教区の歴史

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復活の聖なる徹夜祭説教

2009年04月11日

2009年4月11日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

聖書朗読
創世記22・1-18
出エジプト14・15-15・1
イザヤ54・5-14
使徒パウロのローマの信徒への手紙6・3-11

福音朗読
マルコによる福音16・1-7

 

 

今年は旧約聖書の7つの朗読の中より3箇所を選びました。通常は第一朗読には創世記の天地創造の箇所が選ばれますが、今年は、アブラハムの犠牲の話を採りました。

話はお聞きになったとおりです。わかりやすく朗読してくださいました。しかし、正直に言ってわかりにくい話です。イサクはアブラハムが高齢に達してからやっと授かった独り息子です。その独り息子を焼き尽くす献げ物として犠牲にしなさい、という神の命令が下されたのです。すでに神はアブラハムに、「あなたの子孫は空の星のように増える」と言われ、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15・6)とあるのです。その同じ神が独り子イサクの命を求めたのです。わかりにくい話です。理不尽で残虐、残酷な要求であると思わないわけにはいきません。それなのにアブラハムはその命令に従うのです。ろばに鞍を置き、薪を用意し、二人の若者と息子イサクを連れてモリヤの山に向かいます。三日もかかる旅程でした。イサクには神の命令を話していないわけです。それでイサクが父にたずねます。

「お父さん、火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする子羊はどこいるのですか。」

アブラハムは、「わたしの子よ、それはお前だ」とは言いませんでした。アブラハムの答えは「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる。」

しかし、アブラハムは息子を縛り、薪の上に載せ、刃物を取って息子を殺そうとしたのです。献げるということは、この場合殺すことなのです!

このときイサクは何歳だったのでしょうか。唯々諾々(いいだくだく)と父のなすがままにされていたのでしょうか。

アブラハムは信仰の父と呼ばれ、その信仰のゆえに、キリスト教徒だけでなく、ユダヤ教徒、イスラム教徒からも尊敬されています。ではその子イサクはどうだったのでしょうか。イサクの信仰も同じように称賛されるべきではないですか。イサクの心には、独り息子を神に献げる父への猜疑心、怒り、反抗、恐怖、憎悪・・・という感情は湧いてこなかったのでしょうか?

結果的にはアブラハムの言葉通り、いけにえは主が備えてくださったのです。

従来イスラエルの神を「ヤーウェ」を呼ぶことがありました。しかし、「主の名をみだりに呼んではならない」という十戒の第2の戒めに従い、神を「主」と読み替えることになっています。ここでも新共同訳の「ヤーウェ・イルエ」は「主は備えてくださる」と読み替えます。教皇庁の指令に従い、そのように日本カトリック司教団は通達を出しました。

使徒パウロはアブラハムの信仰にたびたび言及し、アブラハムは信じたゆえに義とされた、と強調しています。このアブラハムの信仰はこのイサクを犠牲にする話で示されています。新約聖書のヘブライ人への手紙では、アブラハムの信仰を次のように述べています。

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(11・17-19) 

さて復活徹夜祭は洗礼のときであります。毎年、洗礼のためにパウロのローマの信徒への手紙6章が読まれます。パウロは教えています。洗礼を受けるということはキリストとともに葬られ、キリストの死に与るものとなることである、と。初代教会では全身を水に沈める、浸水の洗礼、浸水礼が行われていたそうです。それはキリストとともに死んでキリストと共に新しく生まれ変わることを表すためでした。

今日の出エジプト記の朗読も洗礼の意味を説明するために引用されます。イスラエルは水をくぐって紅海を渡り、エジプトの奴隷状態から解放されました。同じように洗礼を受ける人は洗礼の泉により罪の奴隷から解放されるのです。

わたしたちは、アブラハムが受けた同じ試練ではないとしても、非常に理不尽と思われる試練に出会うことはないでしょうか、あると思います。理解しがたい、受け入れがたい試練にわたしたちはたびたび遭遇します。どうしてこのようなことがあるのでしょうか、と神に訴えたい事態が起こります。十字架の上でイエスは「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。しかし十字架の上での最後の言葉は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)でした。自分にとって都合のいい「わたしの解釈する自分の神」が消滅したときに主の復活の世界へ入ることが出来るのかもしれないと思います。

実に今日の朗読のイザヤが言っております。「わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約は揺るぐことがない。」(イザヤ54・10)

この主の言葉は今のわたしたちへも向けられています。どんなことがあっても主の慈しみは取り消されることはありえないのです。

復活し、ガリラヤで弟子たちに現れたイエスはガリラヤではない、この日本の地においても復活の光と力を現し伝えてくださると信じます。わたしたち日本の教会が復活のキリストのよいしるし、証人となることができますよう、この夜2009年の復活徹夜祭のミサで、特に祈りたいと思います。