教区の歴史

教区の歴史

麹町教会年間第33主日ミサ説教

2010年11月14日

2010年11月14日 麹町教会にて

 

第一朗読 マラキの預言(3・19-20a)

第二朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(二テサロニケ3・7-12)

福音朗読 ルカによる福音(21・5-19)

 

待降節が近づいてきました。年間の典礼暦の終わりの部分で、教会は世の終わりについて語ります。

今日のルカの福音で主イエスは言われます。

「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる、しかし、あなた方の髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかちとりなさい。」

「忍耐によって、あなたがたは命をかちとりなさい」というこのイエスの言葉について思いますことをお話したいと思います。

 

実に人生は苦しみであります。日本は長寿時代になり、100歳以上3万6千人と言われています。他方、年間3万人もの人が12年連続、自死を遂げています。この現実をどう受け取ることができるでしょうか?その原因・動機は健康問題、そのなかでもうつ病などでしょうが、経済問題など他の原因も同時に関係しているようです。人生の苦悩が生きる力を奪っていると言えるのでないでしょうか。

人生は苦しみです。仏教では四苦八苦の教えがあります。四苦は、生病老死、それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦が加わって八苦です。

この苦しい人生において人が生きるには「生きがい、生きる理由、動機」が必要です。

現代の人々は孤立し孤独になっています。人は人とのつながりの中で生きるものです。つながりが薄くなり弱くなれば、生きる力もそがれてしまいます。家庭も地域も互いに助け合い支えあう働きが著しく弱くなっています。

教会こそが荒れ野のオアシスとなる、互いに助け合い支えあう共同体にならなければなりません。

また人は神とのつながりの中で生きるものです。人は神から出て神に帰るものです。神様から召命をいただき、神の御旨にしたがって日々の生活を神様にささげます。今日の第2朗読でパウロは勧めています。怠惰な生活を避け、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」

わたしたちは自分自身の生活のために働き、ほかに人のために働き、神様に仕えるために働くのです。わたしたちの教会はそのような働きで互いにつながっている荒れ野のオアシ スとして成長していきたいと願っています。

キリスト者はこの世にあって、信仰のゆえに試練を受け、迫害に合うことがあります。しかし、「しかし、あなた方の髪の毛の一本も決してなくならない」のですから、忍耐によって永遠の命をかちとらなければなりません。

使徒パウロは言っています。

「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:23-25)

わたしたちが忍耐して待ち望むことができるのは、信仰に基く希望によるのです。教皇様ベネディクト16世の2番目の回勅は『希望による救い』であり、この表題は、パウロのローマの教会への手紙のこの部分からとられています。忍耐と希望によって日々の生活、困難を神様におささげいたしましょう。

パウロは、人間だけでなく、すべての被造物は終わりのときには贖いと解放に与ると言っています。

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(ローマ8・19-21)

そのおわりのときにわたしたちは「新しい天と新しい地」を見ることができるでしょう。

使徒ペトロは言っています。

「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。

しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」(一ペトロ3・12-14)

わたしたちに

聖霊が豊かに注がれ、救いの完成への希望の強めてくださいましように。