争に関わったものとして、アジア・太平洋地域の二千万を越える人々の死に責任を持っています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残していることについて深く反省します。

わたしたちは、このミサにおいて、アジア・太平洋地域におけるすべての戦争犠牲者の方々の平安を心から祈り、日本が再び同じ過ちを犯さないだけでなく、アジアにおける真の人間解放と平和に貢献するよう、教会としての責任を果たす決意を新たにします。」(『戦争から何を学ぶか』新世社、より)

戦争は何故起こるのでしょうか。多くの場合戦争は自国の防衛、そして自国の正義を理由とし、根拠としています。アジア・太平洋戦争も自存自衛を理由に宣戦布告が行われました。当時のカトリック教会の指導者たちもこの戦争を正義の戦争であると述べています。勿論、当時のカトリック教会の指導者たちとしてみれば、組織を守るために、自分たちの思いとは裏腹の発言をせざるを得なかったという側面はあったと思います。

自分を守るためです。誰でも自分が一番かわいいのです。それは本能的と言っていい欲望です。お互いにそうなのです。自分を守るためには相手を倒さなければならないと考えます。いや考える前にそのための行動に走ってしまうのではないでしょうか。しかし、イエスはそうはしなかったのです。その結果が十字架でした。エフェソ書は言います。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エフェソ2・14-16)

同じ神を信じているはずの人々が争い合い、中近東で戦闘を繰り返しています。そのような歴史を見聞きしてきた日本列島の民にとって唯一の神を信じる宗教を受け容れるのは難しいと感じても、止むを得ないとさえ思ってしまいます。

しかし、わたしたちは、それでも、十字架にかかった主イエスを信じ、平和の使徒として証を立てたいと望みます。

十字架にイエスが示すのは神の愛、しかも人を赦し慈しむ神の愛であります。

今日の「聖書と典礼」で司教協議会の「正義と平和協議会」担当の勝谷太治司教が「平和について」という記事を寄せています。平和旬間をすごしているわたしたちにとって示唆に富むよい文章です。

平和は、正義という土台の上に打立てられなければなりません。正義とは、まず人がそれぞれ他者の権利を尊重し義務を実行することです。

しかし、人が自分の正義を力の限り主張するだけでは神の望まれる平和のために働くことにはなりません。愛は相手の過ちを赦すことであり、相手の弱さを受け容れることです。

この意味から平和旬間にイエスの愛を学ぶことは極めて有益であります。山浦玄嗣さんのご講演の中でその点をお話しいただけるとありがたいと思います。何卒よろしくお願いします。

平和のために働くということは困難と犠牲を伴うことです。主イエスはいつもともにいてくださいます。主イエスは言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14・27)

平和の使徒として働くために信仰と勇気を祈り求めましょう。

 

*太平洋戦争開戦の詔勅。「我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立ち上がり、一切の障害を破砕する以外にない。」(現代語訳より)

日本カトリック正義と平和協議会「新しい出発のためにー平和を愛するすべての兄弟姉妹、とくにアジア・太平洋地域の皆さんへ」1995年、を参照。