教区の歴史

教区の歴史

荘厳司教ミサ説教

2013年11月09日

2013年11月9日 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

主イエスは天に上がられるに際し、弟子たちに命じて言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)

また復活したイエスは弟子たちに息を吹きかけて言われました。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20・21)

主イエスは教会を建設し、使徒たちを派遣し、使徒たちが福音を宣べ伝え、罪のゆるしをもたらすよう命じ、また教会がどこにおいても神の国と到来のしるしとなることを望まれました。

この使命を受けた使徒たちはさらに自分たちの使命を後継者に託しました。使徒の後継者はのちに司教と呼ばれるようになりました。そして司教の協力者が今日の司祭であります。

主イエスはご自分の使命を継承し発展させるために司教、司祭を召しだし、さらに任務遂行に必要な恵みをお授けになります。現在、日本では司祭への召命が著しく減少している現実しっかりと受けとめ、本日は司祭への召命のために皆さんとご一緒に祈りをおささげしたい、そのように強く望んでおります。

司祭は弱い人間に過ぎませんが、その司祭を通して働かれるのは三位一体の神であります。

先日10月14日、札幌で司教叙階式があり、ベルナルド勝谷太治神父が札幌の司教に叙階されました。彼の司教としてのモットーは「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(2コリント12・9) です。

これは使徒パウロの言葉です。パウロには何かの弱点、何か辛いことがあったようです。彼はそれを「とげ」(2コリント12・7)と呼んでいます。彼はそれを取り去ってくださるように主に願いましたが、その願いはかなえられませんでした。主の答えは

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるのだ」(2コリ12・9)

でした。そこでパウロは言います。

「だから、キリストの力が宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリ12・9-10)

弱い人間性を通して神の力が働きます。主イエスは三度も自分を否んだペトロを十二使徒のかしらに選びました。イエスはペトロを教会の礎にし、最初のローマの司教にされたのです。

昨年10月11日に始まった「信仰年」はまもなく11月24日、王であるキリストの祭日に終了いたします。

信仰年をすごしながらわたくしは最近、「信仰とは戦い、不信仰との戦い、悪との戦いではないか」と考えています。 

わたしたちの信仰はいつも誘惑にさらされています。誘惑はわたしたちの弱さや欲望へ働きかける悪の力、悪霊から来ます。わたしたちの人生には信仰を危うくし、失望と意気消沈を引き起こすような出来事が沢山存在しています。

エフェソの信徒への手紙では、「信仰の戦い」が「悪霊との戦い」として述べられています。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。・・・どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6・10-18)

ここで使徒パウロは言っています。

わたしたちの戦いは血肉、つまり人間を相手にするものではなく、悪の霊を相手にするものなのです。つまり悪霊がわたしたちの信仰の敵なのです。これは実に容易ならない敵であります。悪霊と戦うためには神の武具を身に着けなければなりません。悪霊の攻撃を防ぐ武器はまず信仰と言う盾です。神の言葉を学び、聖霊の助けを受けて絶えず根気よく祈り続けなければなりません。

さて司教、司祭とはこの悪との戦いに先頭に立って戦う戦士でなければなりません。戦いの相手は自分に反対する、誰某という人間の敵ではありません。血肉ではなく、悪そのもの、悪の霊です。わたしたちを互いに疑わせ争わせ、神への信頼を損ない、利己心を刺激して、神の道からそらせようとたくらんでいる悪の力なのです。

わたしたちは日々「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」と祈ります。この祈りは本当に真摯なものでなければなりません。「悪」の原文のギリシャ語は「悪魔」とも訳せます。悪の力との戦いが信仰であり、その信仰をあかしし、日々奉仕する牧者が司教・司祭であります。

どうか主よ、悪と戦うよき牧者をお与えくださいますように。アーメン。