教区の歴史

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目黒教会ミサ説教(年間第21主日)

2012年08月26日

2012年8月26日 年間第21主日 目黒教会にて

 

第一朗読 ヨシュア24・1-2a、15-17、18b

第二朗読 エフェソ5・21-32

福音朗読 ヨハネ6・60-69

 

(福音本文) 

〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」

イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。

シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 

目黒教会の皆さん、

わたしたちは今日まで五回にわたり、主日の福音でヨハネの福音6章を学んでまいりました。本日はその五回目、最終回です。

先週の福音の中でイエスは言われました。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6・54)

このイエスの言葉を聞いた多くの人々は驚き、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6・60)と言い、イエスに躓(つま ず)きました。

「肉を食べ、血を飲む」というリアルな表現は到底彼らの受け入れるとことではなかったのです。

しかし、イエスが言ったのは、人間の肉体のことではなく、命を与える神の霊のことでした。永遠の命を与えるのは神の霊でありキリストの霊です。「肉は何の役にもたたない」(ヨハネ6・63)のです。

わたしたちはいま、ヨハネの福音でイエスが述べている「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」の 「わたしの肉、わたしの血」とは、ご聖体を指している、と信じます。

聖体はパンとぶどう酒の形態のまま留まっています。しかし聖霊の働きにより、そこには復活したイエス・キリストのからだ、キリストの血が存在しているのです。

葬儀ミサの叙唱に次のようなことばがあります。

「死とは、滅びではなく、新しい命の門であり、地上の生活がおわった後も天に永遠のすみかがそなえられています。」(ミサの叙唱 死者一 より)

葬儀ミサをささげるたびに、故人の生涯を思いながら、死後の命、新しい命、永遠の命についてしみじみと考えさせられます。

使徒ヨハネは、永遠の命とは、わたしたちは死後はじめて受けるのではなく、地上においてすでに与えられるのだ、と教えています。イエスは次のように言われました。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へ移っている。」(ヨハネ5・24) イエスはまた言われました。

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6・29)

この「神の業」とは神が行われる業である、と解釈できますが、同時に神がお望みになる事である、とも考えられます。「神がお遣わしになった者、すなわち、イエスを信じることが神の業である」とはっきりイエスは述べています。

ところで神の恵みがなければイエスを信じることはできません。ですからイエスを信じることができた、とすればそれは神の恵みであり、神がなさったことになります。

他方、人が神の恵みに応えようとしなければ信仰は成り立ちません。人々はイエスに躓きイエスを信じませんでした。その結果、神の業を行うことができなかったわけです。

永遠の命はイエスを信じる者に与えられる、キリストの復活の命です。それは神の霊である聖霊を受けることによって与えられるのです。

したがいまして、永遠の命に入るためには何よりもまずイエスを信じる、という信仰がなければなりません。今日の福音でシモン・ペトロは次のように信仰告白をしました。

「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6・68-69)

「イエスとは誰であるのか」ということは初代教会および古代教会にとって大きな問題でした。激しい議論が行われ、何度も公会議が開催されて、その結論が『信条』として決定され宣言されました。その代表がこんにち主日のミサで唱える『ニケア・コンスタンチノープル信条』です。

ヨハネによれば、地上の生涯において永遠の命は始まっています。そうであれば、わたしたちがキリストへの信仰のうちに、真心を込めて日々ささげる愛の行いは、それがどんなに貧しいものであっても、永遠の命へつながる価値のある献げ物となる、と信じます。

困難と問題の多い現代を生きるわたしたちですが、この信仰と希望を持って自分の務めを果たしていくことができますよう、祈りましょう。